高専の寮の簡易キッチンは、ふたりの空間といっても過言ではなかった。傑と名前。どちらかひとりのときもあれば、ふたりのときもある。それ以外の人間がキッチンに立ち入ることはほとんどなかった。そもそも食堂があるので立ち入る必要もないのだ。あれだけ入り浸っているふたりが異常だともいえる。しかし、ふたりのそんな奇行に異を唱えるものはここにはいない。何故なら皆揃いも揃って胃袋を掴まれてしまっているからである。
俺たちには、もうひとつ口に出さないことがある。おそらく皆思っていることだ。けれどそれを口に出してふたりがキッチンに寄り付かなくなるようなことがあれば、寮生たちにフルボッコにされることは間違いない。そして何より自分もふたりの作った料理にありつけなくなる。そんなのはごめんだ。
だから誰も言わない。
(新婚夫婦みたいだな、なんて)
* * *
「傑ー、やっぱりホットプレート欲しくない?ここ狭いし、小っちゃいのでいいから一台くらいさ」
「あぁ、名前、粉物パーティーしたいって言ってたね」
「そう、だからたこ焼きもできるやつ」
相変わらずふたりは並んでキッチンに立っていた。これで付き合っていないんだからどうかしている。
「楽しそうだけど、なかなか皆揃うことってないしな」
「それはそうなんだけどさぁ」
会話の合間にカチャカチャと何か混ぜているような音が聞こえる。今日はパンケーキを作るのだと言っていた。ホットケーキじゃなくてパンケーキなところがふたりの料理の腕前と情熱を物語っている、らしい。俺は食べる専門なのでよく分からない。甘くて美味ければどっちでもいいと思う。
「どうせホットプレートがあったところで焼くのは私か名前なんだからここでよくない?」
どれだけホットプレート買いたくないんだよ。そこまで甲斐性なしじゃないだろ。どうせ名前をキッチンから出したくないんだ。
「えー、うーん……確かに……あ、傑、フライパン取って、ついでにお皿も出して」
「はいはい」
名前に言われるがまま、傑はしゃがみこんでフライパンを取り出してコンロに置く。それから名前に被さるようにして吊戸棚に手を伸ばし、大きな皿を数枚一気に下ろした。小柄な名前がいつも苦戦するその作業を傑が悠々と行うのをきらきらした目で見上げていると、それに気付いた傑が、ふと名前を見下ろして微笑む。ほんとこいつら早くどうにかなれよ。喉元まで出かかった言葉は胃袋が引き留めた。
生地をフライパンに流し始めると、ふわりと漂う甘い匂いにつられるように続々と人が集まってきては、ふたりがキッチンに並んでいるのを見てパァと顔を輝かせる。どいつもこいつもチョロい胃袋だな。まあ俺がぶっちぎりだろうけど。
砂糖の塊ほど甘いふたりのやりとりを見たあとには、パンケーキの甘さなんて微々たるものだ。生クリームをマシマシにしてもらって席に着くと、いつの間にか来ていた硝子がその皿を見て「うっわ」と声を上げた。
* * *
「腹減ったー」
ガラ、と談話室の扉を開けるなりそう言うと、名前がひとり、丸い目をパチパチしながらこちらを見るだけだった。
「あれ、傑いねーの、今日予定なかったろ」
「分かんない、どっか出かけてる。何か作ろっか」
俺が返事をする前に名前は立ち上がり、キッチンへ向かう。談話室でダラダラ待っているのもどうかと思い後を追った。
キッチンに置きっぱなしのエプロンを身に着け名前は冷蔵庫を覗き込む。
「何しよっかなー……ご飯?甘いの?」
「甘いの」
……今のやりとり、いつもの名前と傑ぽかったな。不思議と悪い気はしなくて、あいつが名前の隣に固執するのも少し分かる気がした。
あんまり時間かからないのがいいよね、なんて子供相手みたいな気の遣い方をされつつ、名前の作業を見守る。しかしそれもそのうち飽きてきて、なんとなしにテーブルの木目を眺めていた。
「あっ、」
そんな名前の声と、くしゃ、と音がして顔を上げた。冷蔵庫を開けたまま固まる名前の足元には、無残な姿になった生卵が転がっている。
「わ、やっちゃった」
「あー、俺やるから名前は続けろよ」
「……珍し」
「腹減ってるだけだし」
決して軽いとはいえない腰を上げ、部屋の隅で干されていた雑巾を手に取りキッチンへ足を踏み入れる。最近は完全に傑と名前のテリトリーという感じだったから、ここまで入るのは久しぶりだ。
「悟ごめんね、ありがとう」
事故の現場より手前に立っていた名前がシンクに身体を押し付けるようにして半歩前へずれる。後ろを通れという意味なのだろうが、狭い簡易キッチン、いくら名前が小柄とはいえ接触は免れない。あー、なるほどな、こりゃむっつりの傑にはたまんねえってか。後でからかってやろ。
床とシンクを何度か往復した雑巾はあっという間にドロドロになった。
「ここで洗っていい?」
「いいよー」
名前は改めて割った卵をカシャカシャとかき混ぜながら、そんな間の抜けた返事をする。名前の隣に立って役目を果たした雑巾をゆすいで、絞ってを繰り返していると、不意に身に覚えのある呪力が睨みつけるようにこちらに向けられたのを感じた。視線を向けると、案の定、廊下に面した窓から傑が顔を出している。
「悟、何してるの?」
第一声がそれかよ。ただいまとかないのか。
「あ、傑おかえり!」
「ただいま」
名前には胡散臭いほどの柔和な笑みを向ける傑に、べ、と舌を見せると眉間がわずかにぴくりと動いた。
「悟がお腹空いたっていうから、カップケーキ作るの」
「へぇ、で、悟はお手伝い?」
えらいね、と明らかに小馬鹿にするような声音で言いつつ傑は俺に微笑みかける。何も気付いていない名前はくすくすと笑っているけど。
「私が卵落としちゃってさ、悟が掃除してくれたの」
「あぁ、そういうこと」
名前が説明すると、ようやく傑は落ち着いたようだった。ふ、と表情を緩ませて再び歩き出す。
「私も荷物を置いてきたら手伝うね」
「えー、そんな難しいことしてないからゆっくりしてていいよ」
「私がやりたいからいいんだよ」
ひらりと振られた手を最後に、傑の姿が窓枠から外れて消える。これはものの数分で戻ってくるな。
再び名前の後ろを通り抜けて、俺はキッチンを出た。もうしばらく入りたくない。
「名前さ、」
不意に口を開くと、名前は不思議そうな顔でこちらを見て小首を傾げた。
「こんな狭いとこでずっと傑と一緒にいて何も思わないの?」
あーあ、言っちゃった。これで名前がキッチンに寄り付かなくなったら俺たぶん寮での人権失うな。俺の問いに名前はまた不思議そうにこちらを見て、
「思うよ」
「思……、思うのかよ、何を?」
「ふーふみたいじゃない?」
ふーふ、と、あまりに舌っ足らずな発音に、はて、ふーふとは何だったかなどと考えてしまった。
え、夫婦?自覚あったの?
「私は楽しいよ、大人になって傑と結婚できたらこんな感じなんだろうなーって」
「いやいやいや、ちょっと待て」
いつの間にかドロドロになっていた生地をマグカップに流し込みながら、名前はまるで世間話でもするみたいに言う。
「名前と傑、付き合ってないよな?」
「付き合ってないよ?」
何を当たり前みたいな顔して答えてるんだ。付き合ってない男女の結婚の話をするな。
「名前、傑のこと好きなの?」
「うん、好き」
それは絶対こんなに軽い言葉のわけがないのに、名前はまるで、甘いの好き?とでも訊かれたかのような、そんな気軽さで答えた。いや、まあ俺もそんな恋愛に関してどうこう言えるタイプじゃない自覚はあるが、そんな俺とは正反対の恋愛観を持っていそうな名前の口からこんなにすらすらと、やれ結婚だの、やれ傑が好きだのいう言葉が紡がれることに驚きを隠せなかった。
「そう、私も名前が好きだよ」
すっかり面食らった俺に、突如乱入してきたもうひとつの声がとどめを刺しにかかる。傑、と言った声はたぶん音になっていなかった。
「なんだ、わざわざ外堀埋めなくてもよかったんだ」
ちら、と俺に視線をやりつつ傑はキッチンへ入って一歩、また一歩と名前に近づく。名前はきょとんと傑の顔を見ながら、逃げも隠れもしない。
「傑」
「ねえ、さっきの本当?」
「うん、まあ」
……なんでこいつら赤くなったり焦ったりしないの?
まるで明日の予定を確認するような口ぶりで傑が尋ねて、名前がこくんと頷く。何だこの空気は。ふたりは全然気まずそうじゃないのに、俺ばっかり気まずくていたたまれない。
「じゃあ本当に私のお嫁さんになって、将来はさ、もっと広いキッチンでふたりで料理しようよ」
何言ってんだこいつ。おまえまだ名前と付き合ってすらないだろ。
だというのに、名前は相変わらず不思議そうな顔をしつつ、再びこくんと頷くのだ。マジか。もう目の前で何が起きているのか分からない。分かりたくもない。
ふと名前の手元を見下ろした傑は、何事もなかったかのように「あとは焼くだけだね」などと言って俺を振り返り、
「悟、もうちょっと待っててね」
いや、もう頭も腹もいっぱいだからいらない、なんて、それすら口に出せる空気ではなかった。
Fin.