組頭を怒らせたの段 その二
──危なかった……!! 本当に、危なかった!!
今にも飛び出しそうな心の臓を誤魔化すように、一目散に駆け出した。長屋の屋根を飛び移り、一瞬でも早く自室に辿り着けるよう、自身がこれまで積み重ねて得た全てを注ぐ。戸を完全に閉め切るまで、一つも油断できない。
トン、と戸に背を預ける。微かに鳴ったその音に、緊張の糸が切れ、ズルズルとへたり込んだ。
「……なんで、組頭が急にやってくるの」
ため息と一緒に吐き出した組頭≠フ響きに、グ、と喉を鳴らす。
私には、組頭こと雑渡昆奈門に、決して触れられてはいけない理由があった。
遡ること、数年前。
とある事情から、タソガレドキの忍村を出て修行に明け暮れていた時期があった。プロ忍の元を渡り歩いては教えを乞い、時にはフリーのくノ一として任務を請け負う。そうやって、誰も死なせずに済むような強い忍者≠ノなるべく研鑽を積んでいた。
半ば綺麗事なのは分かっていたけれど、強くなれば大切な人を、ましてや敵でさえも、傷つけない選択ができる手段が増えることも知っていた。
そうであるならば、あらゆる術の修行に励むほかに道はない。
くノ一の私にとって、房中術もそのうちの一つだった。まさか生娘でもあるまいし、特に抵抗もなくそれなりの場数を踏んで気づいたことといえば、「房中術が一番死人が出ない平和な手段なのではないか」という、まさに己の理想に近いものだった。
人間は快楽に弱い生き物である。色事を匂わせるだけで、目先に餌を吊された犬のように忠実になるのだから、まったく単純明快で分かりやすい。
房中術の極意、それはとにかく相手に極楽を見せればいい。そのためには、どうすれば良いか。
私の出した答えは快楽を与える側もまた快楽に身を委ねるべし>氛氓ツまり、女が乱れている様が、男にとって一番の媚薬になるということだ。
そう分かったところで、急に気のない相手に興が乗るわけではない。ならば、相手を頭の中で想い人にすげ替えてしまえばいい。
そうして、床を共にする男のことを、胸の奥で秘めていた恋慕う相手、雑渡昆奈門だと思い込んで、毎回身体を重ねていたのである。
一つ、弊害があるとすれば、相手を組頭だと思えば思うほど、自らも快楽に飲み込まれていき、いざ本人を目の前にしてしまえば、視線が絡み合うだけで鼓動が早くなり、触れられでもすれば乱れ狂ってしまう身体になってしまったことだ。大問題である。
──こんなこと、絶対組頭に知られるわけにはいかない。
熱い吐息を漏らし、自らの肩を抱く。先ほど触れられた頰に感じた、かさついた親指の腹の感触。それを思い出すだけで、身体の奥が疼いてしまう。
人間は快楽に弱い生き物である。それはまた、己にも当てはまる事だった。