3.風化した愛 I



 いくら悩んでも思い出せないことはいくらだってある。
 日中は仕事に追われ、帰路では夏油くんに追われながらも、昔の記憶に想いを馳せて数日。今日は仕事帰りに最寄駅に待ち構えている夏油くんの姿がなかったことに少々驚きながらも、恐らく緊急の任務に飛ばされたのだろうと予測を立てる。
 そもそも毎日同じ時間帯に会いに来れていたことがおかしかったのだ。きっと補助監督に無理を言っていたに違いない。
 特級の彼に限って何もないとは思うけれど……と身を案じた瞬間、わたしは勢いよく首を横に振った。
 これだから呪術師は嫌なんだ。死が身近にありすぎて、不安でしょうがない。
 わたしは常に大切な人の生死を考えて生きるのだけは嫌なのだ。そこそこの平和の中で平々凡々の幸せを手にできればそれで──
「は……?」
 思考を止め、自宅の前で立ち竦んだ。五階建てのアパートの上部が吹き飛んでいる。何を言ってるんだと言われるかもしれないが、本当にポッカリと穴が空いている。
 救急や消防は来ていないようだったけれど、規制線が何重にも貼られていて、帰ることができないのは確定した。
 ズリ、と肩から鞄が滑り落ちる。ノートパソコンが飛び出てしまったのか、足元で酷い音が鳴ったけれど下を見る気力もない。
「や」
 規制線の向こうから手を上げてこちらにやってくる男に、一瞬で何が起きたか分かった。
「いやいやいや、嘘でしょ。これ夏油くんがやったの⁉︎」
「私のせいにするなんて酷いな。呪霊がちょっと横に逸れただけだからね、しょうがない」
「しょうがなくはないんだよなぁ……」
 今日はこの近くで任務だったらしい。どうやら帳を張った範囲内ギリギリに運悪くわたしの自宅があり、こんなことになったとのことだ。
 事前に避難は済んでいて人的被害はなかったのはよかった。数日前に来ていたガス点検のお知らせはそういうことだったのか、と腑に落ちたが、綺麗にわたしの部屋の天井が吹き飛ばされていたのが気になるところではある。
「被害が出た住人には修繕までの宿泊場所は用意されてるんだよね?」
「それはもちろん。補助監督が手配中だよ」
「……嫌な役目だね、可哀想に」
 数人のスーツ姿の人間が皆必死に何処かへ電話をかけている。同情と感謝を込めて合掌する。
「それじゃあ、私たちは帰ろうか。始末書はこの場が収拾しないと書けないしね」
「待って。わたし、帰る家ないんだけど!」
 倒壊した自分の部屋がある場所を指差して叫ぶ。
 すると彼は不思議そうに首を傾げた。
「そんなの、私の家に決まってるじゃないか」
「……は?」
 固まっているうちにあれよあれよとご機嫌な夏油くんによって車に乗せられてしまった。
 そのままドナドナされるにしても、鼻歌を歌いながらハンドルを握る彼の口ずさむ曲がバック・トゥ・ザ・フューチャーのテーマソングなのが気になって仕方がない。もしかすると、このまま列車にでも突っ込んで大破するのではないか。そう助手席でヒヤヒヤしたのはいうまでもない。まったく、一体どんな選曲なんだ。
 心の中で突っ込んでいるとエンジンが停止する。
 ……ついに着いてしまった。
 わたしはロックが外れた瞬間、即逃走するつもりで外に飛び出した。
「いや、家って高専かい!」
 日が落ち、すっかり辺りが暗くなっているせいで、どこへ向かっているか分からなかったけれど、目の前には馴染みのある風景が広がっていた。
 拍子抜けしたものの、高専ならば夏油くんと二人きりというなんとも気まずい空間にはならないはずだ。
 彼も教師という立場上、これ以上意味の分からないストーカー行為を職場で続けることはないだろう。……うん、ないと思いたい。
「もともとは外に部屋を借りてたんだけど、急に呼び出されることを考えるとやっぱり高専内にいた方が何かと便利でね」
「さすが特級様……ブラックだねぇ」
 万年人手不足の呪術界で重宝されるとこんなに自由を差し出さなければならないのか。
 元準一級の身でも拘束されることに嫌気をさしていたのだから、特級の彼は相当だろう。何せ特級の代わりなどどこにもいないのだから、課せられるものは必然的に大きくなる。
 わたしは少し同情しながら屋内へ入っていく夏油くんの後を追う。
 彼は部屋の中から灯りが漏れているドアの前に立ち、ガチャリと戸を開けた。
「ちなみに、全く同じ理由で悟の部屋があるよ」
「それもう学生寮に住んでる時と変わんないよね……」
 風呂上がりなのか、濡れたタオルを首から下げアイスを咥えた完全オフモードの五条くんが、こちらに呆れた視線を向ける。
「ねー君たちーノックもなしに開けるなんて非常識じゃないー? もし僕が全裸だったらとか考えないわけぇ?」
 意外にもまともなことを言う五条くんに首を傾げ、記憶を辿る。
 学生時代、了承なしに勝手に部屋に入ってくるのは日常茶飯事。男子同士ならまだしも女子部屋でもお構いなしに入ってこようとするものだから、確実に鍵を閉める習慣がついた。お陰で今でも鍵を閉め忘れることはないので、防犯意識の底上げに一役買った彼には非常に感謝している。
 ……な〜んてことは一ミリも思っていない。着替えの最中に入ってきて、堂々と私の下着姿を目に焼き付けた上で「ダサくね?」と余計な一言を言い放ったことは一生許さない。
 みんながみんな常に上下が揃ってるわけじゃないし、動くと決まっている日にお気に入りの可愛いものを付けていると思うなよ。本当に死ぬまで反省して欲しい。
「……五条くんってそういうの気にする人じゃなかった気がするけど。プライバシーもデリカシーも皆無だったよね?」
「いつの間にか学びを得たのか、それともこの歳になってようやく恥じらいを覚えたんじゃないかな?」
「遅い思春期……可哀想に……」
「然るべき時に迎えないとこうやって歪な大人になるのさ」
「学生さんには反面教師してもらいたいね」
「心配しなくてもみんな賢いからね。悟の言うことなんてこれっぽっちも聞いてないよ」
 夏油くんと好き勝手に耳打ちしあっていると、五条くんはきゅるっとその大きな蒼い瞳を潤ませる。
 そして口元にわざとらしく指先を持っていき、女性的に身体をくねらせた。
「まあ〜二人とも息ぴったりで随分と仲がよろしくって! 悟、涙が出そうっ!」
「…………」
 キャピッと効果音がつきそうな動きに、何の茶番だと思いつつ、息ぴったりと称された夏油くんと顔を見合わせる。
 突然付き纏い始め、好きだと言った彼とこうして仲良くしているのはなんだかおかしな気がして、サッと顔を背ける。
 今さら込み上げる気まずさは、とっくに忘れていた過去の記憶を刺激する。
 わたしは何も気づかなかったふりをして、未だ内股で膝を擦り合わせている五条くんに白けた視線を向けた。
「おやすみ」
「あはー、つれないねぇ」
 バタン、とドアを閉める。そして夏油くんが歩き出した方向に背を向けた。
「どこに行くんだい? そっちじゃないよ」
「向こうの部屋。空き部屋ならどこでも使っていいんでしょ?」
「まだ清掃が入ってないから埃っぽいよ」
「だったらどこで寝ろと?」
 少し突き放すように言う私に、夏油くんは「私の部屋」と予想通りの答えを繰り出した。
「無理」
「なんで」
「夏油くんと一緒に寝るくらいなら、五条くんのとこ行くよ」
「は? ダメに決まってるだろう」
 彼は首を振ったわたしの腕をすかさず掴んだ。グッと引き寄せるように力が入る。
 わたしも負けじと振り払うべく腕に力を入れる。
「じゃあ廊下で寝る」
「風邪ひくよ」
「だったら別に埃っぽくても空き部屋で寝るよ」
 真剣な眼差しを向けると、彼は根負けしてわたしの腕を解放し、頭を抱えた。
「はぁ〜、何で君はそんなに頑ななのかな?」
 こめかみをグイグイと推している彼に、わたしは曖昧な言葉しか思いつかないまま口を開く。
「それは……成り行きとはいえここまでホイホイ付いてきちゃったけどさ、夏油くんとはあまり、その……」
 気まずさに思わず視線を泳がせる。すると逃がさないとばかりに彼に詰め寄られた。
「その、何?」
「さっき、思い出しちゃって」
「……思い出す?」
 そう問いかける彼にわたしは大きく頷き返した。
「わたし、昔夏油くんにフラれたよね?」
 学生時代に、と言い継ぐと彼に話す隙を与えずに矢継ぎ早に言葉を続ける。
「もちろん時効だって分かってるし、今は夏油くんのことなんて何とも思ってないよ? でも今恋愛関係で相当凹んでるからさ、古傷をわざわざ抉るようなことしたくなくて」
 今のわたしはボロボロで色々な傷を負っているようなものだ。それを癒すことが最優先で、わざわざ過去の傷跡を気にしても悪化するだけだ。今はとにかく新しい恋に目を向けたい。
「今、サラッとフラれたような気がするけど気のせいかな」
「いや。全く気のせいではないよ」
「傷つくなぁ。私は君のこと好きなのに」
 軽々しく好きなんて言う彼を少し腹立たしく思いながらも、諭すようにゆっくりと口を開いた。
「それこそ意味がわからないよ。わたしのこと昔フッたくせに今更好きだなんて。呪術師辞めてから全く関わりなかったのに、いつ好きになったっていうの?」
 一番の疑問。それを聞いた夏油くんは平然と言い放った。
「ずっと昔から」
「は?」
 この男は何を言ってるんだ。フッたのに昔から好きだったって、一体どういうこと? おかしくない? とにかく意味が分からない。
 夏油くんは情報が完結せず固まっているわたしの頬を不意に撫でる。
「言っただろう。私が絶対に裏切らない一途な相手だって」
「はぁ〜〜?」
 意味の分からないことばかり言う彼にじわじわと怒りが込み上げてくる。
 わたしは頬に添えられた彼の手をはたき落とした。
「信じられない! 何でそんな嘘つくの⁉︎ わたしのことからかって楽しい⁉︎」
「信じるも信じないも嘘じゃないからね」
 少しも悪いと思ってなさそうに意地を張った言い方の彼に沸点に到達する。しかし、わたしもいい大人だ。ぐっと怒りを噛み殺し、恨み言を吐かないよう気をつけながら言葉を絞り出す。
「もういい……なんかどっと疲れた……早く寝たい……」
「わかった。私は悟の部屋で寝るから。君は私の部屋使って。部屋にあるものは何でも使っていいから」
 ポケットから取り出された鍵を手の平の上に置かれる。
「おやすみ」
 そう一言残して彼は五条くんの部屋に消えてしまった。中からしばらく言い合う声が聞こえる。きっと言った側から急に押しかけてくるな、どっちがベッドで寝るんだ、と論争を繰り広げているのだろう。
 わたしは恐る恐る夏油くんの部屋のドアを開け、足を踏み入れる。
「ほんとなんなの……!」
 ガチャリ、と鍵が閉まる音を聞きながら、怒りを鎮めるために息を吸う。あの頃とは違う夏油くんの匂いが肺を満たした。
 今の彼は知らない夏油くんだ。一緒に過ごした学生時代から、随分と時が経ちすぎている。
 わたしが知る彼の匂いは、もっと背伸びをしたような青さが隠しきれないものだった。大人ぶった香水の香りと、制汗剤の爽やかすぎる香りが混じったような、そんな匂い。それがわたしの恋心と結びつき、何度も胸を痛めた。
 今はとっくに風化した想いだ。悩む必要もない。
 窓から差し込む街灯の灯りを頼りにベッドを目指す。つま先に何かがあたり倒れる音がした。
 足元を見ると本の山が崩れている。慌ててそれをかき集め、何となく積み上げるついでに本の内容を把握していく。どれもSF要素の多いファンタジー作品だ。たしかに昔からそういったジャンルの作品に多く触れていたような気がする。現実主義だと思っていたせいか、意外に思ったことが印象深い。
 そこまで考えて思考を止めた。また無意識に夏油くんと過ごした記憶を掘り起こしてしまった。先ほどだって、別に過去を掘り返すつもりじゃなかったのに。
 風化したとは言ったけれど、あれはあれでいい思い出になっている。夏油くんが矛盾したことを言うから、ついムキになってしまっただけだ。
「やめやめ、寝よう」
 今何を考えても答えは出ない。もう考えない方がいいと自分に言い聞かせながら、ベッドに身をなげうった。