この歳まで独り身だと、まあ、そういう話を持ちかけられることも少なくないわけで。しかもそれが直属の上司からだったりすると、それはもう断りづらい。会うだけでいいから、とまで言われてしまったら、頷くしかなかった。
「はぁ……」
「名前ちゃん、どないしたん?」
簓くんとのデート中だというのに、思わず大きな溜息が漏れてしまった。慌てて両手で口を塞いだが、これではかえって何かありますと言っているようなものだ。
先日、数年ぶりに再会して連絡先を交換して以来、簓くんはことあるごとに私を誘うようになった。遊びに行く、とせめてオブラートに包んで言いたいところだが、開口一番「デートしよ!」と言われてしまったので、これはれっきとしたデートなのである。
……まあ、簓くんの気持ちは聞かせてもらっているし、それを知りながらのこのこと出てきた私に何か言う権利はないのだろうけど。
「あ、いや、なんでもないよ」
季節が変わるので服を見たいという簓くんと訪れたショッピングモールの、休憩がてら入ったカフェで向かい合う。グラスの氷をストローでカラカラとかき混ぜる手を止めこちらを伺う簓くんは、とても心配そうな顔をしていて、もうとっくに守ってあげなきゃいけない子供ではなくなっているんだな、と思った。
「……俺には言われへんこと?」
だけど、どこか拗ねたようなその声音はまだまだ幼い。私が未だに小学生のころの彼の面影を見て可愛がりたくなるように、簓くんもまた私に甘えたかったりするのかな、なんて考えることがある。
「言われへん……というか……」
簓くんの耳に入れても、気分のいい話ではないだろうな、と思い口をつぐんだ。隠したいわけではないけど、どうせ断る話だし、それなら何も知らないほうがいいんじゃないか。
黙り込む私を見て何を思ったのか、簓くんはさっきまで拗ねたような怒ったような顔をしていたのに、じわじわと眉を下げはじめた。
あ、これ、子供のころに「そろそろ帰ろか」って言ったときの顔と同じだ、と思って胸がきゅっとなった。
「それは、仕事の話とかで言うたらアカンから言われへんの?それとも俺に話してもしゃーないから言わへんの?」
「そ、そういうわけでは……」
しゅんと悲しそうなその顔で言われたら弱いなんて、簓くんが知っているはずはないのに、まるで分かってやっているんじゃないかと思う。
「簓くん、たぶん嫌やろなって話やねんけど、聞く?」
とうとう折れてそう口にしてしまう。すると簓くんは一瞬ぱっと顔を輝かせたあと、きょとんとして首を傾げる。
「嫌?」
「あー……うん、えっと……」
一度は話そうと決めたものの、やはり躊躇われる。なるべく穏やかに話が進むよう、私はゆっくりと慎重に言葉を選び始めた。と言っても、そんなに複雑な話でもない。部長の知り合いの息子さんとお見合い……なんてかっちりしたものではないけど、お食事をしにいって、だけど私はそれっきりで終わるつもりだという話。
「たまにこうやって紹介してくれるんやけど、さすがに毎回断るのも申し訳なくて……向こうも会うだけでいいって言うてるから」
俯く簓くんの表情はよく見えない。言い訳がましい言葉を並べながら、ちらと彼を伺う。
……自分から保留してるくせに、なんか彼女面してるみたいで申し訳なくなってきた。
「……簓くん?」
何のリアクションも返してくれない簓くんに、いよいよ堪えかねて声をかけると、彼はがばっと顔を上げた。それからコーヒーカップに添えられていた私の手を取り、今にも泣きそうな顔でこちらを見つめる。
「そんなん、行かんとって……」
予想外の反応に「うっ」と変な声が漏れてしまった。もっとこう、ぷりぷり怒りだすとか、あるいは拗ねるとか、そういうのを想像していたのに。
「俺まだ名前ちゃんの彼氏やないし、こんなこと言う権利ないんやろけど、でも、行ってほしない……名前ちゃんが断る気やって分かってても、そんなん嫌や……」
小学生のときの簓くんでもここまで情けない顔を見せたことはないのに、今になってこんな、震える声でそう言われてしまったら、一も二もなく頷いてしまいそうになる。
「……でも」
私の葛藤を知ってか知らずか、簓くんは続ける。
「そういう話、持ちかけられんの初めてやないのに、今更そうやって溜息吐くほど悩むんは俺のせい?」
……やとしたらちょっと嬉しい、名前ちゃんには悪いけど、なんて、今度ははにかむように笑いながら言うものだから、私の感情はもうめちゃくちゃだ。年下の男の子に、こんなに翻弄されてる。
「さ、簓くん、あの、今回はもう話進んでるから……行くけど」
そう言うと簓くんはまた悲しそうな顔をしながら「うん……」と頷く。
「次からは、ちゃんと断るから……彼氏、おるから……って……」
今にも消え入りそうな、というか実際ほとんど消えていたであろう小さな声で言うと、簓くんはもう一度「うん……」と頷いたあと「え!?」と顔を上げた。
「え、あ、名前ちゃん、それは」
握っていた私の手をぱっと離した簓くんの両手が、あたふたと行き場もなく宙を舞い、頬や口元、頭なんかを忙しなく行ったり来たりする。それがすんと落ち着いたかと思うと、今度はじわじわと顔を赤くして、先程とは別なニュアンスで再び泣きそうになりながらこちらを見た。かく言う私も、もう今にも火が出るんじゃないかってくらい顔が熱い。
「簓くんがホンマにいいなら、私と、正式に、お付き合いしてください」
膝の上で握りしめた手が汗でびしゃびしゃになっている。なんなら顔にも背中にも変な汗をかいている気がする。心臓もバクバクで、こんなの何年ぶりだろうかってくらい緊張していた。
簓くんからの返事はなかなか聞こえてこない。何か変なことを言っただろうか。もしかして重かった?若い子はもっと軽い感じでお付き合いをするのかもしれない。あぁ、どうしよう、断ってくれていいんやで、と思って慌てて顔を上げると、ちょうど簓くんがズッと鼻を啜ったところだった。泣いてこそいないものの、今にもその目からは涙が溢れてくるんじゃないかと思う。
「さっ、簓くん!?大丈夫!?」
「名前ちゃんのせいやん……」
「え!?」
すっかりパニックの私を見ると、簓くんはカラカラと笑った。それを見て、私も少しほっとする。
「こんなこと言うてもらえる日が来るなんて、思ってなかった」
私も言うつもりなかったわ、というのは心に留めておく。だけど、簓くんの顔を見て、声を聞いていたら、言わずにはいられなかったのだ。私も、ひとりの異性として簓くんに惹かれているのだと、気付いてしまった。上司に紹介される男の人とはお付き合いどころか、そもそもまるで興味もないけど、簓くんとなら――と考えている自分に、気が付いてしまった。
「……あの日、わざわざ会いに来てくれてありがとう」
また会えてよかった、と、数年ぶりに再会したあの日を思い出して言うと、簓くんは一瞬不思議そうな表情をしたあと、にぃと顔を綻ばせた。
「俺も、会いに来てよかった。名前ちゃんがまだ誰のもんにもなってなくて、俺のこと選んでくれて……」
そこまで言うと簓くんはちらりとどこか遠くを見るような目をして、再び私に視線を合わせ、微笑む。
「昔の俺に言うてやりたいなぁ」
あまりに無邪気な、心から嬉しそうなその笑顔に、小さいころの簓くんが重なる。今、こんなことになっているなんて知ったら、昔の私はどう思うだろうか。きっと微塵も信じてくれないだろうな。
「……あー、これで名前ちゃんがそのお見合いモドキ行かんとってくれたら最高やねんけどなぁ」
「そ、それは……」
それまでの柔らかな空気が嘘みたいに、突然そんな棘のある台詞を吐き出す簓くんに、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。一瞬で顔面蒼白になる私を見ると、簓くんは小さく肩を震わせて、
「嘘やで、いや、嘘ではないけど……名前ちゃんにも事情があるんやって分かってるし、ちゃんと待ってるわ」
「……うん、ごめんな」
「どこ行って何食べて何話したか全部聞かせてな」
「ふふ、分かった」
本気で怒っているわけではないのだろうけど、簓くんはわざとらしく唇を尖らせて言った。
ほんの数分前まであんなに落ち込んでいた心が嘘みたいに晴れやかで、こんな人に好いてもらえるなんて、私はなんて幸せ者なのだろうかと思った。