タソガレドキ忍軍お家騒動の段 その二
十三の春、嫁ぎ先が決まった。
苦い顔の陣内叔父さまに呼ばれ説明されたのは、雑渡さまの縁談のお相手の代わりに、他所の領地へ嫁に行かなければならないということだった。
そもそも雑渡さまの縁談の件すら知らなかった私にとって、何から話を広げていったら良いのか分からず、ただただ言われたことに黙って耳を傾けるだけだった。
事の発端は侍大将のご息女に、雑渡さまとの縁談と、和平のため他領の有力者との縁談が、同時期に浮上したことが始まりだった。
タソガレドキ内部としては前者の意向が強い。ただ外交が関わる後者も無視はできない状況。
そもそも嫁入りのように堂々と他所の領地へ自領の人間を送り込めることの利点といえば、人質の上に成り立つ和平という建前の元、影では間者として情報を抜き取ることできるということだ。
侍大将のご息女では、その荷が重いと判断されたらしい。溺愛している娘を他所の領地で危険に晒したくないという侍大将の意向もあり、それを無視できない殿は、間者といえば本職に任せようとお考えになり、忍者隊に相談を持ちかけたという。
表立った婚姻となれば人選にも気を使うわけで、未婚でいて現状割り振られている忍務に支障が出ることなく、ある程度嫁としての器量があり他領で怪しまれずに如響忍として溶け込むことができる若い娘となれば、両親もおらず家の立場も強くはない私に白羽の矢が立ったというわけだ。
如響忍というのは、潜入した土地になじみ、盗み聞きや噂話などを分析して、その国の情報を収集する忍者のことを言う。もう少しでタソガレドキ忍軍に入ることになっていたが、その前に生涯を賭けた最初で最後の忍務を命じられることとなった。それと同時に、お兄さまや昆兄さまのような忍者になりたいと夢見ながら鍛錬してきたが、その夢は叶わぬものとなったのだった。
近日、私は家を出て、雑渡さまの婚約相手の代わりに侍大将の末娘という体で他領へ嫁がなければならない。重要なお役目だ。それは理解しているが、気持ちの整理は未だつかずままだった。
晴れた日の昼下がり、お母さまが亡くなってからこれまでずっと一人で暮らしていた家の片付けを進める。
近くに高坂の家もあるし、よく様子を見に来てくれたおかげで何不自由なく暮らしていたものの、一人で暮らすには広い家に寂しい思いをした夜は数えきれないほどあった。
陣内叔父さまの家にお世話になる話も浮上したけれど、なかなか家に帰って来れない陣内叔父さまと一緒に住むのは現実的ではない。それにお兄さまがいつでも帰ってこれる家を残しておいておきたかったのもあり、祖父母の家や親戚の家に行く話も断った。たらい回しされるのも嫌だし、お兄さまがどんなに忙しくてもたった一人の家族と離れたくないと言ってくれたから、ここに一人残ることを選んだのだった。
実際、お兄さまは忍務の合間を縫って帰ってきてくれたし、相変わらずの溺愛ぶりは拍車がかかって過保護の域に達していた。私が他領へ嫁がなければいけない話にも、絶対に首を縦に振らなかったと陣内叔父さまが言っていたのを聞き、お兄さまが反対して無理ならば私が嫌だと駄々を捏ねても無駄だろうと諦めがついたのだった。
荷物が完全に片付いたので、次にお兄さまが帰ってくるまで家の中が湿気らないように空気を入れ替えておこうと家の入り口へ向かう。すると、向こう側から足音が近づいてくるのに気づき、そのまま戸を開けた。
「昆……雑渡さま」
口に馴染んだ呼び方が出そうになり、慌てて言い直す。
忍び装束ではなく、普段着でやって来たところを見ると、どうやら忍務での用ではないらしい。
「輿入れが決まったんだってね」
挨拶も交わさず、開口一番に件の他へ嫁ぐ話に触れた雑渡さまが「おめでとう」と言うので、私も「ありがとうございます」と頭を下げる。
「……? 何でしょう?」
「何もめでたくなんかないだろうにね」
何も言わない彼を前にそろりと頭を上げると、無機質にも思える自嘲まじりの言葉が降ってくる。
「怒っていいんだよ。どの口でおめでとうと言えるんだって。私に対して、怒るだけの理由がある」
そう言いながらも己の瞳に怒りと微かな哀を滲ませた彼に、私はああと腑に落ちる思いだった。
「雑渡さまも、お兄さまと同じように反対してくださったんですね。……そうでしょう?」
「……渦中の人間が何を言ったところでね」
殿の決定を変えることができなかったことに負い目を感じているのだろうか。それとも、発端となった縁談に巻き込まれた張本人として憂いているのだろうか。
どちらにせよ、お優しい方だ。怒っているかもしれない私に、わざわざ会いにきてくださるなんて。
「園人は毎晩枕を濡らしてるよ。まさかこんなに早く別れが来るなんてってね。『お前が早く小菜乃を嫁に貰わないからだ』って八つ当たりまでされたよ」
「あはは…….それはまた、ご迷惑を」
「これくらいしか出来ることがなくてね」
お兄さまは忍軍の長屋でもそんな感じなのか、と苦笑いが漏れる。
家では帰ってくるたび「止められなくてごめんなあ」と繰り返しながら、私の布団を濡らしている。夜通し泣かれるものだから、心が痛いのを通り越して「いい加減寝かせてください!」と怒るところだったことは、ひっそりと胸に秘めている。
「忍びとしてのお役目があるのが、せめてもの救いです」
「その役目のせいで、兄の隣に並ぶ道が消え失せたというのに、小菜乃は立派だね」
事あるごとにお兄さまと昆兄さまみたいな、強くてすごい忍者になりたい≠ニ口に出していたけれど、それを覚えていてくれたのか。
「大丈夫と……いってくれませんか」
私は恐る恐る、小さな声で雑渡さまに願い出る。
立派なんかじゃない。立派に見えるのであれば、それは己を奮い立たせ取り繕っていることが、功を奏しているのだろう。本当の私は不安に塗れた半人前のくノ一だ。
「あの時……お母さまの元へ向かってくださった時、昆兄さまが言ってくださった大丈夫だから≠フ一言で、どれだけ心が救われたか……感謝してもしきれません」
それは私にとって、孤独な不安に寄り添う宝物のような言葉だった。彼が傍にいてくれることの、なんという心強さ。それは、嫁いでしまえばもう二度と得ることはない。
だから最後にもう一度、という縋るような想いを飲み込みながら、母が亡くなった時この言葉をかけてくれたことに「ありがとうございます」と改めて礼を告げる。
「礼を言われるようなことは何もしてないのに。……ただのまやかしにすぎなかった」
「そうだとしても、私にとっては支えでした」
「……そう」
事実だけ見れば、何も大丈夫ではなかった。母は死んでしまったし、それまでの生活が一気に変わってしまった。
まやかしだったと、彼が言う意味も分かる。でも、私にとっては五年経った今でも恩に感じるほど、大事な大事な記憶だった。
「小菜乃」
「はい」
改まったように名前を呼ぶ雑渡さまに視線を向ける。
彼の喉元が微かに上下する様を、私はただ黙って、静かに見つめていた。
「大丈夫だよ」
「……はい」
この光景を再び記憶に焼き付けるように、しっかりと頷いた。
「お兄さまのこと、よろしくお願いします」
「ああ。定期連絡は園人に行かせるよ。……それじゃあ、邪魔したね」
「いえ。雑渡さまも、お幸せに」
踵を返した彼は、私の言葉で立ち止まった。広い肩の上で春風に攫われた彼の後ろ髪が、どこからか迷い込んだ桜の花びらと共に、たおやかに靡いている。
「……もし、私の縁談の話が、もっと遅かったら──」
背を向けて話し出した彼に、慌てて耳を傾けるけれど、風の音で先の言葉が聞き取れない。私は彼の背を追うように家の外へ足を踏み出す。
その音に視線だけこちらに向けた彼は、微かに目を細め自嘲めいた薄笑いを浮かべた。
「もう少し、時間があったらよかったのにね。私にも、小菜乃にも」
もしも、雑渡さまの縁談の話がもっと遅くに持ち上がっていたら。
もしも、和平のための縁談がもっと別の時機に成立していたら。
もしも、私を許嫁とする相手がいたなら──お兄さまの言うように、私を嫁にと雑渡さまが建前でも一言、言ってくださっていたら。
彼の言葉に、それまで考えたこともなかったような、あり得たかもしれない未来が脳裏をよぎる。どうしたって変えることのできないことなのに、すでに未練に似た願望となって私の中に存在していることが恐ろしい。
生涯、故郷から遠く離れた知らぬ屋敷の中で、あらゆるあり得たかもしれない未来を夢想し、後悔しながら生きていくことになるのかと思うと怖くて仕方がない。何より、他責によって可能性を思い描いてしまった身勝手さに、今にもどうにかなってしまいそうだった。
私は息の詰まる想いで、去って行く雑渡さまの背中を見送る。花風に煽られながら、痛む胸を押さえたことに気づかれないよう、ただ息を殺してその場に立ち尽くすしかなかった。