なまえを、呼ばせて(side:跡部)
「美里、」
そう呼び掛ければ『はい!』と嬉しそうに返ってくる。
それが無性に俺様の心を満たして、でも満たされ切れなくてもっともっと名前を呼びたくなる。
電話やメールをよくするようになって数日が経つが、お互い一度も会ったことがない。だからと言って特に会いたいと思うわけでもなく、電話で声を届かせ合う関係が俺と美里との間では続いていた。
この距離感が、酷く心地いいのだ。
……などと誤魔化しつつも心の奥でもう少し踏み込みたいと感じてしまっている自覚はある。
その声を聞くのは俺様だけでいいのに、と独占欲が沸いてしまう。
どうしちまったんだろーな……。まさか俺様が電話だけの関係の女にのめり込むとはな……。
今まさしくその張本人との電話中なのだが、そんなことを考えていたせいで思わず苦笑が漏れてしまった。
すると、直ぐに不思議そうな声で『跡部さん?』と返ってくる。
控え目に窺うようなその声色すら、どうしようもなく心地好い。俺様も重症だな。
「何でもねぇよ、美里」
『そうですか……?』
「ああ。で、その強烈なニックネームを持つ友達が何だって?」
『えっとですね、そのニックネームが強烈すぎて周りの友達が本名を覚えてくれなくて、年賀状が全部ニックネームで書かれていたそうなんですよ』
「っく、それはまた災難だったじゃねーの。年賀状にも本名書いてもらえねぇなんざ」
『ですよねぇ』
「……ところで、お前は俺の本名知ってんのか?」
名前の話題が出ていたのでつい訊いてしまった。いつも「跡部さん」と呼ばれるもんだからつい気になっていたのだ。
そもそも俺は、美里に本名を言ったことがあっただろうか。初対面(電話だが)では跡部としか名乗ってなかったような気がする。
じゃあ知らねぇんじゃねぇの、と自分がつい口走ったことによって生まれるダメージに、思わず身構えた。
しかし意外にも美里は、さも当たり前の事のように柔らかく俺様の名を口にした。
『知ってるに決まってるじゃないですか。跡部景吾さん、ですよね?』
「……え」
『あ、あれ……? 跡部さんの下の名前って「景吾」ですよね?』
急に呼び捨てるな! ドキッとするだろーが!!
「ッ、あ、ああそうだ合ってる。でも俺はお前に名乗ったことなかったよな?」
『確かに跡部さんから直接お名前聞いたことはなかったですねぇ』
「じゃあ、何で知ってんだ?」
『守おじさんに訊いたので』
「守おじさん……ああ、"月刊プロテニス"の井上さんか。お前の叔父の」
『はい』
「何でわざわざ?」
どうしてわざわざ俺の名前を知ろうとしたのか。
ますます謎だ、と言わんばかりの声色で聞けば、少し照れたように美里は呟いた。
『だって……跡部さん、いつも丁寧に私のこと名前で呼んでくださるのに、私が跡部さんの名前を知らないのは失礼なんじゃないかなって……思いまして』
『呼ぶつもりはないんですけどね、やっぱり知っておきたいじゃないですか』
そう付け加えられた言葉に思わず赤面したのは言うまでもない。
なんだその可愛い理由は。なんなんだこれ。なんで俺様は赤面しているんだ。
なんでわざわざ鏡見ちまったんだチクショウ。顔赤えじゃねーの。いや、そんなことより平静を装え。
「そうか」
『でもストーカーかとか思われなくてよかったです』
「思うわけねーだろ」
『そ、そうですよね、あー……えっと、跡部さんは私の本名知ってますか?』
話題の変換をしたかったのか、苦し紛れに絞り出された美里の言葉に、俺はニヤリと笑う。
さっき動揺させられた仕返しだ。とびっきり甘く囁いてやった。
「一条美里」
『……っ』
「知ってるに決まってんだろーが。一条美里、俺の大切な……お嬢ちゃんの名前だ」
『あ、え……っとありがとう、ございます……?』
混乱したように呟かれたお礼に「どういたしまして」と笑うように返す。
すると『からかってますね……!?』と拗ねたような声が返ってきて、可愛げのある奴だと内心ほくそ笑んだ。
やはり、今はこの距離で良い。
時間はたっぷりある。今はまだゆっくり距離を縮めれば良い、と自分に言い聞かせた。
けれども、無性にその名前を呼びたい理由に俺様はまだ気づいていないのだった。
*****
後日
「侑士〜、何ボーッとしてんだよ?」
「ああ岳人……さっきそこで跡部があり得へんような笑顔でニコッニコしながら電話しとったんや……」
「げっ、マジで?」
「マジや……。危ない所に電話しとったんやないかと心配で……!」
「って言いながら侑士、お前ものすごいニヤニヤしてんな!」
「だってあの跡部が、やで? 春到来かもしれへんと思うと!」
「確かに面白いな……クソクソ! 電話の相手が知りてぇ!」
そんなこんなで1週間ほど跡部をニヤニヤと見つめる忍足と向日がいたことを、跡部は知らない。
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