組頭を怒らせたの段 その一




 ──触れたいと、少しばかりの欲に駆られ始めたのは、一体いつからだったろうか。



 闇に溶けきった雑木林の枝を蹴る。覆い被さるように生い茂った木の葉の隙間から微かに漏れる光。目指す先には、闇夜を味方につけた者共を皆平等に浮き彫りに晒しあげる、満ちた月が静かに見下ろしていた。
 雑渡は音もなく木々の隙間を縫い、月明かりに照らし出された影の隣に降り立った。
 自身と同じく、闇に浸して染め上げたような墨色の忍び装束を身に纏った影の主は、特別驚く様子もなく己を見上げた。

「組頭、何かご用でしょうか」

 張り出した枝の根元に腰掛けていた女は、「まさか急事で」と居住まいを正しだす。
 雑渡は、違う違うと頭を振り、彼女──小菜乃の動きを手で制した。

「そんなに畏まらなくても。私にだって、月を眺めたい夜だってあるよ」

 人一人分ほどの距離を開けて、よいしょと腰を下ろす。
 手を伸ばせばすぐ届く距離。しかし、それは雑渡と小菜乃にとっては非常に遠く、容易に越えられない隔たりがあった。

 彼女が幼い頃は、「昆兄さま、昆兄さま」とよちよち歩きの雛のように後ろをついて回って来ていたというのに。
 それを良いことに、時には手を引き、時には抱き上げ、まるで「私の妹ですが何か」と言いたげな顔で、村から城内まであらゆる場所を連れて回っていたせいで、山本に苦言を呈されたこともあった。今考えれば当たり前である。
 とはいえ、それほどまでに大層可愛がっていたのだ。あの頃の愛らしい様を思い出すだけで、あるはずのない父性が呼び起こされるものだから、十数年前の記憶といえどなかなか色褪せないものだな、と己の記憶力に感心する。
 なお、今現在あの時芽生えさせられた父性の行き所は、忍術学園のよい子たちの中でも、特に慈善の心で敵味方問わず万人に手を差し伸べる保険委員会に向けられている。忍たまは可能性。そのよい子たちが手当てにあたる医務室は、もはや誰も穢すことができぬ神域と化していた。

 ……懐かしい事を思い出した。
 雑渡は彼女の隣に居座る口実に使った満月を見上げた。淡く柔らかで、微かに揺らめきながら闇に背を預けている光であれば、愛おしいだけではない苦い過去をも包み隠してくれる気がした。

 息を殺すように沈黙を貫いていた隣の気配が、ゆらり、動いた。見れば腰を上げた彼女が、こちらを見下ろしていた。
 幼い頃の面影はそのままに、彼女が生を授かり二十数年重ねた経験と想いが表情に宿っている。これまで何があったか聞き及んでいる事もあれば、彼女の胸のうちに秘められている事もある。……はたまた傍で見守っていなければわからない事も。
 それを見逃してしまったのが悔やまれるほど、彼女と雑渡が離れていた時間は思っていたより長いものであった。

「もう行くの」
「お邪魔になるといけないので」
「邪魔だったらわざわざ君の元にやって来ないよ」

 少々直接的すぎる本音だったろうか。
 どこまで踏み込んでよいものかと距離を測りかねていた雑渡は、どのような反応をするか彼女の表情に視線を注ぐ。

「ここは一番見晴らしが良いでしょう」

 雑渡の言葉を、さほど気に止めた様子のない彼女は、すい、と天を仰ぎ見た。

「月を眺めたい夜ならば、誰だって特等席に足を運びますから」
「……そうかもね」

 ゆるく目尻を下げ、薄く口元に弧を描くけれど、長い睫毛によって翳る瞳に彼女の憂いを見る。
 彼女が己の知らない色を浮かべるたび、雑渡は毎度毎度飽きる事なく「ああ、惜しい事をした」と思うのだ。

 何となしに手を伸ばせば、彼女の頰に触れた。ひやりとした肌。しかし、その下には温もりが宿っている。
 身体を冷やすと良くないと、口にしようとした一瞬の隙に、彼女は身を引いて雑渡の手を躱した。

「冷えて、来ましたね」

 取り繕うように言った言葉の端に、動揺が見て取れた。それは組頭相手に、触れられたくないと拒絶を見せてしまったからだろうか。

「お身体に触らぬように、暖かくしてお休みくださいね」

 あまりに邪念のない柔らかい笑みに雑渡が目を見張っているうちに、「おやすみなさい組頭」とだけ言い残し、足場にしていた枝から飛び降りた小菜乃。
 その背中を見送り取り残された雑渡は、ため息と共にぽつりと零す。

「私が言うはずだったのにね」

 ただの拒絶であれば、同じく気遣いの言葉をかけようとするだろうか。……まあ、ただの社交辞令ということも否めない。
 それにしても、あれではまるで自分ではない誰かで暖を取れと言っているようなものだ。他意はないのだろうが。あの子はそういう子だ。
 雑渡は、小菜乃がいなければ特等席も意味がないとばかりに、早々にその場を離れ、再び闇の中に溶けていった。








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永遠に白線