タソガレドキ忍軍お家騒動の段 その三
ホウホウと梟が二度繰り返し鳴いた。
この屋敷で、新月の夜に必ず鳴く梟を待ち遠しく思い始めてから、もうすぐ半年が経とうとしていた。
あれから婚儀は滞りなく進み、今では侍大将の末娘として、そして敵地から嫁いできたよそ者の嫁として、自然に立ち回れるようになっていた。
夫となったのは、この領地を治める殿の外戚にあたる有力武家の若君で、私より三つ上の青年だった。当初の予定通り侍大将のご息女が嫁いでいれば年上の妻を迎えることになっていたが、どうやら年の功で賢く立ち回られると困ると考えており、私のような何も知らぬ年下の娘であればいいと、急遽縁談相手が変えたタソガレドキからの提案に同意を示したらしい。
見られているのは血筋のみ。しかし、私は本来ならいるはずのない娘に成りすましている。何も知らないこの屋敷の人間と、故郷に全てを置いてきた私の空虚な生活は、タソガレドキの謀略のための犠牲となっていた。
私は密書を懐に忍ばせ、床から這い出した。幸い夫とは寝所が別なので、こうして新月の夜にやってくるタソガレドキの定期連絡にも容易く抜け出す事ができる。
予想外にも、素直な性格の夫は私の言葉を全て信じてしまうほどには、悪意と謀略を知らない真っ直ぐな人だった。お陰で行動や言動を怪しまれない程度に誘導できるので立ち回りやすく大変ありがたいのだが、これは確かに家の者が他所の人間に操られることを危惧するのも頷ける。縁談相手を変えたことに何の抵抗もなく同意したのも納得がいった。
私は庭に出て、隅に聳える立派な松の幹に背を預けた。頭上には既に人の気配が宿っている。
いつもなら、お兄さまがすぐに降りて来てくれるはずなのに。そう思いながら枝の上に目を凝らすと、闇夜に溶けた影がすっと目を細めた。
「高坂……!」
すぐさまそちらに行くと合図を送り、湾曲した枝に足をかけた。そうして高坂の隣まで登ると「寝巻きのまま来る奴があるか」と小言が飛んでくる。
変わらないなと思って苦笑するが、よく考えてみたら高坂と顔を合わせなくなってまだ半年ほどしか経っていない。正直なところ、物心ついた時には既に家を出ていたお兄さまより、近所に住む高坂の方が一緒に過ごす時間が長かった。だからか、余計に時が流れるのが早く感じたのかもしれない。
「わざわざこんなところまでご苦労様」
「ああ。本当にな」
「お兄さまは?」
「忍務で泣く泣く変わることになった」
「そ、それは大変だったね……」
泣いているお兄さまの姿は容易く想像できる。きっと陣内叔父さまあたりが宥めて忍務に送り出したのだろう。
私は懐から密書を取り出して高坂に手渡す。これは私が集めた情報を書き記したものだ。最近では理由をつけて度々町へ出られるようになってきたので、これからもっと情報収集が捗りそうだ。
密書を仕舞う高坂にそう伝えるが、生返事で返される。チラチラとこちらの様子を伺うような視線を怪訝に思い「何?」と首を傾げた。
「それで……大丈夫なのか?」
「大丈夫って? あ……もしかして、心配してくれてたの?」
「それはするだろ」
おずおずと切り出した高坂に、目を丸くする。
輿入れが決まったと高坂に話した時、声すらあげずに尻餅をついてひっくり返っていたことをふと思い出した。急な話であったせいもあるだろうが、そこまで驚く? と思ったものだ。そんな衝撃を受けた裏ではちゃんと心配してくれていたらしい。
私はなんとなく照れ臭くなり、投げ出した足をぶらぶらと揺らし宙を蹴った。
「旦那さまはとても良い人なの。歳もそう離れてないからか一緒にいて退屈しないし、兄のように慕ってる」
「それじゃまるで夫婦というより兄妹だな」
そうぼそりと言った高坂の言葉に頷く。
「そう。一度、お兄さまみたいだとお話ししたら、気の毒に思ったのかそれから夜の通いがなくなったの」
すごくお人よしで優しい人でしょう? と同意を求めるが、高坂は眉根を寄せ頭を抱えた。
「ハァ……気の毒なのは向こうの方だな……」
「うーん、確かに騙されてばかりなのは気の毒かも」
「嫁が間者な上に、無垢な顔で善意につけ込み弄ばれてるなんて、考えてもいないだろうな」
「だろうねぇ」
だからといって同情はしない。夫に入れ込んで寝返ったと思われでもしたら、タソガレドキに殺されてしまう。お兄さま達が敵になるなんて考えたくもない。
私はこれ以上、何も失いたくはなかった。思い出さえも捨てることになってしまえば、本当に何も残らない。だから、今だけは、少しの猶予が欲しかった。夫の善意に甘えているのもそうだ。いずれは子を成さなければならないことは分かっている。だが、まだ家族への愛と男女の愛の違いが分からないと無邪気な子供の顔ができるうちは、それを利用してでも時間を稼ぎたかった。子ができてしまえば、本当に後戻りができない。諦めが悪いというよりは、夫との繋がりが目に見える形となってしまう恐怖の方が大きかった。
それに、夫への言葉は嘘ばかりではない。私は本当に男女の愛というものを知らない。さすがに家族愛との違いは分かるけれど、異性への思慕と憧憬の違いが分からなかった。
ただ、もしそれをまとめて恋と呼んで良いのなら、近しい感情を抱いたのは、あの人──雑渡さまへの想いがきっとそうなのだ。私はあの人がくれた言葉を支えに生きている。この想いと同じものを夫に抱くことがあれば、少しは楽になるのだろうか。
あの時、私の願いを聞き届け大丈夫と言ってくれた彼の顔を思い浮かべていると、沈黙の中、視線を落とした高坂が口火を切った。
「このお役目は、結果的に小菜乃が適任だったということなんだろうか」
「そうじゃなきゃ困るよ。私の存在意義がなくなってしまうもの。……こうなってしまった以上、もう引き返すことなんてできないんだから」
自然と目を伏せていた私は、高坂へ向き直る。
「私はここでお役目を全うできるよう頑張るから、たまにはお兄さまの代わりに会いにきてね。高坂、陣内左衛門殿」
己の新たな名を呼ばれ、目を見開いた高坂。その様子にくすくすと笑みを零す。
「なんで知ってる」
「前回お兄さまから聞いたの」
高坂の希望を通すために、陣内叔父さまが烏帽子親となったらしい。血の繋がりはないが、身内が増えたなとお兄さまと話したことは記憶に新しかった。
「狼隊に──雑渡さまの元に行けてよかったね」
彼がどれだけ雑渡さまを敬愛しているかは、幼い頃からずっと見てきたおかげで十二分に理解している。月輪隊への入隊が生まれた時から定められていることへの嘆きも聞いていた。だから、誰にも文句を言われないよう強くなって己の希望を貫くのだと、ずっと一緒に鍛錬してきたのだ。
私の夢が叶わなかった分、高坂には頑張って欲しい。その想いを込めて微笑むと、彼は真剣な面持ちで頷いた。
「お前の分まで支えられるよう、誠心誠意努める」
「……うん。ありがとう、高坂」