ささらくんとお姉さん(1/2)

引っ越しを終え、荷解きをする。必要なものが入った箱から順番に開けていって、全てのダンボール箱が片付いたのは、確か一ヶ月後くらいだっただろうか。一人暮らしだから荷物はそう多くないはずなのに、自分のものぐさっぷりが情けない。

最後のダンボール箱を片付けようとしたとき、どこかから落っこちてしまったらしい一枚の写真が底に貼り付いているのに気付いた。裏向きになっていたそれを手に取ると、10年近く前の私と、小学生くらいの男の子がカメラに向かって微笑んでいる。

「……ささらくん」

意外とすんなり名前が出てきたことに自分でも驚いた。
簓くんは、私が最初に一人暮らしをしていたアパートの近所に住んでいた男の子。鍵っ子だった彼の背中があまりに寂しそうで、そのころ平日休みの仕事をしていた私は、つい休みの日だけでも遊びにおいでなんて言ってしまったのだ。学校帰り、簓くんはランドセルを背負ったままうちにやってきて、宿題をして、ご飯を食べて、時々お風呂にも入って帰っていった。今なら誘拐で捕まっても言い訳できない案件だな、なんて思って苦笑する。だけど親御さんから何か言われたことは一度もなくて、きゅっと胸が痛くなった。

姿を見かけるたび「名前ちゃん!」と嬉しそうに声を上げて駆け寄ってくる簓くんのことを思い出すと、つい頬が緩む。彼は中学、高校と上がるにつれ、帰りが遅くなるのもあって、うちには来なくなった。もちろん外で会えば会話はしたけど。だから、私の思い出の中の簓くんは、一番一緒にいたであろう小学生のころで時が止まってしまっている。でも、あんなに可愛かった簓くんももう成人しているのか。

「元気かなぁ……」

スマホはまだ今みたいに普及していなかったし、連絡先なんて知らなかった。私は何度か引っ越しをしたし、簓くんももうご実家を出てしまっただろう。
今更会えなくたっていいから、もうあんな寂しい思いはしないで、誰かいい人と幸せに暮らしていたらいいな、と思いながら写真を手帳に挟んだ。

* * *


子供のころ、誰もいない家に帰るのが嫌だった。そんな俺に唯一「おかえり」を言ってくれる人がいた。

名前ちゃんは、うちの近くで一人暮らしをしていた、いつも笑顔で愛想がよくて、近所のおばあちゃんたちにも評判のいい女の子。そのころ、社会人になったばかりだと言っていたから、10歳差くらいだろうか。学校帰りの俺にも笑顔で挨拶をしてくれて、それから少しずつ会話をするようになった。
俺が帰る時間には家に誰もいないと知った名前ちゃんは、平日休みの仕事をしていて、私が休みの日はうちに来ていいよ、と言ってくれた。はじめは子供なりに遠慮していたものの、ひとりぼっちの寂しさに堪えかねて、少しずつ名前ちゃんの家に遊びに行くようになった。

ある日「お邪魔します」じゃなくて、おそるおそる「ただいま」と言ってみたら、名前ちゃんは当たり前のように「おかえり」と言ってくれて、久しぶりに聞いたその言葉の温かさに、俺は名前ちゃんの家のトイレで少し泣いた。

名前ちゃんは俺をお客様扱いしない。俺はランドセルを背負ったまま名前ちゃんの家に行き、その日の宿題をする。その間、名前ちゃんは家事をしていることが多かったけど、時々勉強を見てくれたりもした。

それから晩ごはんを食べさせてくれて、時間のあるときにはお風呂に入ってから帰ることもあった。そのころの俺の本来の晩ごはんは、親が机に置いていったお金で買うお弁当だったから、俺はそのお金を名前ちゃんに渡そうとしたけど、名前ちゃんは絶対に受け取ってくれなかった。お手伝いしてくれたらいいから、と言うけど、俺の仕事は皿洗いくらいだった。名前ちゃんの家に行かない日は、ひとりで冷たい弁当をぼそぼそと食べていたから、誰かとおしゃべりをしながら食べる温かいご飯は本当に貴重で、俺はその時間が大好きで、だから皿洗いくらいじゃ到底釣り合わないのに。
お風呂を貸してもらったときには、名前ちゃんがドライヤーをかけてくれる。こんな短い髪、放っておいてもすぐに乾いてしまうのにと伝えても、名前ちゃんは「風邪引くから」と言って絶対に譲らなかった。俺をソファーに座らせて、名前ちゃんが後ろからドライヤーを当てる。わしゃわしゃと髪を動かす左手に、なんだか頭を撫でられているみたいで、俺はそれが大好きだった。

そのうち俺は小学校を卒業した。中学、高校と上がるにつれ、部活やバイトで帰りが遅くなる。名前ちゃんの家に行く機会は自然と減っていった。それでも外で会えば普通に挨拶をして、俺が学校であったことを話せば、名前ちゃんは笑って最後まで聞いてくれた。
俺が高校に上がってすぐ、名前ちゃんはどこかへ引っ越してしまった。新生活で慌ただしかった俺は、近所のおばあちゃんに聞くまで気付いてすらいなかった。挨拶もなく去っていった名前ちゃんに憤りを感じないではなかったが、よく考えたら俺たちはお互いの連絡先を何も知らないということに気付いて、虚しくなった。

(俺、名前ちゃんのこと好きやったんやなぁ)

そう気付くには少し遅かった。

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