紫蘭の君 (side:幸村)




どうして、俺なんだと、何度拳を握りしめたことだろう。


どうして、俺なんだと、何度奥歯を噛み締め、涙を堪え、堪えきれず、零したことだろう。


それは、前を向こうにも向けない、終わりが見えない闘いに辟易していた春の日の出来事だった。



*****




その日、一番最後に病室に訪れたのは柳生だった。

こういうオフの日だと普段なら誰よりも早く現れるのに……。

そう思うと自然に「珍しいね」と声が漏れた。声をかけられた柳生は少し苦笑しながら俺のいるベッドへ近づいてくる。

「こんにちは幸村くん。すみません、少し出掛けていて遅くなってしまいました。今日はお加減はどうですか?」
「ありがとう、柳生。今日は落ち着いてるし比較的気分もいいよ。あ、座って?」

指し示した椅子に彼は慣れたように座ると、「こちらお土産です」とミニブーケとマドレーヌを差し出した。とりあえずマドレーヌのパッケージがどんと主張していて目に飛び込む。

「神奈川自然植物園……。今日はここに行っていたのかい?」
「ええ、せっかくのリフレッシュ休暇だったので」
「ふふ、自然と植物に囲まれたなら良いリフレッシュになっただろう」
「とても植物がきれいでしたし、種類も豊富で楽しかったですよ。今度は幸村くんと一緒に行ってご教授願いたいです」
「それは俺も勉強しておかないといけないなぁ……」

……果たして、その"今度"は俺に訪れるのかな……。

薄く笑みを浮かべ、言葉を濁した。嫌味な人間になってるなぁと思いつつも、こういうワードに反応してしまう自分を、もうどうにもできないところにまで来ているのだ。きっと遠い目をしているであろう俺の気を惹くため、柳生は持ってきたミニブーケに話を移行する。

「幸村くん、こちらの花を飾ってもよろしいですか?」
「……ああ、構わないよ。確かそこの棚に花瓶があるから使って」
「では水を汲んできますね」
「うん、水道はそこだよ」

病室に備え付けられた水道で水を溜める柳生を横目に、そのミニブーケに視線を移す。カスミソウに埋もれず、しゃんと咲く紫のそれは、この季節が咲き頃の紫蘭だった。例の植物園で買ってきたのだろうか。

ふと、その花のセレクトが気になって、花瓶を持って戻ってきた柳生に問いかけた。

「また意外なミニブーケを持ってきたね。植物園でかい?」
「ええ、そうです。提携している花屋がありまして」
「紫蘭だよね」
「流石は幸村くん、ご名答です。そこまで大きくない花なので、病室にも飾りやすいかと思ったもので」
「それだけかい?」
「……それだけ、とは」
「いや、柳生にしては珍しいセレクトだと思ったんだけど……、理由はそれだけかい?」

2、3秒間が空いた。
何かあるのだろう? と柳生を見つめると彼は観念したかのように眼鏡の奥の目を細めた。

「流石は、幸村くんですね」
「ふふ、さっきも聞いたよ」
「今度は洞察力の話です。そう、この紫蘭はとある人に選んでいただいたのです」
「……なんだ柳生、デートに行っていたのか」
「示し合わせて行ったわけではなく、行った先で出会っただけなので勘違いしないで頂きたいですね」
「ということは女の子と回ったということは否定しないんだ」
「……ああ、なんでしょう、してやられた感がありますね」
「で? 俺の知ってる子なのかい?」
「それは、どうでしょうか」

あくまではぐらかすつもりか、と軽く睨むと柳生は困ったように苦笑う。追及しようかと思ったが、「彼女のプライバシーに関わりますので」と、紳士らしい言葉が返ってきたのでそんな気も失せてしまった。

紫蘭を少し指先で遊びながら、どうして彼がこの選ばれた花を持ってきたのか、そして選んだ人は何故ーーと考える。暫くして花言葉を思い浮かべた時に、ストンと答えが出た。

そうか、「あなたを忘れない」か……!

ハッとなって顔を上げると、横から「気づかれましたか」と声がかかった。どんな言葉を発すれば良いのか分からない俺に、緩やかに口角を上げた柳生が言葉を続ける。

「幸村くんの大変さは幸村くんにしか分からず、我々も非常にもどかしい。ですが、一時たりとも君の存在を忘れた事はない。今も一緒に闘っているつもりです。無敗で、君の復帰を待ってます。……どうか、幸村くんも負けずに必ず戻ってきてください」

不覚にも泣きそうになった。
そんな俺に柳生は優しく言葉を続ける。

「私も今日初めて知ったのですが、紫蘭にはお互い忘れないように、という花言葉もあるそうですよ。幸村君もどうか私たちの事を忘れず、たまには愚痴の一つや二つこぼしてくれると嬉しいです」

柳生に言われてこの花を見て、改めて思った事は……実に簡単な、忘れられたら怖いという感情だった。

部活のみんなが俺の事を忘れる訳ないとは思ってたけど……何処かで怖かったのかもしれないな……。

つっかえてたものが消えた気分になって、ふわりと自然な微笑みが溢れるのを感じた。そんな俺を見て柳生もホッとしたような顔になる。

「ありがとう、柳生。必ず戻るから心配はいらないよ」
「待ってますよ、幸村くん。……ああ、もうこんな時間ですか、そろそろ練習に行ってきます。長居してしまいすみません」
「フフ、構わないよこのくらい。みんなにも宜しく言っておいて」
「分かりました。では、また」

練習に赴く柳生を見送って、ふと、紫蘭を見る。

中々鋭いところをついてくるなぁ……この花を選んだのはどんな女の子なんだろう?

きっと柳生から俺の事を聞いて、花言葉を考えた上で選んだはずだ。そう思うとよく分かってくれたなぁと少し感動すら覚える。驚くほど簡単に、欲しかった一言を引き出してみせたのだ。何より、この前まで辛そうだった柳生が今日は明るかった事から、彼女は上手く慰めたのだろうとの予想もつく。

まあ何にせよ興味はわくな……いつか会ってみたい。

「ねぇ紫蘭、君を選んだのは誰だい……なんてね」

柳生から得られなかった答えを問うと、その花は春風に吹かれて少しだけ揺れたのだった。



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