高専に入ってから初めてのバレンタインデーだった。
同期に女子は硝子しかいないわけだが、硝子はチョコを配るなんて柄じゃないし、むしろ今までは後輩の女の子たちに山ほどチョコを積まれていたタイプなのではないかと予想する。一方私はというと、友チョコと称して大量のチョコレートをばらまいていたタイプだ。そういう人間の周りには大体同じような人間が集まっていて、その場で物々交換をするか、一方的にあげるだけになってしまった人たちはホワイトデーにちょっとしたお菓子を食べさせてくれた。しかし今年からはそうもいかない。ただでさえ生徒の絶対数が少ない高専に、そんな陽気な知り合いはいなかった。
「こんな静かなバレンタイン初めてだ……」
「名前、チョコ配りまくってそうだもんね」
「うん……テロかってくらいばらまいてた……」
机に突っ伏してモゴモゴと答えると、硝子は「ビターなら貰ってあげるよ」と言った。
「そう言うと思って持ってきた!」
バッと鞄に手を突っ込んで、硝子のために作ったビターのガトーショコラを取り出すと、硝子は苦笑しつつも受け取ってくれた。
「まさか私のためだけに作ってないでしょ、あとは誰にあげんの」
「女の子と先生たちひと通り」
「五条と夏油は?」
いつも勉強道具なんてろくに入っていないスカスカの鞄も今日はパンパン。中身はほぼチョコレートだ。そんな鞄を肩に提げて立ち上がると、硝子は突然そんなことを訊く。
「え……いらないでしょ。死ぬほど貰ってそうじゃん」
そう答えると、硝子は一瞬きょとんとしたあと、くつくつと肩を震わせた。微かに聞こえた「かわいそ」の意味は分からなかった。
* * *
「名前、いる?」
ガラ、と教室の扉を開けたのは夏油だった。私は作ってきたチョコを配り終え、自分用に取っておいたガトーショコラを硝子とつまんでいるところだった。
「どしたの」
「名前が学校中にチョコを配り歩いていると聞いたからこちらから貰いに来たんだけど」
「え、ないよ」
大変いい笑顔でなかなか図々しいことを言う夏油にぴしゃりと言い放つと、夏油は細い目をぱちりと丸くする。
「ないの?」
「ないよ、だって間に合ってるでしょ」
事実、夏油の右手にはいかにもな紙袋が提げられている。いかにも、というのはパティスリーの可愛らしい小さなショッパー、という意味ではない。A4用紙より一回り大きい無地の紙袋。そこからわずかにリボンやショッパーの持ち手らしきものがちらちらと覗いていた。
「バレンタインに紙袋持参するやつ……」
「持参してないよ、職員室で貰った」
そんなことは問題ではないだろう。
思いっきり顔をしかめる私にはお構いなしで、夏油は教室へ入ってきて、私たちのいる机に向かって迫ってくる。その様子をぼけっと見守っていると、不意に夏油の手がこちらに伸びてきた。え、何、と思っている間に私の持っていたプラスチックのフォークを奪い取り、その先に刺さっていたはずのガトーショコラの欠片をぱくりと口に含む。
「あー!私のチョコ!」
「あま……」
「食べるだけ食べて文句言うな!」
「嘘、美味しいよ、お店のみたいだ」
空っぽになったフォークが手元に帰ってくる。よりによって最後の一口をこいつは。むす、と唇を尖らせていると夏油はちっとも反省してなさそうな笑顔のまま「ごめんね」と「ごちそうさま」を言ってきた。
それからなぜか、空いていた椅子を引きずってきて一緒に机を囲む。もう食べるものはないぞ。
少しの間のあと、硝子がふいに顔を上げ口を開いた。
「煙草切れた。名前、ちょっと出てくる」
「え、うん、行ってらっしゃい」
……吸いはじめて箱が空いた瞬間じゃなくて、今?と不思議に思いつつも、教室を出ていく硝子の背中を見送った。そうなると当然、夏油とふたりきりだ。
「名前、まだチョコ食べれる?」
「食べれるけど……なんで?」
「これ。一緒に食べようか」
突然そんなことを訊いてきたかと思ったら、夏油は紙袋の中から一回り小さな黒い紙袋を取り出す。そこに書かれていたのは超有名な高級チョコレートブランドのロゴ。
「え!いや……でもそれ夏油が貰ったんでしょ」
相手の子に悪い、と伝えても夏油はどこ吹く風だった。
「これはいいんだよ」
「なんで」
「これはお返しをしなくていいチョコだから」
……そんなことある?私でも知ってる超有名ブランドだよ?5粒で2000円とかするんだよ?それの10個入り。何の見返りも求めずにそんなチョコ渡してくる人がいるの?逆に怖いんだけど。
けれど、きらきらと輝くチョコレートを見ると心が揺らぐ。今ここで食べたって贈り主にはバレやしないし、夏油も食べるんなら別にいいかな、なんて。そんな考えを見透かしているかのように、夏油はすっと箱を差し出してくる。
「い、一個だけ……」
「全部食べてもいいよ」
「それはだめ!どれだけ食べても半分まで!」
「意思が強いのか弱いのか分からないな」
私がおずおずとチョコレートを手に取ると、くすくす笑いながら夏油もひと粒つまんで口に運ぶ。ちゃんと見た目と匂いも味わってから食べろ、もったいない。
「すご……これ一粒いくらなんだろ……」
「そんなこと考えながら食べるのやめなよ」
未だチョコレートを手のひらに乗せて眺める私に対し、夏油はいつもどおりの口調で言った。もう飲み込んだの!?もったいない!
まるで宝石みたいにきらきらした表面をじっくりじっくり眺めていると、ふいに夏油の太い指が私の手のひらのそれをつまんで、あ、と声を上げさせる間もなく、ぽいと私の口に突っ込んできた。
「んん!?」
危うく飲み込んでしまいそうになるのをぐっと堪えて舌先で押し留める。じゅわ、とチョコレートの甘みが口の中に広がった。今すぐにでも文句を言いたいのを必死で抑え込んで、そのお高いチョコレートの味を一秒でも長く味わう。怒りを忘れてだんだん顔がゆるんでくる私を、夏油は頬杖をつきながらにこにこと見守っていた。
「何すんの!」
「美味しかった?」
「美味しかった!」
長い長い時間をかけてようやくチョコレートを飲み込んで夏油に文句をつけるのだが、私の怒りなんてとっくにチョコレートに溶かされてしまっていた。2粒目を欲して、ちら、と視線をやると夏油がまた大きな手で私の口に運ぶ。なんか、夏油の手で持つと小さく見えて損した気分になるな。そんなことを思いながら、あ、と口を開けた。
* * *
「もうだめ!終わり!」
夏油が6粒目をつまもうとしたところで、その大きな手をぱしっと両手で掴んで止めた。結局私に食べさせるばっかりで夏油は最初のひと粒しか食べてないし。
「夏油が貰ったんだから夏油が食べなきゃだめ」
「半分食べてよく言うよ」
それを言われたら痛い。が、それはそれとして半分でちゃんと止めた私はえらい。
「全部食べていいよ」
「だから……」
「これは私が名前に買ってきたチョコだから」
夏油の言葉の意味が分からず、一瞬力が抜けた隙に、6粒目が私の口に消えてしまった。
「……夏油が買ったの?私に?」
「食べながら喋るの?ありがたみが薄れてきたね」
それが嫌味ではなく私をからかっているだけなのはなんとなく分かったが、言い返すのも癪なので黙ってチョコレートの味に集中した。夏油はそんなことは気にせず続ける。
「名前にチョコを渡したかったんだ」
渡すっていうか食わせてたけど。そんなツッコミはチョコレートと一緒に飲み込む。
「なんで?夏油、そんなバレンタイン楽しむ派だったの?珍しいね、男の子なのに」
「……違うけど」
思ったことをそのまま伝えると、夏油はなんだか少し不機嫌になった。意味が分からない。
「誰彼構わずチョコを配る名前と一緒にしないで」
「自分だって貰いにきたくせに何を」
「私は名前にしかあげない」
どうしよう、本格的に夏油が何をしたいのか分からなくなってきた……誰か硝子か五条呼んできて……。
夏油は相変わらず頬杖をついたままこちらを見ていたけれど、その姿勢で険しい顔をされると迫力がいつもの二割増だ。というか、座っていて顔が近いからだろうか。いつもはもっと距離があるから。身長差ともいう。
「名前は知らないかもしれないけど、バレンタインデーって好きな人にチョコをあげる日なんだよ」
「いや、そんなの知って……え、」
バッと夏油の顔から先程まで食べていたチョコレートへ視線を移す。好きな人にチョコをあげる日、夏油が私に買ってきたチョコ。勉強は得意じゃないけれど、そこから成り立つ式と解が分からないほど馬鹿じゃない。
「夏油、私のこと好きなの……?」
「まあ、そういうことだよね」
「マジかぁ……」
男の人にチョコを貰うのも、こんなふうに気持ちを伝えられるのも初めてで、なんだか実感がわかない。恥ずかしいとか照れくさいとか、そういう感情もたぶんまだ追いついていない。強いて言うなら、そんな人にアホ面晒して手ずからチョコレートを食べさせてもらっていたという事実だけが死ぬほど恥ずかしかった。
「義理チョコくらいは貰えると思ってたんだけど」
しゅんと眉を下げるのはほとんど演技なんだろうけれど、でも私が夏油の立場だったら結構ショックだな、と思って少し胸が痛んだ。
「いや、いっぱい貰うだろうから増やしたら悪いと思って……」
「じゃあ全部断ればよかったな」
……それは呪術師相手じゃなかったらすごい呪い発生しまくってそうだからやめていただきたい。
「あ、あのさ、夏油……」
私から何らかの言葉が出てくるのを待っているのだろう。少し沈黙が続くと、夏油は相変わらずの微笑でこちらを見つめた。仕方なく口を開くと、普段から細い目がいっそう細められ、優しく首を傾げられる。フラれるとか思ってないのか。
夏油が私に買ってきたチョコレートは残り3粒。そのうちのひと粒をつまんで、ゆっくりと夏油の口元へ運ぶ。夏油は不思議そうな顔をしつつも先程の私のように口を開けたので、舌先へチョコレートをそっと乗せた。口を閉じる際、唇が私の指先にちょんと触れたのはたぶんわざとだと思う。
「これ夏油が買ったやつだけどさ……今年はこれで勘弁して」
「私にチョコレートを渡す気になったということ?」
訊くなよ、馬鹿。言い返すことはできなかった。ようやく追いついてきた感情が、唇に触れた指先が、じわじわと私の体温を上げて、夏油に見られているというのに頬も耳も真っ赤に染め上げるものだから。
「ありがとう、名前」
そう言って笑う夏油の顔は、心の底から喜んでいるのが丸分かりで、この人は私の一挙手一投足でこんなに心を動かすのかと思うと、なんだか胸がぎゅっとなった。
今度はチョコレートを持っていない夏油の手が私のほうへ伸びてくる。それから、きっとお風呂上がりくらい熱くなっているであろう頬にぴたりと触れる。夏油の手のひらはひやりと冷たかった。
「顔、真っ赤」
「う……」
「ねえ、名前、ちゃんと言っていい?」
「何が……」
「名前が好きだ」
頬の熱が夏油の手のひらに溶けて、混ざって、ああ、たぶん私はもうこの人から逃げられないんだろうなと思った。
Fin.