あぁ、もう散々や。ここ数年、あまりに幸せな誕生日を過ごせてきたから落差が辛い。いや、これだけ仕事を貰えていながら誕生日当日に休めるほうがどうかしていたと言われれば、それはその通りなんだけれども。
「ごめんなぁ、明日の始発で絶対帰るから……」
『ええよ、そんな急がんで。今日忙しかったんやろ?ゆっくり帰っといで』
誕生日当日は仕事が入ってしまったため、少しずらして名前に休みを合わせてもらっていた。待ちに待ったその休日というのが明日。特別欲しいプレゼントがあるわけでもない俺たちは、普段はなかなかできない「普通のデート」をすることが誕生日の定番になりつつあった。
(――今日は東都で仕事やったけど、夜には帰れるっちゅー話やったのに……)
誰が悪いわけでもない、機材トラブルが重なり収録が押しに押して新幹線の時間に間に合わなかった。マネージャーが取ってくれたホテルに向かいながら、名前に電話をする。
「タクシーで帰る言うたらマネージャーにめっちゃ怒られたわ」
『当たり前やろ、そんなことしたら私だって家入れへん』
「えー」
冷ややかなセリフとは裏腹に、くすくすと含み笑いをする名前の声が耳に心地よくて、いらいら、もやもやしていた心がすんと落ち着く。
『ホンマに、ゆっくり帰ってきいや』
「いや、朝イチの新幹線で帰るけど」
『話聞いてる?』
朝イチといっても6時発、早朝ロケに比べればなんてことはない。それに何より俺は一秒でも長く名前と過ごしたいだけだというのに。
『そんな早よ帰ってきても私が起きてないからゆっくり帰ってきて』
「……じゃあお昼な、お昼食べに行くとこから」
『はいはい』
少しの雑談のあと、おやすみと言い合って電話を切った。名前の声が聞こえなくなった途端、どっと寂しさが押し寄せてくる。こんな調子で俺は今までどうやって生きてきたのだろうか、なんて安っぽい恋愛ソングの歌詞みたいなことを考えてしまった。
* * *
始発よりは少し遅い新幹線に乗ってオオサカへ戻る。一度家に帰る時間すら惜しいから、荷物は駅のロッカーに預けウメダで待ち合わせだ。
名前が乗ってくる路線の改札付近で待っていると時折視線を感じた。本来ならしっかりと変装してくるところを割と普段通りで来てしまったからだろう。名前が帽子やら何やら持ってきてくれるらしいが、その前に見られていては元も子もない。俺は仕方なくその場を離れ人気のない場所を探し、スマホを取り出すと名前にそれを伝える。改札を出てすぐ、俺を見つけた瞬間の名前のリアクションが見たかったのにな。
別に俺ひとりなら少し騒ぎになったところで気にはしない。その後名前と合流するから問題なのだ。けれど、それも今日までにしたい――と、ひそかに思っている。家に置いておいて名前に見つかったら困るからと数日前から肌見離さず持ち歩いていた小さな箱をポケットの中できゅっと握り締めた。
十分と待たないうちに、改札の方から名前が小走りでやってくるのが見えた。俺には散々、急がんでいい、と言っていたくせにと思いながらこちらからも歩み寄る。人気のない通路の隅とはいえ、駅の喧騒は届いている。名前は声が届く距離まで来るなり「おかえりー!」と言って微笑むものだから、そのまま抱き締めてやろうかと思った。
「はい、帽子と眼鏡」
ただいまを言わせる間もなく、名前は紙袋から取り出したそれを黙々と俺に身に着けさせていく。あっという間にサブカル男の完成だ。
「今日どっか予約してるん?」
「してるしてる、行こ」
言いながら、名前は自然と俺の手を取った。かつては誕生日だけの特別サービスだったこれも、今ではすっかり当たり前になってしまった。それでも、いつまで経っても嬉しい気持ちは薄れないものだ。
名前に手を引かれ駅ビルの洒落たレストランで昼食を取る。名前がわずかに席を立った隙に支払いを済ませておけば、誕生日やのに、と唇を尖らせた。そんなことを言えるのも今年までだ。
それから名前のリクエストでプレゼントを買いに行く。前に一度、名前の選んだものが欲しいと言ったらギリギリまで悩ませてしまったし、そもそも俺だって何が欲しいと訊かれてすぐには答えられないものを名前に求めるのは酷だからということで一回きりでやめてしまった。まあ、それでこの普通のデートができるようになったのだから俺としては儲けモンなのだが。
「あ、夜やねんけどな、昨日簓おらんかったし今朝もゆっくりやったから、ちょっと張り切ってご飯作ってきてんけど……よかった?」
「ホンマに?ええに決まってるやん!」
買い物の途中、名前がそんなことを言ったから、今年の誕生日プレゼントはお揃いの食器にしてもらった。百貨店の高級な食器などではなく、名前のお気に入りの雑貨屋でじっくり吟味していると、「そんなんでええの?」と怪訝そうな顔をしながらも不意に「なんか新婚さんみたいやね」なんて爆弾を落としていくものだから、心臓がバクバクと早鐘を打つ。思わずポケットの中の箱を握りしめた。
* * *
それから休憩がてら喫茶店に立ち寄ったあと、夕日を眺めながら帰路に就いた。片方の腕の中では食器がカチャカチャと音を立て、もう片方の手は名前のそれを握っている。一日中一緒にいても尽きることのない世間話を続けながら、時折ちらちらとこちらを見上げる名前の上目遣いがそれはそれは可愛らしかった。
帰宅すると名前は早速料理の準備に取り掛かったので、俺は隣に並んで買ってきた食器を洗う。ふわりといい匂いが漂ってきたので目をやると、鍋の中身をかき混ぜる名前はずいぶんとご機嫌な様子で、
「……やっぱ家のほうが落ち着く?」
「え?あぁ……うーん……?そうやけど、大体の人がそうやないの?」
「そらそうやけど」
名前と並んで外を歩くたび頭をよぎる不安が、帰宅してもなお顔を覗かせた。ホンマは俺と出歩くの嫌なんちゃうか、無理してるんちゃうか、って。毎回、そんなことないとは言ってくれるものの全く無理をしていないと言えば嘘になるのだろうし。
「あー……」
「……なに?」
「いや、やっぱ後で言う」
「もー、なんなん?」
呆れたような口調とは裏腹に、名前はケタケタと楽しそうに笑っていた。それから「ん」と言って手を伸ばしてくるので、洗い終わって拭いていた食器を手渡すと、てきぱきと料理が盛られていく。ビーフシチューにロールキャベツ、フルーツの入ったポテトサラダは総菜ではなく手作りのようだ。張り切ったと言うだけあって、いつもより品数が多い。けして料理が得意なわけではない名前からしたら、どれほど頑張ったことかと思う。
「なー、名前」
「ん?」
「昨日帰って
来られへんくてごめんな」
「えっ、なに急に」
料理をダイニングに運ぼうとする名前の服の裾をくいと引いて小さな背中にぴとりとくっつきながら言えば、名前は本気で驚いた様子で丸い目をしてこちらを見上げた。
「俺が帰って
来えへんかったから、こう、寂しさを紛らわすために黙々と料理を……」
「そんなんちゃうわ、調子乗んな」
「名前、」
名前が運ぼうとしていた皿をそっと奪い取ってテーブルに置く。名前はそんな俺の行動を不思議そうにじいと眺めていた。
もうちょっと、あと数十分でも我慢すればいい話なのに、名前がどれだけ俺のことを好きなのかとか、そして俺はたぶんその何倍、何十倍も名前のことが好きだとか、そんなことを考えていたら身体が勝手に動いてしまう。正面に立って向かい合えば、さすがの名前にも少し緊張が伝わったようで。
「今日な、ずっと言おうと思っとってん」
「な、なに、改まって」
「来年は……や、来年なんて先の話やなくて、もっと近いうち……名前とふたりで、堂々と外歩きたいねん」
「へ……どういうこと、」
「結婚して、事務所にもファンにも公表して、堂々とオオサカの街闊歩したろ……って、意味……」
あれ、なんや、おかしいな。もっと威勢よく、カッコよく宣言するはずやったのに。
かっと顔に熱が集まるのが分かる。声が、吐息が震える。緊張してる?俺が?あっ、俺指輪出してない、
「簓」
「ま、待って!ちゃうねん!これ!渡して、もっとちゃんと、」
慌ててポケットに手を突っ込むが、中で引っ掛かって上手く取り出せない。もたつく俺を見つめる名前の顔が見られない。いや、こんなんカッコ悪すぎやろ。どんどん視界が暗く狭くなるような感覚。こんなん何年ぶりや、なんて、そんなことを考える余裕だけはあって。
慌てるから、余計に指先が上手く動かない。頭が真っ白になりかけたところで、とん、と柔らかな衝撃が俺を襲う。一拍遅れて、名前が俺を抱き締めていることに気付いた。
「なんで……なんで今日そんなこと言うん」
「えっ!?アカンかったん!?」
俺の胸元に埋められた名前の顔は見えない。ようやくポケットから出てきた指輪も、こんな体勢では披露できない。
「アカン、わけないやん」
ぎゅう、と背中に回された腕に力がこめられる。抱き締め返したいのに、名前が俺の腕ごと抱き着いているものだからなすすべがなかった。
「簓の誕生日やのに、私がそんなん貰って、喜ばせてもろてどないすんの」
名前の声は震えて、もそもそとこちらを見上げた目は涙に濡れているようでゆらゆらと揺れて、今にも泣きだしそうな顔はけして可愛くはないはずなのに、今までで一番愛おしかった。
「俺と、結婚してください」
「うん……うん」
名前を振りほどいてしまわないように、そっと抜きだした腕を背中に回して、ゆるく弧を描く唇に触れるだけの口づけを落とした。すっかり披露するタイミングを失ってしまった指輪は、テーブルの上で静かに出番を待っている。
「もう、来年も再来年も一緒におろなって言わんでええな」
「そんなこと言われんでも、ずっと一緒におるつもりやったけど」
「ふふ、俺もや」