七、主君と知己 壱
「指、切りますよ」
唐突に背後から声をかけられ、思わず肩を揺らした。手元が狂い、菜葉を刻んでいた包丁の刃が言葉通りに指へ向いた。
あ、と無意識に漏れた声が裏梅さんと重なる。直後、人差し指にチリ、と鋭い痛みが走った。
「すみません。驚かせるつもりでは……」
「いえ、集中を欠いていた私が悪いので謝らないでください」
「傷は?」
指先の薄い皮と肉を切り裂いた包丁を置き、バツが悪そうな顔で私を見下ろす裏梅さんへ、患部だった場所を見せる。
「治ったので大丈夫ですよ」
傷はすでに跡形もなく塞がっている。
すると、それを見た裏梅さんは思い出したように膝を打った。
「普段千乃が怪我をしているところを見ないので忘れていましたが、瞬時に反転術式がかかるというのは本当だったんですね」
「……宿儺様がそう仰っていたのですか」
「ええ」
知らなかった。もちろん人間の自然治癒と比べれば早すぎるとは思っていたけれど、術式だったとは。
確かに、傷がつくことを発動条件にすれば、私の意思など関係なく治癒することができる。私が怪我をするたびに手間をかけて反転術式を施す手間もなければ、私にわざわざ知らせる必要もない。実に効率的だ。
そうだとしても、やはり疎外感が胸を突く。私は知らないことが多すぎる。たかが駒の一つに一々説明することもないと言われればそれまでだが、私にも教えて欲しかった。
どうしようもない想いが胸に積もる。いつか溢れ出てしまうのではないかという恐怖がまた胸の内を刺激した。
なるべく何も考えないように意識を外へ向ける。黙り込んだ私を不思議そうに見つめる裏梅さんと目があった。
「裏梅さん、血が」
「血?」
頰を掠めた飛沫が線となって乾いている。血が付着している部分を示すと、裏梅さんは合点がいったように頷いた。
「ああ、さっき
もしくは解体の時に、と言う裏梅さんはまな板の上の肉塊を指さした。
状況を理解した私はああ、と声を漏らし、徐に懐から手拭いを取り出す。そして、厨の隅に置いてある瓶の中から水を掬い、湿らせた布を裏梅さんへ手渡した。
「自分では見えないので、拭いてもらえますか?」
「分かりました」
手拭いを受け取り、ひやりと少し冷たい肌に優しく布を滑らせる。
端正な顔。そこに収まる二つの眼に己が写っている。
私はふと手を止めた。
「千乃?」
不思議そうに問いかける裏梅さんへ、写し出された己の顔を見つめながら息を吐いた。
「……私は、まぬけ面なのでしょうか」
「は?」
「いえ、その、宿儺様に指摘をされたのでそうなのかと」
すぐさま言い訳を並べ、あからさまに目を丸くした裏梅さんから逃げるように、桶を手にして厨の外に出た。
井戸から汲み上げた水を覗き込む。水面には見慣れた顔が写っていた。
つまらん∞まぬけ面≠ニ言う宿儺様の声が頭から離れない。このままでは指を切るどころではない失態を犯しそうで気が気ではない。
どちらも己ではどうすることもできないことだとしても、宿儺様を不快にさせてしまったことが何より恐ろしかった。
このままでは捨てられるのが目に見えている。それだけはどうしても阻止したい。悩みに気を取られて失態を重ねては本末転倒。これ以上、不快に思われる行動をしないよう努めるしか思い至らない。
桶を抱え直し、気を引き締める。蒸された米の甘い香りと、熱を帯びた煙たい炭の匂いが混じり合う厨の中へと再び足を踏み入れた。
膳の上に盛り付けられた料理は、血が滴る肉塊の生々しさを一切感じさせずに美しく並んでいる。
味はもちろんのこと、人は目でも食事を楽しむらしい。本質は変わらないのに見た目で味の感じ方が違うなんて、随分とおかしなことだと思っていたが、元より食欲を満たす行為である以上、食欲をそそらない見た目では埋められないものがある。
気持ちに左右されるものは、私が考えるよりずっと多いのだろう。
「珍しく豪勢だな」
「久しぶりに活きの良いのが手に入りまして。腕を奮いました」
宿儺様と裏梅さんの会話に耳を傾けながら、静かに膳を置き部屋の隅に控える。
つい先刻までは人として生きていたはずの肉が、丁寧な下拵えと調理によって一見しただけではそこらの家畜と変わらぬ肉料理に姿を変えていた。それらが宿儺様の腹に収められていく様を、空気に徹しひたすら眺める。
主の至福の時を邪魔してはならないが、宿儺様が私を不快に思うならば、この場にいることすら憚られる。しかし職務を放棄するわけにもいかなかった。
風に膨らむ
やっと色づいた山並みも、あと数日もすれば枯れ落ちるだろう。紅葉に囲まれたあの禪院は今が一等見頃なはずだ。
約束の日は明日。都へ降りることは許されているから、不審に思われることはなさそうだけれど、一抹の不安が付き纏う。どうしてそう思うのかすら分からない不明瞭な靄。明確な形がない緊張感に、指の先から足の先まで侵されていた。
すっかり空になった皿の前に膝をついた。厨の片付けのためか、裏梅さんは既に部屋を後にしていた。私も早く向かわなければと、膳に手を掛ける。
「食に重きを置く意味が分かるか」
静まり返った空間に、宿儺様の声が響く。あの夜以来、声をかけられていなかったせいか、驚く声すら出ない。
私はただ首を横に振った。
「肉体を持つ者は食わねば死ぬ。術師であろうと、人である限り本質は変わらない。皆等しく同じならば、食らうものを区別するのもおかしな話だ」
「……人肉嗜食のことですか」
宿儺様は特別返事をせず、杯の縁をゆるりと撫でた。
食を快感とし、中でも人間の肉をいたく気に入っていることは知っている。宿儺様の元で過ごしていればそれが普通であり、特別不思議に思ったことはない。寧ろ人が共食いをしないことに驚いたぐらいだ。今更それを言及するような会話を振る宿儺様の意図が読めない。
いや、今までだって何を考えているのか読めたことはない。従者にとっては主の言葉が全て。理解しなくたって何の問題も――
ガチャン。膳に掛けていた手首を取られ、引き寄せられる。鋭利な眼光は、雑然と膝元に転がる器など気に留める隙など与えない。
前のめりでただただ宿儺様を見上げる私は、またしてもまぬけ面を晒してしまっているに違いない。
「あの、宿儺様」
どうかされましたか。そう平静を装うように口を開きかけた刹那、顔の端に何かが這った。ぬるり、生暖かい。
「食われる、とでも思ったか?」
その言葉にようやく腹部を割ってはみ出す舌に舐められているのだと理解する。ぞくりと瞬時に走る冷たいものを追って、肌の上に熱が広がっていく。
私は全ての感覚を追い払うように、すぐさま首を振った。食われるなんて、そんなこと一瞬たりとも考えなかった。恐怖したかを試すような口ぶりだったが、何より驚きの方が勝る。
否定してもなお弄ぶように頬から首筋へと身体の輪郭を這う舌。そのまま顔を赤くすればいいのか、はたまた青くすればいいのか。それすら分からぬまま硬直していると、宿儺様はフ、と鼻で笑った。
「悪食のつもりはないぞ」
「さ、左様で」
絞り出したきごちない返答によってようやく解放される。宿儺様は随分と軽い足取りで去っていった。
取り残された私は熱を帯びた肌をさする。やはり何が何だか見当もつかず、首をかしげるばかりだった。