4.風化した愛 II
初夏の風がうなじをくすぐった。その焦ったさが浮き足立つ心をそそのかし、後先を考えずに伝えるはずではなかった恋心を後押しする。
「わたし、ね。夏油くんのこと……好き、なんだ」
訓練後の汗を流すために水道の水を被っていた彼は、ゆっくりと顔を上げた。キュッと蛇口を閉め、濡れた髪を搔き上げると、滴る水しぶきが陽の光を浴びてキラキラと輝く。
この瞬間が世界で一番美しい景色だと思った。彼によってもたらされたそれは、まさしく恋の力によるものだった。
見惚れていたわたしは高鳴る胸を押さえ、自分が唐突に浴びせてしまった告白の言い訳を並べていく。
「いや! その、ただ言いたかっただけだから、返事とかは別に」
「ごめん」
水を打ったような静けさ。高ぶっていた感情が一瞬にして凍つく。
「悪いけど、そういうことは考えられない」
そう言ってタオルを被り、その場を離れる彼の背中になんと声をかけたかは覚えていない。
ただ言わなければよかったという後悔と、返事を必要としていなかったのに言葉を遮られた怒りと、考える間もなく明確な拒絶を突きつけられた悲しみがごちゃ混ぜになって胸の内を満たしていた。
ピピピ、と電子音が鳴り響く。
目を覚ますと窓から夜明け前の空が顔を覗かせていた。
「やっぱりちゃんとフラれてるよなぁ」
最悪の目覚めに、ベッドの上で膝を抱えて大きなため息を吐いた。何故いまさら学生時代の夢を見たのかは明確だった。
「夏油くんのせいでいろんなことを思い出しちゃったな……」
昨日、彼が変なことばかり言ってきたのが原因だ。本当にずっとってどういうことだ。……嘘つき。
とにかく彼の部屋から早く出たくて、手早く身支度を整える。
朝の散歩ついでに懐かしい学び舎を散策していると、背後から「どちらに行かれるんですか?」声をかけられた。
「伊地知くん! 久しぶり!」
先日高専にやって来た時に、彼が補助監督の道を選んだことだけは聞いていたけれど、顔を合わせるのは学生ぶりだ。
スーツを着こなすどころか、どこかくたびれた印象の彼は、申し訳なさそうに眉を下げた。
「お久しぶりです。事情は五条さんと夏油さんから聞いています……災難でしたね」
「本当に。でも後処理させられる伊地知くんたち補助監督の方が大変だよね」
「まぁ仕事ですからね。お二人からの無茶振りにも慣れています」
「……と、いう建前は一旦置いておいて、正直に言うと?」
「いつもキャパシティの限界を試すような仕事を投げられては身が持ちません……一人で抱えるには重すぎます……」
「あらまあ、可哀想に……」
やっぱりそうなるよね、と同意と同情を示しながら、ウンウンと何度か頷いた。
彼の目の下には立派な隈が浮かび上がっている。十中八九、わたしの家があるマンションを大破した件の後処理をしていたのだろう。
こんな彼を見て、早くどうにかしてよ! と問い詰めることなんてとてもできない。
「家の件はご迷惑をおかけしますが、しばらく高専の内を自由に使ってもらえれば……食事は学生と一緒でよければ食堂を使ってください」
「え! ご飯までいただいていいの?」
「もちろんですよ。衣食住を不自由させるわけにはいきませんので」
「じゃあありがたく、今日の朝食から使わせてもらうね」
「分かりました。そのように伝えておきますね」
手元のタブレットでテキパキと連絡を入れる伊地知くんの仕事ぶりに感心しつつ、再度礼を告げる。
もう少しゆっくりしたら食堂に向かおうと考えながら、あてもなく歩き出す。雲ひとつない晴天にはすっかり太陽が登っていた。
「おはようございます」
今日もいい天気になりそうだと空を見上げていると、前方から歩いて来た人物がペコリとわたしに向かって一礼する。
「乙骨くんだ!」
「あれ、どうして僕の名前……」
「え、あ、そうだよね。この前五条くんから教えてもらったの」
学生の中で唯一の特級術師。そして純愛を貫く、まさにわたしの理想のような人物。
年下のアイドルの子を応援するような気持ちで一方的に好意を持っていたけれど、彼はわたしのことを何も知らないはず。
そのことを問うと、彼は明るい表情を作った。
「五条先生たちと同級生って聞きました。学生時代、たくさん助けられたって」
「え、五条くんそんなこと言ってたの?」
「あ、いや! 夏油先生が、です」
「そ、そっかぁ……」
不意に出て来た夏油くんの名前に顔を引きつらせる。
そもそもわたしが夏油くんを助けたことなんてあっただろうか。
心当たりがまったくないんだよなぁ、と思いながらも、背中に呪具を背負った乙骨くんに「今から任務?」と聞いてみる。
「はい。少し遠出なのでこの時間からになってしまって」
「朝早くから大変だね……気をつけて」
「ありがとうございます! 行ってきます」
振り向きざまに手を振る彼へ、軽く手を振り返す。
声が届かないくらい離れたところで、わたしは手を下ろし、押し殺していた本音を絞り出した。
「はぁ〜かわいい〜、爽やか好青年すぎる……!」
誰かを推すというのはこういう感情なのかと感慨深い気持ちで、足取り軽く食堂へと向かった。
「おはようございます!」
「お邪魔しちゃってごめんね」
五条くんが受け持っているという一年生三人組に囲まれながら温かいご飯を口に運ぶ。
わたしの言葉に「そんなことないっす!」「邪魔なんてとんでもないですよ!」「ご一緒できて光栄です」と社交辞令だとしても完璧な答えを返した。
「本当に、今の学生さんはみんな礼儀正しくていい子ばっかりだね」
先ほどの乙骨くんといい、青少年らしい爽やかさがある。自分の学生時代を思い出しても、こんな全員いい子なんて事例は思い当たらなかった。
「あの、むしろ昔は違ったんですか?」
「考えてみて、硝子はともかくあの五条くんと夏油くんだよ? 今考えてみたら相当なクソガキだったなぁ。夜蛾先生はよく面倒見てたと思うよ」
態度は悪い。言うことは聞かない。すぐ喧嘩になる。かと思ったら急に結託してタチの悪い悪ふざけをする。おまけに器物破損は日常茶飯事ときた。面倒を見きれないと匙を投げられていてもおかしくなかった。周りの大人たちの心労を思うと涙が出てくる。
箸を置き目頭を押さえていると、ぬるっと背後に殺気に近いものが並んだ。
「クソガキ、ねぇ?」
「僕はオマエも同レベルだったと思うけど?」
「ゲ、出た」
夏油くんと五条くんに嫌な顔をしつつ、二人が朝食を乗せた膳を持っているのに目を止める。
「二人ともこっちでご飯食べるんだ」
「たまにね。今日は君がいるから」
「……別に来なくてもよかったのに」
ボソリと零した声を聞き逃さなかった夏油くんは良い笑顔を貼り付けたまま、しれっとわたしの隣に座った。
「何か言ったかい?」
「いえ何も。これからすぐ出るしそんなに時間がないのに、普段から忙しい特級様がわざわざ時間を作ってくださって嬉しいなと思ってまーす」
「そう。そんなに喜んでもらえて私も嬉しいよ。明日も時間合わせるから安心して」
「夏油くんはもしかして安心の意味を知らないのかな? 心が安らぐって書いて安心って読むんだよ?」
「知らないと思われているのは心外だけど、君の心の安寧に一役買ってる自信はあるけどね」
「はぁ〜〜? また意味わかんないことばっか言って! いい加減にしてよ!」
わたしの心が荒れているのは間違いなく夏油くんのせいだというのに、当の本人は涼しい顔をしている。それがまた癇に障るのだから、沸点が低いままにならざるを得ない。
思わず夏油くんに詰め寄ると、向かいの席で五条くんが一年生三人組にコソコソと耳打ちを始めた。
「ね、同レベルでしょ」
「ああ……」
「なるほど」
「……数年一緒に過ごせば似てくるってことなんですかね」
みっともない姿を見せてしまったことは自覚しているけれど、目の前でそんな反応をされるとやはりショックが大きかった。
「これ以上、若い子に幻滅されたら悲しいからもう行くね……」
「どこに行くんですか?」
「平日だし、普通に仕事だよ」
腕時計にチラリと視線を落とし出勤時間を確認する。ここからだといつも乗っている線じゃないからどれくらい混んでるか分かんないな、とぼやいていると何故か感嘆の声が上がった。
「おお〜! なんかOLっぽい」
「いや、OLなんだけどね?」
「高専にいる人って大抵黒い服着てるから新鮮なんですよ! 綺麗目オフィスカジュアルコーデ素敵です!」
「ありがと〜、照れるな」
服装からアクセサリーまで絶賛してくれる野薔薇ちゃん。女の子は細かい部分まで見てくれるから褒められるとテンション上がるな〜とデレデレしていると、隣から無視できないほどの強い視線を感じる。
「な、何ですか?」
圧に押し負けて夏油くんにそう聞くと、彼はニコリと人の良い笑顔を作った。この必殺スマイルで何人の女を騙してきたんだというツッコミはぐっと飲み込んだ。
「似合ってるよ」
「……あ、アリガトウ、ゴザイマス」
「少しは嬉しそうにしなよ」
「いや……アラサーに褒められるより若い子に褒められた方が素直に嬉しいからさ」
「君もアラサーのくせに」
それはそうなんだけど、単に自分を棚に上げているわけではない。夏油くんに褒められると言葉の裏を考えてしまうから素直に喜べないという本音を伝えるのは憚られただけだった。
呆れた表情の彼はポケットの中から取り出したものをわたしの手のひらに乗せる。
「これ、君の部屋の鍵。帰った時には掃除も終わって使えるようになってるはずだから」
「わかった、ありがと。わたしも夏油くんの部屋の鍵返すね」
はい、と仕舞っていた鍵を手渡す。彼は何か言いたげに自分の部屋の鍵を見つめていたけれど、何も言うことなかった。
わたしもそれに触れることはせず、空になった食器を前に「ごちそうさまでした」と手を合わせ、膳を持って立ち上がる。
「それじゃあ、行ってきます」
皆それぞれから「いってらっしゃい」と声をかけられる。
大人数に見送られることなんて、学生以来なかったなと懐かしみながら食器を返しに行き、高専を出た。
あんなにあたたかい場所なのに、みんな死と隣り合わせで戦っている。だからこそわたしの同期たちは、あの場所を教師という立場で守ろうとしているのだろうか。避けられない死を少しでも先延ばしにするために、自分が持ち得る全てを使って若い世代に生きる術を教えているのであれば、それはわたしの中にはまったくなかった考え方だ。
幸せになるために死を遠ざけることしか考えていなかったけれど、わたしにもああやって生きる道があったのだろうか。
そんなもしも≠フ世界を思い描きながら、慣れない会社への道を急ぐ。
わたしの現実は満員電車と遅延に気をすり減らしながら時計と睨めっこするのが常なのだ。あまりにも呪術界が遠くなってしまったと感じるのは、あの頃のわたしが願った未来なのだから、せめて胸を張っていたい。
彼氏と家は失ったけれど、幸せさえ掴めればわたしの夢は叶うのだから。
「これ、解雇通知ね」
「は……?」
会社に到着して早々、上司から手渡された書類を前にして硬直した。
「クビというより、弊社の財政が立ち行かなくなってね……単刀直入に言うと、倒産します」
「えっえ、急すぎませんか? 一体何があったんです?」
単刀直入に言う前に解雇通知を押し付けるな、と思いつつ混乱したまま事情を問い詰める。
クビです、はいそうですかというわけにはいかないことは想定済みだったのか、上司はそっと声を落として耳打ちをする。
「社長が横領してたらしいんだよ……何でも噂では胡散臭い宗教に貢いでたとかなんとか……」
「えぇ……」
そんなこと本当にあるのか。そう思いながらも、力が抜け切ったわたしはそれ以上何も言えなかった。
「とにかく、今後のことは裁判所から通知があると思うから」
「裁判所」
決定的な単語を復唱する。日常生活で使わない単語すぎる。
置いていた荷物を段ボール一つにまとめ、トボトボと会社を出る。大通りには通話しながら颯爽と歩いて行くサラリーマンや、社員証を首から下げたままランチに出てきたOL数人が目の前を横切って行く。
今朝まではわたしもそちら側だったのに。そう羨むと余計に虚しさが胸を満たす。
わたしはヤケクソで空を仰ぐ。そして気づいてしまった。
「あれ、もしかしてわたし、彼氏なし、家なし、職なし……?」
わたしが求めてる普通の幸せって一体どこにあるの?