ささらくんの思い出の味

(うち)の近所に、若い女の子が引っ越してきたらしい。住民のほとんどが地元の人間のこの地域に、単身の若者が越してくるのは珍しく、近所のおばあちゃんたちの間で噂になっていた。
とはいえ、いくら若いといっても単身ということは大学生か社会人で、小学生の俺にとっては縁のない大人だ。きっと何の関わりもないだろうと思っていたのだが、その人はなんてことはなく、俺の日常に入り込んできた。

「おはよー、簓くん」

その人は名前ちゃんといった。彼女が家を出る時間と俺の登校時間はほぼ同じらしく、毎日のように顔を合わせるうち、自然と挨拶を交わすくらいにはなった。

「おはよー、名前ちゃん、後ろの髪の毛めっちゃハネてるで」

「え、ウソっ!」

名前ちゃんはその愛想の良さと人懐っこさで、近所のおばあちゃんたちからの評判もよく、あっという間にこの町に馴染んでいった。

「簓くん、おつかい?」

ある日の夕方、仕事帰りらしい名前ちゃんに声を掛けられた。俺は近所のスーパーに自分の晩ごはんを買いに行った帰りだった。少し躊躇ってから小さく頷く。
名前ちゃんは不思議そうに俺の顔と、それから俺の持つビニール袋を見て、「今日お留守番なん?」と尋ねた。

「俺の親、いつも帰ってくんの遅いから」

「そっか……」

そのころ、両親が別れたばかりだった俺は、まだ気の利いた答えを知らなかった。名前ちゃんは少し気まずそうにそう言うと、わずかに微笑んで、

「私もひとりやからさ、寂しかったらうちおいでや」

なんちゃって、と付け足されたせいで、そのときは結局うやむやになったものの、俺が名前ちゃんの家へ足を運ぶようになるのに、そう時間はかからなかった。

思えば、あのころの名前ちゃんもきっと実家を出たばかりで寂しかったのだと思う。まだ小学生だった俺はそんなことは想像もできず、名前ちゃんに甘えていた。今その話をすると名前ちゃんは「私も簓くんが来る日は楽しかったからええんやで」と言って笑う。

* * *


ある日の帰り道、いつもの仕事着とは違う、Tシャツにデニムパンツというラフな格好の名前ちゃんと遭遇した。「今日お休みなん?」と尋ねると、名前ちゃんは小さく頷いた。

「簓くん、今日もご飯買いに行くん?」

「うん」

「な、カレー食べに()えへん?」

今思えば、こんなの絶対ついていってはいけないのだろうけど。名前ちゃんは社会人とはいえまだ幼さの残る可愛らしい女の子で、いつも笑顔で優しくて、すっかり信用していたから。そんな名前ちゃんが、どこか寂しそうに笑いながら言うものだから。何より、俺だってひとりでご飯を食べるのは嫌だったから。俺は何か考える前にこくんと首を縦に振っていた。

「お、お邪魔します」

「どうぞー」

初めて訪れた名前ちゃんの部屋は、白やピンクを基調としたまさに女の子の部屋という感じで、少し落ち着かない。けれど、そんな中にふんわりと、すっかり嗅ぎなれた名前ちゃんの香りがしてほっとする。

「宿題とかしててええからね」

麦茶の入ったグラスをテーブルに置きながら名前ちゃんは言う。お言葉に甘えてドリルや筆記具を取り出してテーブルに広げていると、トントンと包丁とまな板がぶつかる音が聞こえてきた。

(この音、久しぶりや)

心地よいような、切ないような、不思議な気持ちになりながら、俺は鉛筆を走らせた。

しばらくすると名前ちゃんがテーブルのほうに歩み寄ってくる。

「簓くん、甘口でええ?」

有名なカレールウの箱を掲げて尋ねてくる名前ちゃんに、「甘口がええ」と答えると、

「よかった、私甘口しか食べられへんから」

と、子供みたいな回答が返ってきて笑ってしまった。まあ、俺もやねんけど。
ちょうど宿題も終わったし、そろそろ手伝えることもあるだろうかと思って台所に立つ名前ちゃんに近付くと、振り返った名前ちゃんが楽しそうに微笑む。

「宿題終わったん?」

「うん」

「じゃ、そろそろできるからテーブル拭いてきてな」

濡れた布巾を受け取って踵を返し、さっき使ったテーブルを拭き終えると、今度は大きなお皿としゃもじを渡されて、好きなだけご飯盛っていいよ、と言われた。

「それだけ?遠慮せんでええよ?」

「え、うん、してへんよ」

「そっか、じゃあ私の分も同じくらい入れてくれる?」

同じお皿をもう一枚渡されて、再びご飯をよそう。
……名前ちゃんこそ、大人やのにこんだけでええの?と思うのだが、女の子ならこんなものなのだろうか。それとも、俺が少なすぎるのか。
ほかほかと湯気を立てる白いご飯をじいと見つめながら考えていると、名前ちゃんの「できたよー」という声に意識を引き戻された。慌ててお皿を渡すと、名前ちゃんがルウをかけて返してくれて、俺はそれを一枚ずつテーブルに運ぶ。名前ちゃんの指示で、冷蔵庫に入ったサラダとお茶も用意して、ふたりぶんの食事が並ぶテーブルを見て、思わず口元が緩んだ。
エプロンを外してきた名前ちゃんも席に着いて、ふたりで手を合わせる。

「さすがにカレーは失敗せんと思うけど……大丈夫かな」

人に食べてもらうのは久しぶりだと、少し緊張したような面持ちの名前ちゃんに、俺はさっそく口に含んでいた最初の一口を飲み込んで、満面の笑みでそれに答える。

「めっちゃ美味いで!」

「ふふ、ありがとう」

お礼を言わなければいけないのは俺のほうなのに、名前ちゃんのほうがずっと嬉しそうにそう言った。

出会ってまだ少ししか経っていないのに、名前ちゃんのそばは不思議と落ち着く。きっと名前ちゃんがこんなに優しくしてくれるのは俺が可哀想だからなんだろうけれど、それでも俺は、この人の愛想が尽きでもしない限りは、そばにいさせてほしいと思った。

* * *


名前ちゃんのカレーは相変わらず甘い。俺はあのころより大人になったのか、正直少し刺激が足りないと思わなくはないのだが、そんなカレーが食べたいならば外で食べる。名前ちゃんのカレーに求めているものは、たぶんそういうものではなくて、

「簓くん、冷蔵庫にサラダ入ってるから出しとってくれへん?」

そんな台詞すら、俺にあのころを思い出させる。冷蔵庫を開けると、見覚えのあるサラダボウルがちょんと置かれていて、思わず「あ」と声が漏れる。

「どないしたん?」

「いや、物持ちええなあと思って」

きっと名前ちゃんは何も思わず毎日のように使っているのであろうそれは、俺にとってはとても懐かしい代物で。片手でそれを取り出して名前ちゃんに見せながら言うと、名前ちゃんも「あ!」と声を上げる。

「簓くん、大きくなったなあ!」

「……は?」

「あのころは可愛らしく両手で抱えてたのにー」

そう言って名前ちゃんはニコニコと微笑む。その顔はとっても可愛らしいけど――言っていることは全然可愛くない。
サラダボウルをさっさとテーブルに置いて、未だニコニコしたまま鍋の中をかき混ぜているその背中に近付く。

「名前ちゃん、いつまで俺のこと子供やと思ってるん?」

突然耳元で声を上げる俺の存在に気付いていなかったのか、名前ちゃんはびくっと肩を跳ねさせた。お玉を片手に、首だけしか動かせない名前ちゃんがゆっくりと振り返る。俺の顔が思ったより近くにあって驚いたのか、視線が交わるや否や、さっと目を逸らされた。

「ええと……」

「いっちゃんはじめに言うたよな?俺、もうとっくに大人の男で、名前ちゃんのこと好きやから、簡単に家呼んだアカンって」

言いながら、無防備に晒された首筋に唇を寄せると、名前ちゃんは小さく身体を震わせた。髪の隙間から覗く輪郭から耳まで、かっと赤くなって、触れなくても熱いのが分かる。

「さ、簓くんこそ……私のこといくつやと思ってるん」

無抵抗なその肩にするりと手を掛けたところで、名前ちゃんは今にも消え入りそうな声で言った。

「私だって、それくらい分かってるよ」

時間が止まる。空気が固まる。今度は俺が動けなくなる番で、何も言わない俺を名前ちゃんが不思議そうに振り返ろうとするから、慌ててその頭を両手で押さえて止めた。

「わっ、なに」

「ちょ、ちょ、ちょお待って、なッ、名前ちゃん何言うてるか分かってる!?」

「だから分かってるって」

「あーっ、待って!名前ちゃんはよくても俺はよくない!」

「は……?」

すっかり冷静になってしまった名前ちゃんに対して、俺はどんどん顔や頭や首にまで熱が集まるのが分かって、こんな情けない顔見せてたまるかと必死になる。
――わ、分かってるって何、ええってこと?ええって、な、何が、どこまで?
ついこの間まで、好きだと自覚することすら躊躇っていた名前ちゃんの口からこんな言葉が出てくるなんて、思いもしなかった。今日だって、結局こうやって何も考えんとお誘いしてまうんやなあ、そういうとこも好きやねんけど、なんて思いながらも久しぶりの名前ちゃんのご飯が楽しみで、水を差すようなことは言いたくなくて、素知らぬ顔をしてやってきたというのに。

カチ、と音がして我に返る。名前ちゃんがコンロの火を消した音だった。鍋の世話から解放されて自由になった名前ちゃんの両手が俺の両手首を掴んで、思わず力が抜けた隙に、名前ちゃんはくるりと身体を反転させた。

「簓くん、顔真っ赤」

「み、見んとって……」

「そっちが言い出したくせに」

顔を隠そうとした手を捕まえられて動けない。自分の顔は隠したいけど、悪戯っぽく笑う名前ちゃんの顔はいつまでも見ていたくて、だからそれ以上はどうすることもできなくて、

「名前ちゃん、ちゃんとオネーサンになっててびっくりした……」

「……いや、今まで何やと思ってたん?」

どこか不満そうに言ったあと、名前ちゃんはくすくすと笑った。そして、俺の反応を眺めるのには満足したのか、再び振り返ると「冷めるから()よ食べよ」と、まるで何事もなかったかのように作業を再開する。
せっかくの思い出の味なのに、こんな状態じゃ、きっと味なんて分かったもんじゃない。
その懐かしいサラダボウルが空になったとき、俺は一体どうすればいいのだろうか。

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