ああ、名前に会いたい。この収録が終わったら、やっと名前に会える。特番が重なっていつにもまして多忙を極めていた俺は、生活リズムが噛み合わなかったこともあり、まる三日名前と顔を合わせていない。いや、寝顔は見たけど。
今日の日付は十月三十一日。事務所のホームページにもウィキペディアにも記載の通り、俺の誕生日だ。もちろん名前も分かっている。帰るのが夜だと言うと、当日ではなく翌日に休みを取ると言っていた。それはつまり、そういうことやんな?なんて下世話なことを考えつつ仕事をこなす。
収録を終え、挨拶もそこそこに楽屋に戻ると、俺が帰るのを待っていたかのようなタイミングでスマホが震えた。
「今日の誕生日パーティーは盧笙んちで……?」
届いたメッセージを何とはなしに読み上げる。送り主は言うまでもなく名前だ。自分の家ではなく盧笙の家に向かえという連絡。
「なんでや……?」
つまり、そういうことではなかったのか?俺はがくんと肩を落とした。
……とはいえ、最近の誕生日はもっぱら名前とふたりで過ごしていたから、たまには盧笙に祝ってもらうのも悪くない、なんて考える程度には俺は元相方のことも大好きなのである。
* * *
「なんで名前おらんねん!」
収録を終え俺の家にやってくるなり簓はそう言って暴れた。暴れたというか、駄々をこねる幼稚園児のようだった。
「せやから、名前風邪引いて、おまえに
感染したないから泊めたってくれ言われとんねん」
仕事を終えて帰ってきたころ、名前から突然連絡があった。風邪を引いて咳が止まらなくて、簓に
感染したくないから泊めてやってほしいと。俺が了承すると、今日簓と食べる予定だったのであろうケーキと簓の着替えを持ってきて、そそくさと帰っていった。
「なんで盧笙が名前と会うてんねん……俺はもう三日も話してないのに……」
「俺もそんな話してへんわ。ほら、おまえの着替えとか一式持ってきてくれたで」
先程受け取った鞄を簓に手渡すも、簓はまだ納得いかない様子で唸り声を上げていた。
「それ詰めて持ってこれる程度には元気なんやろ、すぐ帰れるって」
「いや、これ俺が急な仕事のとき用に置いてるやつやから、別に名前が詰めたわけでは……」
言いかけて、簓はぴたりと動きを止める。
「……盧笙、名前の様子どないやったん」
「どないって、咳止まらんだけで元気やから大丈夫って……」
「……ホンマに?」
そう言われても、名前は眼鏡にマスクだったから顔色なんて分からなかったし、足取りもそれなりにちゃんとしていたように見えたが――
「いや、名前が弱ってるとこ見せへんのなんていつものことやん!何年の付き合いやねん、幼馴染のくせして!」
「なッ……一緒に暮らしてて気付かへんおまえに言われたないわ!」
「しゃーないやん、寝てるとこしか見てへんねんもん!」
バッと立ち上がった簓につられ、俺も立ち上がって半ば叫ぶように言うと、隣人からドンと壁を叩かれてふたりしてビクリと肩を跳ねさせる。
「……とにかく、俺は帰る。絶対無理してるに決まっとる」
「それは……アカン、名前に絶対簓を引き留めろって言われとんねん」
「名前のこと心配ちゃうんか」
そう言った簓の表情は、キーキーと怒っていた先程までとは違い真剣そのものだった。俺は一瞬言葉に詰まりつつ、ゆっくりと口を開く。
「心配や。心配に決まっとる。でも簓に
感染したないっていう名前の気持ちも分かるから、俺はおまえを帰すわけにはいかん」
簓は納得行かないという気持ちを前面に出しているから、俺は畳み掛けるように付け足した。
「誕生日で三日ぶりやったんやろ。名前かて一緒におりたいに決まってるやん。それでも俺に連絡してきたんや」
名前が弱っているところを見せないと先に言ったのは簓のほうだ。一緒に暮らしているのにろくに話もできないなんて、名前だって寂しかったに決まっている。それでも簓の身体のことを真っ先に考えて、きっと動くのも辛い中ここまで来たのだ。俺はそんな名前の努力を無碍にするわけにはいかない。
「名前には後日祝ってもろたらええやん、今日は俺に祝われとき」
「……明日の朝には絶対帰る」
「俺が頼まれたのは今夜おまえを泊めろってことだけや」
好きにせえ、と言うと簓はようやく納得したのか、渋々と腰を下ろした。
* * *
翌朝、始発で帰ろうとしたところを盧笙に全力で止められ、俺が家に着いたのは九時を少し過ぎたころだった。まだ名前が寝ている可能性もあるのでインターホンは鳴らさず自分で鍵を開ける。
「ただいまー……」
キッチンとダイニングはいつも通り片付いている。高熱で動けない、なんてことはなかったらしい。リビングにも名前の姿はなかったから、忍び足で寝室へ向かう。音を立てないよう、そうっとドアノブを回すと、規則正しく上下する布団が目に入った。
起こしてはいけないと思いつつゆっくりと近づき、穏やかな寝顔にほっと息をついた。名前が起きるまで待とう。そう考えて踵を返そうとすると、不意に名前がゲホゲホと咳き込んで、その拍子に目を覚ました。
「あ……簓……?」
まだ半分ほどしか開いていない目が俺を捉える。ハッとしてサイドテーブルに置いてあったマスクに手を伸ばす前に、ほんの少し嬉しそうに顔が緩んだのを見逃す俺ではなく、いつにない反射神経で勢いよく名前に抱きついた。
「ちょっと、簓、
感染るからアカンって……」
「名前がこんだけ焦らすから悪いんやろ」
「別に焦らしてへんし……」
口だけは達者だが、抱き締めた身体はいつもより少し熱い。
「電話くらいはしようと思っててんけど、したら簓また帰るって言い出すやろなって思って……」
「うん、それはそうやな」
「……まあ、日付変わる前に寝てもうてんけど」
「ええよ、いっぱい寝て
早よ治し」
ぽんぽんと軽く頭を撫でてやると、名前は気持ちよさそうに目を細め、再び夢の世界へ旅立とうとしていた。後になって気づいたのだが、おそらく風邪薬を飲んでいるせいで眠かったのだろう。
寝かしつけた赤ん坊をそっとベッドに下ろすように、名前の身体をマットレスに横たえてやると、名前は再びわずかに目を開けた。
「簓……誕生日おめでと……」
これは最後まで言い切ったと言えるのか。名前はそのまま力尽きるように眠りに就いた。俺はありがとうの気持ちを込めて、熱い額にちゅ、と口づけを落とした。