大人になったら誕生日なんてさして特別でもないし、ましてや平日ともなれば本当に何でもない普通の日だ。なんなら、私は今日に限って仕事が長引いたし、獄さんは何か大きな案件を抱えているらしく、ここ数日はずっと残業をしている。今日も例外ではなかったようで、「今どこ?」とメッセージを送れば「事務所」と一言返ってきた。
事務所の窓を見上げれば、確かにぼんやりと明かりが灯っていた。教えてもらった暗証番号を打ち込んでオートロックを解除して、小走りで事務所へ向かう。そうっと扉を開けてみれば、獄さんのデスクの周りだけ蛍光灯の光が煌々と降り注いでいる。いつもより少し丸まったその背中は、私の訪いに未だ気付いていないらしい。
「ひとやさん」
忍び足で近付いて耳元で囁けば、逞しい肩がびくりと跳ねる。私がくすくすと笑い声を上げると、獄さんは少し嫌そうな顔をしたけれど、ハァと小さく溜息を吐くと、椅子ごとくるりと回転してこちらを振り返った。
「来るなら言えよ」
そんななんてことはない会話をしながら、獄さんはするすると手を伸ばして、当然のように私を抱き締める。何してるの急に!そう思うけれど、獄さんがあんまり冷静だから、私も何も言えなくて、普通に返事をせざるをえない。
「……言ったよ、獄さん未読無視」
「……マジか」
マナーモードにしてねーのに、と獄さんの掠れた声が耳元をくすぐる。ずいぶん集中していたみたいだ。獄さんの連絡が途絶えたときには、時々そういうことがあるから、あんまり気にしていない。
「獄さん、お誕生日おめでと」
なかなか解放してくれる気配がないものだから、仕方なく私も広い背中に腕を回して、そう呟く。一日頑張って崩れかけのリーゼントには、もう未練はないだろうか。そっと頭を撫でてみても、何か文句を言われることはなかった。
「誕生日……ああ、そうか」
「忘れてたの?」
「もうめでたくもねーよ」
「そんなことないよ」
ぐり、と額を私の肩に押し付けて、獄さんは言う。そりゃ、もうそろそろ歳取りたくないかもしれないけど。私はこの先何年だって、獄さんが生まれたこの日に感謝したいし、一年で一番めでたい日に変わりないのだ、なんて恥ずかしいから言ってあげない。
「ね、プレゼント何がいい?獄さん、何あげても文句言いそうだから訊いてからにしようと思って、何も買ってないよ」
「……喧嘩売ってんのか?」
わずかに身体を離したおかげでちらりと見えた獄さんの顔はひくひくと引きつっていた。本当のことなのに。
「ほんとに欲しいもの貰えたほうが嬉しいでしょ?もうすぐボーナス入るからわがまま言っていいよ」
なんて、きっと私の何倍も稼いでいる弁護士先生に言ったところで、ありがたくもなんともないんだろうけど。思わず苦笑いしながら獄さんの顔を覗き込むと、じ、と熱っぽい視線を送られる。
「じゃあ、おまえ」
「……え?」
……なんか今、獄さんの口からおかしな言葉が聞こえた気がする。固まる私の身体を突然ぐいと引いて、獄さんの大きな手のひらが片方、後頭部を這う感覚がした。
あ、これ、ちゅーするときの。そう思ったときにはもう私に自由に呼吸することは許されていなかった。心も身体も準備不足の私の都合なんてお構いなしで、獄さんの唇が、舌が、彼の欲望のままに暴れまわる。
「ひ、んっ、ひとや、さ、」
わずかな隙に必死で言葉を紡いで、固い胸板を半ば殴るようにして訴えれば、ゆっくりと唇が離される。つぅ、と銀の糸を引いたのは絶対わざとだと思った。
「五分で片付けるから待ってろ」
何事もなかったかのように、獄さんはまたくるりと椅子ごとデスクへ向き直る。
待ってろって何!そんな誕生日プレゼント認めてないし、素直に待ってるのもなんか期待してるみたいで恥ずかしいし、ほんとに何なの!
だけど再び書類に向かった獄さんの顔が、来たときよりずいぶんといきいきして、心なしか顔色もいいものだから、私は素直に来客用のソファーに腰を下ろすしかなかった。