タソガレドキ忍軍お家騒動の段 その一
あの人に、初めて恋心を抱いた日のことは覚えていない。
──ただ、この激物に成り果てた、焦がれた愛を作り上げた時の流れだけは、鮮明に脳裏に焼き付いていた。
◇◇◇
元々一綱家は、私が生まれてすぐに亡くなった元タソガレドキ忍軍狼隊所属の父と、病気がちな母。そして父の跡を継いだ兄と、歳の離れた妹の私の四人家族だった。
物心がついた時には、すでに兄は元服していて家を出ており、母と二人きりの生活が長く続いていた。
「お母さま! お一人で寂しいかと思いますが、すぐに帰ってきますので待っていてくださいね!」
「はいはい、気を付けてね」
床から身体を起こして苦笑する母に、ようやく八つになったばかりの私は元気いっぱいに「行ってきまーす!」と手を振った。
今日はタソガレドキ忍軍の詰所に向かわなければならない。母の弟である山本陣内に、頼んでいた薬を受け取りに行くようにと、お使いを頼まれていた。
母の具合はあまり良いとは言えない。体調によってはしばしば寝たきりになることも多いのだが、今日は起き上がれるくらいには調子が良さそうだ。
ほっとしながら外へ飛び出すと、隣の家の前に見知った顔の少年が立っていた。
「高坂!」
呼びかけるとムッとした仏頂面がこちらを向いた。別に怒っているわけではない。そういう面立ちであることは、生まれてこの方、見飽きるくらい顔を突き合わせているおかげで充分理解していた。
「城へお使いに行くところなのだけど、高坂も一緒に行かない? もしかしたら、お兄さまたちに稽古つけてもらえるかも」
迷わず駆け寄った私に、高坂は悔しそうな顔で口を尖らせる。
「今日は無理だ」
「なんで?」
「お前のお母君が一人になるだろう? うちの母上が様子を見に家を空けるから、俺は留守番だ」
「そっかぁ、残念」
何気なく足元の小石を蹴る。
城へのお使いは初めてではないので、不安はないけれど、道中一人なのはつまらない。
でもここで立ち止まっていても仕方がないと、私は転がった石ころを追いかけながら、高坂に手を振った。
「お母さまをよろしくね」
「ああ、雑渡さまにくれぐれもよろしく頼む」
「は〜い」
背を向けて駆け出すと、「小菜乃!」と大声で呼び止められる。
「雑渡さまに次いつこちらに来られるのか聞いてきてくれ!」
「はーい」
「それとー!」
「なにー?」
「もし日が空くようならこちらから出向きますとも伝えといてくれー!」
「はあい!」
「あとはー!」
伝言が多い! 一回でまとめてよ!
背を向けるたびに呼び止められるものだから、振り向くのが億劫になってくる。
「まったく、高坂はいつもこう!」
ようやく解放された私は、ぶつくさと独り言を言いながら畦道を歩いていく。しばらくすると徐々に人が増え始め、城下町までやってくると人の活気に溢れている。
ようやく門の前にたどり着くと、番をしている男に「どうしたんだい」と話しかけられた。私はそれにいつものように答える。
「山本の陣内叔父さまにご用があって」
「ああ、それなら演練場にいるはずだから」
私は礼を言い、門をくぐり抜ける。
さて、演練場はどっちだったろうか。聞いておけばよかったと、門の外に戻ろうとした瞬間、ふわりと身体が宙に浮いた。
「やぁ」
「わっ昆兄さま!」
事もなげに私を抱き上げた男の名を呼ぶ。
頑丈な腕の中で、こちらを見下ろす優しげな眼差しに、思わず目を瞬いた。
「久しぶりだね。一人でどうしたの」
「陣内叔父さまを探してるの」
「へぇ、陣内をね。お兄様への用じゃないんだ?」
「うん。今日はお兄さまにご用はないの」
「ハハ! それ本人が聞いたら泣いちゃうよ」
そう心底おかしそうに破顔する彼──雑渡昆奈門は兄の気の置けない友であった。同じ歳の兄と幼少の頃から共に過ごし、何度も死線を潜り抜けてきたと、幾度となく話を聞かされている。
自分で言うのもなんだが、兄は妹の私を溺愛している。目に入れても痛くないと豪語するくらいには、歳の離れた妹というのは何より可愛いらしい。
「小菜乃ー!」
「噂をすれば」
くすくすと声を潜めて笑う昆兄さまの向こう側から、私の名を呼びながらこちらに突進してくる人影が見える。
それが兄の園人の姿であることに、私はほっと安堵し「お兄さま〜!」と手を振った。
「園人、忍務じゃなかったの」
「これからだよ!」
「そう。じゃあ小菜乃はこのまま陣内の元に連れて行こうね」
「はい! ありがとうございます昆兄さま!」
元気よくお礼を言った私と、その場を後にしようとする昆兄さまに、お兄さまはというと、ヒクリと片眉を吊り上げてわなわなと震える拳を必死に押さえつけていた。
「昆奈門、お前という奴は……! あれほどうちの妹にベタベタ触れるなと言っているのに……!」
怒りを露わにするお兄様に対して、昆兄さまは私に視線を移し「駄目なんだって」と肩を竦めた。
「なんで駄目なのお兄さま〜?」
「ププ、教えてよお兄様〜?」
「お前にお義兄様≠ニ呼ばれる筋合いはない!」
「いや、そうは呼んでないよ」
「そうか、よかっ……いや、呼ぶ覚悟もないのに抱き上げるな! 責任取れよ!」
「はぁ〜ほんと小菜乃が絡むと面倒臭いね。お前」
そんな呆れたため息など聞こえていないのか、お兄さまはひたすら頭を抱えては、ブツブツと自問自答を繰り出している。
「小菜乃が嫁に行くなら俺が認めてる奴のとこじゃなきゃヤダ。絶対許さない。でもそうなると歳が近い奴はもう昆奈門しかいない……! ぐぬぬぬ、どうすれば……!」
「こうやっていつも一人で苦しんでるんだよ。私と園人は同い年だから、決して小菜乃と歳が近いわけじゃないのにねぇ」
お兄さまと昆兄さまは二十歳、私はたったの八つ。決して歳が近いとは言い難いが、それだけお兄さまが認めている人間が少ないと言うことなのだろう。そして、その数少ない人間の中に、昆兄さまがいる。
嫁に行く云々の話より、お兄さまが昆兄さまを認め、信用し、心を開いているということの方が、私にとっては重要だった。お父さまが亡くなってすぐに元服してから、お兄さまは一家の大黒柱として必死になって私たちを守ってくれている。時には人に裏切られ、優秀な父の跡を継ぐ者としての重圧に耐えながら命を懸けるその生き様に、時折母が申し訳ないと零しているのを聞いていた。
その責任からか兄は余計に身内にしか心を許さない性分になっていた。赤の他人には仏頂面で必要最低限しか言葉を発しないものだから、私の目から見ても心配に思えるほどだ。
だからこそ、嬉しい気持ちになる。信じられる人が増えることは良いことだ。私はそう思いながらも、未だに頭を抱えているお兄さまの肩を揺すった。
「お兄さま、しっかりしてください」
「ああ、すまんすまん」
ゴホン、という咳払いで気を取り直したお兄さまは、先ほどとは打って変わって真剣な眼差しで私を見つめた。
「それで母上のご様子は?」
「あまり良くはないけど、今日はちゃんと床から起きてたから、ちゃんとご挨拶して出てきたよ」
「そうか……また薬を飲めばもっと良くなるはずだ」
声を落としてそう言いつつも、すぐに笑顔を浮かべて私の頭を撫でた。
「家まで気をつけて帰るんだよ」
「はい! お兄さまもお気をつけて」
忍務のため門へ向かうお兄さまの姿を見送っていると、くるりとこちらを振り返った。
「知らない人についていっちゃ駄目だぞ!」
「はーい」
「昆奈門に何かされたら陣内叔父様に言いつけろよー!」
「はーい!」
「それとー!」
「なにー?」
「お兄様のこと忘れるなよー!」
「はあい! 忘れませんから!」
涙を拭って門を出ていくお兄さまを、大袈裟だなぁと思いながら見送る。苦笑いの昆兄さまは演練場に向けて歩き出した。
「全く騒がしいねえ」
「お兄さまったら高坂みたい」
「高坂? ああ、倅の方ね」
月輪隊に所属する高坂のお父さまを思い浮かべたのだろう。
ただ、私にとっての高坂は息子の方だった。彼の名前を知る前に高坂の倅≠ニいう単語をすでに覚えていたせいなのだが、今更変えるのも口に馴染まないとそのままにしている。
なんとなく事情を汲み取ってくれた彼に、私は頷き返した。
「また稽古をつけて欲しいから、いついらっしゃるか教えて欲しいと言ってました」
「お兄様も高坂もかわいいねぇ」
「かわいい? あの二人が?」
「そうそう」
鷹揚に頷く昆兄さまは、喉の奥で笑った。
私は二人の顔を思い浮かべ、うーんと首を傾げる。
「よくわからないけど、一所懸命で真っ直ぐなのは素敵なことだと思います」
「その通り。一途でいいねってこと」
「一途……」
「何においても信念を貫き通すことは、意外と大変で難しいことだからね」
あたたかな日差しの中、目を細め空を仰ぐ彼の横顔を間近で見つめる。何かとても大事なことを言っているような気がして、私は繰り返しこの言葉を胸の中で反芻し、この光景を目に焼き付けた。
「小菜乃!」
「陣内叔父さま」
演練場に着くと、指導の手を止めてこちらに駆け寄ってくる陣内叔父様。お父さまの記憶がない私にとっては、陣内叔父様が父のような存在だった。
彼は忍び装束の懐から麻袋を取り出し、それを私に握らせた。
「今回手に入れられた分の薬だ」
「ありがとうございます!」
こうやってお母さまのために陣内叔父様はいつも薬を用意してくれている。きっと薬がなかったら、お母さまは今のようには過ごせていないだろう。
これでお使いの用事は済んだ。あとは帰るだけだ。
私は昆兄さまの腕の中から降りて、辺りを見回した。タソガレドキ忍軍による高次元の演練が行われている。目で追いかけるもすぐ見失ってしまう。
「私もお兄さまと昆兄さまみたいな、強くてすごい忍者になりたいです!」
そう言うと、ニヤリと笑った昆兄さまは懐から手裏剣を取り出した。
「せっかくだし、打ってく?」
「いいの!?」
「園人には内緒ね。絶対拗ねるから」
それもそうだ。私は「はい」と返事しながらも、高坂には教えてあげようと思った時、ここにはいないはずの高坂が息を切らして駆けてきた。
「大変だ! お母君が……!」
悪い予感が瞬時に過ぎる。しかし、深く考えるまもなく駆け出した昆兄さまに抱えられ、壁外に飛び出していた。
「薬を落とさないようにしっかり握っていなさい」
「は、はい……」
……どうしよう。もし、もしも、間に合わなかったら。
薬が入った麻袋をぎゅっと握りしめる。
「大丈夫。大丈夫だから」
言い聞かせるようなその言葉に、コクリと小さく頷いた。
目まぐるしく流れていく風景が目に沁みる。乾いた風が目に刺さって痛い。涙はとめどなく溢れてくるけれど、誰かが傍にいてくれるということは、こんなにも心強いものなのか。
だからこそ、早くお母さまの傍にいてあげたい。お母さまもきっと不安だろうから。お願いします仏様。どうか、どうか。
──そう祈るばかりの私は、結局母を看取ることはできなかった。