六、心魂開闢 陸



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 物には魂が宿る。
 長年大切に使われてきた物、特に愛情を注いできた物には、心が芽吹くと人々に信じられている。古来より血に刻まれたその思想は、術師の中でも共通認識として存在し、付喪操術や傀儡呪術学の基礎となる考え方でもあった。
 ただ、実際に個体として明確な意思を持ち行動する物は大変珍しい。ましてや人の形を象った物など、そうそう見かけるものではなかった。
 呪術界に君臨する両面宿儺と呼ばれる男もまた、己の忠僕が付喪神に近しい類稀なる存在になるとは微塵も思っていなかったのだった。

 千乃はまごう事なき物≠ナある。陰陽術、構築術式、傀儡操術、そのどれでもあってどれでもない、とある 依代・・と呪力によって生み出された物。それは幼少の宿儺が、独りで世を渡るための道具であり、手段に過ぎなかった。
 人型は民の生活に紛れ込みやすく、中でも女型は周囲の警戒の目を掻い潜りやすい。利便性だけで作り上げた結果、宿儺は最も使いやすい道具として千乃を重用し続けた。
 そうした日々の積み重ねにより、千乃に魂が宿ったのである。
 完全なる偶然の産物。だからこそ、宿儺にとって千乃は己の予想を超えた好奇≠ニなっていた。




  簀子 すのこに座した宿儺は、杯を傾けた。薄く張られた水面には、月が揺らめいている。それをぐい、と飲み干し、先ほどから傍らで視線を泳がせている千乃の方へ杯を差し出した。
 千乃は酒の入った 瓶子 へいしを持ち上げ、空になった杯へ注ぐ。その指先が微かに震えているのを目の端で捉えた宿儺は、喉の奥で笑った。

 ──そうあからさまに、動揺せずとも良いものを。
 千乃自身は己の変化を必死に隠そうとしているのだろうが、その無駄な努力が何より可笑しくて可笑しくてたまらなかった。
 宿ったばかりの魂はまだまだ幼く、見かけと釣り合っていなくとも仕方がない。しかし宿儺は、制御の効かない感情に振り回されている千乃を揶揄い、怯えた彼女の様子を眺めることに愉悦を覚えていた。

 満たされた杯を口へ運ぶ。独特の風味が鼻に抜けていくのを感じながら、宿儺は徐に口を開いた。

「千乃」
「……はい」
「独りで歩く京はどうだ」

 微かに息を呑む音がした。虫の声にかき消されていてもおかしくないほどの小さな戦慄き。常人であれば聞き逃していた緊張の音を、宿儺は確かに拾い上げた。それでいて、気づかないふりをする。静かに酒を呷り、千乃の返答を待った。

「……どう、とは」
「深い意味はない。ただの駄弁だ」

 答えを絞り出した千乃は一呼吸置き、ただ月を眺めるだけの宿儺へ淡々と「ご報告の件以外は、特に以前と変わらぬ様子でした」と告げた。
 カツ、と杯が置かれる。
 宿儺はようやく千乃へ視線を向けた。

「つまらんな」

 向けられる感情がただの怖気というのは、煩わしくもあり、どこか腹立たしくもあった。その反面、狼狽える様が滑稽でいて、どうしようもなく興味を唆る。
 笑え、と言えば、それはそれは綺麗に笑うのだろう。長年見継いできた千乃は、命令には忠実に、その他には何の興味も示さず虚を見つめるだけのただの物だった。それが自ら笑んだのなら、さぞ可笑しいに違いない。
 宿儺は緩やかに月明かりを裂き、千乃へ手を伸ばす。

「そう怯えるな」

 手のひらに収まる白い顎。反射的に萎縮した細い肩。
 不安げに揺れる千乃の視線を浴びながら、宿儺は指の腹でまろい頬を押し上げる。眼差しに不釣り合いな口角の上がり様に、ケヒッと一つ笑った。

「まぬけ面も、存外似合うではないか」
「……は」

 千乃の口から漏れ出た吐息は、空漠たる疑問を乗せて闇に溶けていった。






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永遠に白線