ささらくんとお姉さん(2/2)

芸人としてはじめてそこそこ大きな賞を取って、お祝いと称して飲みに連れ回されて、酷く酔って帰ったある日のことだった。
自分の部屋に帰ってくるなり、ばたんと床に倒れ込む。ひんやりとした床の冷たさを堪能していると、箪笥の下に何か紙が落ちているのが目に入った。お札とかやったりして、と浮かれたことを考えて手を伸ばす。わずかに覗いていた角に爪を立てて引っ張り出すと、それは残念ながらお札ではなく、一枚の写真だった。裏向きになっていたそれをひっくり返すと、すっと酔いも覚めてしまう。

「名前ちゃん、」

そこにいたのは小学生の俺と、当時の名前ちゃんだった。なんで撮ったのかも誰に撮ってもらったのかも覚えていないけど、焼き増ししたそれを名前ちゃんとふたりで分け合ったことだけは覚えている。
せっかく気持ちよく酔っていたのに、なんで今更こんなものが出てくるのだろうか。芸人として新たなスタートを切ろうというこのタイミングで、どうして。
写真の中の俺と名前ちゃんは幸せそうに笑っている。そうだ、俺は、みんなのこの顔が見たくてお笑いを始めたのだ。そう思うと、このタイミングでこの写真が出てくることにも何か意味があるような気がしてしまう、なんて、ロマンチストが過ぎるだろうか。

――あぁ、会いたいなぁ。今の俺を見たら、どんなリアクションをするのだろうか。驚く?呆れる?それともこの笑顔で一言、すごいね、くらいは言ってくれるだろうか。
会いたい、ひと目でいいから、そんな思いが募るうちに、俺はあることを思い出した。ガバッと飛び起きて、片っ端から引き出しを漁る。俺にあれが捨てられるはずがない、絶対にどこかにあるはずだ。
仕事の合間にずっと探し回って、ようやく目的のものが見つかったのはそれから三日後で、俺の部屋はまるで空き巣にでも入られたかのような酷い有様だった。

* * *


最後に会ってから数年経ったはずなのに、髪型も服装もまるで違うのに、俺はそれが名前ちゃんだとすぐに分かった。
俺のこと、まだ覚えてくれているだろうか。こんな急に現れても、迷惑だったり、怖がらせてしまったりしないだろうか。
名前ちゃんの勤める会社のビルの前で、じっと彼女を見つめたまま動けない俺を、不意に顔を上げた名前ちゃんが見つける。ちら、とこちらに目を留め、立ち止まった彼女の口が「ささらくん」と動いたのが分かって、駆け出した。

「名前ちゃん」

「簓くん……?」

名前ちゃんが確かめるように呟くから、俺はコクコクと何度も頷いた。まだ少し訝しげだった表情がふにゃと緩み、俺の心臓はどっと跳ねる。本当に、あのころから何も変わっていない。

「久しぶりやねぇ!元気やった?」

ぱぁと笑顔になって尋ねる名前ちゃんに、俺はまたコクコクと頷いた。たくさん言いたいことがあったはずなのに、懐かしい笑顔を前に、まるで子供のころに戻ったような気持ちになってしまって、上手く言葉がまとまらない。

「何か用事?」

ここ、たぶんオフィスしか入ってへんけど……と、ビルを振り返って首を傾げる名前ちゃんに、今度はブンブンと首を振る。

「名前ちゃんに会いに来てん」

「私?」

そう言うと名前ちゃんは不思議そうな顔をしつつも「じゃあ、どっか座る?」と言って、近くの小さな公園に連れて行ってくれた。名前ちゃんに先にベンチに座ってもらって、俺は缶コーヒーを買いに自動販売機へ走る。名前ちゃん、いつも砂糖とミルクたっぷりやったな、と不意に思い出して、カフェオレとブラックを買って戻った。

「どっちがええ?」

一応両方を差し出して尋ねると、名前ちゃんはカフェオレを指差して「こっち貰ってもいい?」と答えた。やっぱりな、と思いながらそちらを渡すと、笑顔でお礼を言われる。

「やっと(もろ)てくれた」

「……うん?」

「ずっと、名前ちゃんには(もろ)てばっかりやったから」

俺が少し不満げに呟くと、名前ちゃんはクスクスと笑い声を漏らす。

「そんなん当たり前やろ、簓くん、あのころはまだ子供やったんやから」

あのころは、ということは、今はもうちゃんと大人の男として見てくれてるんかな――なんて、この考えが子供そのものだ。
何とも言えない顔をしているのであろう俺を、名前ちゃんがきょとんとした顔で覗き込んでいた。

「でも、なんでここ分かったん?」

「昔、名刺くれたやろ、それ見て」

それは名前ちゃんの家に上がるようになってから何日かしたころ、「この人のところにおるよって、おうちの人に渡しといてな」と言って差し出されたものだった。まだ何も知らなかった名前ちゃんは、お父さんとお母さんに、と二枚の名刺をくれたのだが、当時の俺にはそれを渡すべき相手は一人しかいなくて、もう一枚は自分で大事に持っていた。携帯電話なんて持っていない時代、それは名前ちゃんとの繋がりを表しているようで嬉しかった。
結局、ついこの間までその存在も忘れていたのだが。覚えていたら、高校のころでも連絡を取れていたかもしれないのに。
必死で発掘したそれを見せると、名前ちゃんは目を丸くして、

「わぁ、よう残ってたね!一番最初のやつ!」

俺が持っていた名刺の名前ちゃんは支店の平社員なのに、今の名前ちゃんが鞄から取り出したそれには、本社の何かごちゃごちゃした役職名が書かれている。会社勤めをしたことのない俺にはよく分からないけど、俺がフラフラしている間にも名前ちゃんは着実に出世をしていたんだろう。
縮まるどころか開いている気すらする名前ちゃんと俺との差に、胸が痛くなる。でも、俺は同時に、未だ名前ちゃんの名字が変わっていないことに気付いて安心もしていた。

「簓くん、今何してるん?」

「お……お笑い芸人」

ついに来たその質問に、わずかに言葉が詰まった。名前ちゃんはそんな人じゃないって分かっているはずなのに、立派に社会人をしている名前ちゃんの姿を見たら、呆れられるんじゃないかと不安になって。思わず視線を逸らし、足元を見つめながら答えると、一瞬の沈黙のあと、名前ちゃんが声を上げる。

「ホンマに!?すごいなぁ!簓くん、お笑い好きやったもんね」

顔を上げると、名前ちゃんは満面の笑みで、まるで自分のことのように喜んでいた。

「そっ、それでな、この間賞取って、名前ちゃんに聞いてほしくて」

「そうなん!?おめでとう!頑張ってるんやなぁ」

まるで子供のころみたいに、名前ちゃんが俺の頭を撫でる。こんなん、何年ぶりやろ。それこそ名前ちゃんにしてもらったのが最後じゃないかって考えて、胸が熱くなった。

「もう何回もしたかもしれへんけど、私もお祝いしたいなぁ……あ、昔みたいにうちでご飯する?」

「……え」

あまりに突然の提案に思わずそう声を漏らすと、名前ちゃんは慌てて「こんなん言われても困るか、ごめんな」と苦笑する。その顔がすごく寂しそうで、俺はブンブンと勢いよく首を振った。

「や、ちゃうねん、ちょっとびっくりしただけで!嬉しい、けど」

――あぁ、どないしよ。まだ言うつもりなかったけど、でも、こうも無防備に、昔みたいにって俺を家に呼ぼうとする名前ちゃんを見ると、言うとかなあかんなぁ、と思ってしまった。

「……あの、名前ちゃん」

「なに?」

「俺、一応もう大人で、それで、名前ちゃんのこと好きやから、そんな簡単に家呼んだあかんよ」

こんなこと、顔を見て言えるはずがなくて、俺はまた視線を逸らして、膝の上で握った自分の拳を見つめる。これまで見たことがないほど血管が浮いていて、どんだけ力入れてんねん、と他人事のように思った。

「……な、なんて」

数秒の沈黙のあと、名前ちゃんはそんな残酷なことを言う。でも、おそるおそる顔を上げたら名前ちゃんはまさに茹でダコみたいに真っ赤な顔をしていて、一応届いたんかな、と都合よく解釈した。

「名前ちゃんにはめっちゃお世話になったし、色々報告するのが筋やとは思うけど、俺、それだけのために家中ひっくり返して名刺引っ張り出してきて、何時間も会社の前で待ってられるほどお人好しやないで」

これはカッコ悪いから言いたくなかったのに、名前ちゃんに少しでも俺の気持ちを伝えたくてつい言ってしまった。名前ちゃんは膝の上に乗せていた鞄をぎゅっと抱いて、赤い顔を隠すみたいに小さくなっている。俺なんかよりずっと大人だと思っていた彼女がまるで少女のような反応をするのがあまりに意外で、見ているこっちはスンと冷静になってしまう。
そして、そのあまりに初々しい反応に、俺は期待してしまうのだ。

「名前ちゃん、今彼氏とかおらへんの」

「そっ、そんなんおらん!」

おったら簓くん呼ばへん、と小声で付け足されて、確かにと思った。

「じゃあ俺、立候補する」

「へっ」

「久しぶりに()うたばっかりやし、今はこれ以上は何も言わんけど、もっと名前ちゃんと釣り合うような男に、」

「ちょ、ちょっと待って、簓くん!」

名前ちゃんはガバッと顔を上げると、俺の腕を掴んで言葉を遮る。名前ちゃんに触れられたところがじんわりと熱くなるような心地がして、この人、人の話聞いてるんかなぁと思った。自分のこと好きや言うてる人間に、そんな簡単に触ったらあかんやろ。

「私、簓くんよりずっとおばちゃんやで、簓くんカッコええし、もっと若くて可愛い子、いくらでも見つかるよ」

「そんなんいらん、名前ちゃんがいい、それに名前ちゃんはかわええよ」

「う……」

最初に触れてきたのは名前ちゃんのくせに、俺の腕を掴む掌に自分のそれを重ねてそっと捕まえて、パニックで今にも泣き出しそうな顔を覗き込めば、潤んだ瞳を大きく揺らして、逃げるように身体を引こうとする。重ねていた掌をするりと滑らせ、手首を掴んでそれを阻止した。せめてもの抵抗か、名前ちゃんは再び鞄を抱えて丸くなる。

「なんで今になって、こんな」

「今更やないよ、俺はたぶん、名前ちゃんと会ったときからずっと、名前ちゃんのこと好きやった」

「会ったときって、小学生やん……」

「今どきの小学生はオマセさんやなぁ」

軽い口調でそう言えば、ふふ、と笑い声が聞こえてきて、数分ぶりに名前ちゃんの笑顔が見えた。

「……分かった。とりあえず、今は何も言われへんけど、また簓くんと会えたのは嬉しい」

「うん、今はそれでええよ」

それから名前ちゃんの今の連絡先を聞いて「もう黙っておらんくなったら嫌やで」と言ったら「あのころ、ずっと来てくれへんかったん簓くんやん」と言われた。
駅まで彼女を送る道すがら、一歩近付いて手を握ると、名前ちゃんはびくっと肩を跳ねさせながらも、弱々しく俺のそれを握り返してきた。俯いた頭の、髪の隙間から覗く耳まで真っ赤で、愛しさが溢れかえる。
絶対絶対、いつか、好きって言わせたる。

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