私でよかった、という思いと、来るんじゃなかった、という思いが頭の中でぐるぐるしている。しかし、正直なところ前者がゆうに勝るのだから、私という男は本当に現金なものだ。
見慣れない天井、高専の寮とはまるで違うふかふかのベッド、エアコンと加湿器の音。任務終わりの身体を真っ白いシーツに沈めて耳を澄ませば、シャワーの水音が遠く聞こえる。肢体に水滴の流れる様を想像しそうになって、慌てて頭を振った。
本当に、どうしてこんなことになったんだ、と、先程までのことを思い返す。
* * *
その日、私は珍しく何の予定もなかった。いくら私が貴重な特級呪術師といえど休みはある。というか、暗に休めと言われている。どうせ明日からまた馬車馬のように働かされるからだ。
寮の談話室で学生らしく無駄話に花を咲かせていると、不意に補助監督がひとり、扉から顔を覗かせた。「どうかしましたか」と尋ねると「いえ……」と歯切れの悪い返事。
「手の空いている一級術師がいればと……」
その場にいたのは特級の私を除いて皆二級以下。学生寮に暇を持て余した一級術師なんてそういるはずがない。
理由を尋ねれば、今日の任務のひとつで呪霊の階級が誤って伝わっており、派遣した術師だけでは危険だと判断、応援を要請されているという。場所は東北。そういえば、名前も今日東北だと言っていた気がする。
「派遣されているのは名字ですか」
「はい、そうです」
「じゃあ私が行きます」
「いや、夏油さんに来ていただくほどでは」
「ここにいる面子では私しかいないでしょう。距離もあるし早く出られる人間のほうがいい」
補助監督は少し迷ったあとどこかへ連絡を取って、私の申し出を受け入れた。
派遣されているのが名前でなかったら行かなかったのかというと、そんなことはない。しかし、名前がいるから行く、というのもまた事実である。
それから、本音では一級術師で済む案件に私を派遣したくないであろう高専への、ちょっとした嫌がらせでもある。帳を下ろす前に判明したから良かったものの、そうでなければ名前が危険に晒されていたかもしれないと思うと腹が立った。
新幹線を降りてロータリーへ出れば、補助監督の男性が車で迎えに来ていた。後部座席の奥には名前の姿が見える。補助監督に軽く挨拶をして乗り込むと、名前はずいぶんふてくされた様子だったが、私の顔を見るなりきょとんと目を丸くした。
「あれ、傑が来たんだ、一級でしょ?」
「私しか空いてなかったんだよ」
それは半分嘘。おそらくもう少し探せば他の一級術師が見つかっただろう。
「私が行くって言ったのに」
「だめだよ、名前に何かあったらどうするんだ」
車が動き出して現場へ向かう。道中、名前はずっと拗ねたような、悔しそうな、険しい顔をしていた。
* * *
現場に到着したときには既に夜遅かった。
手伝うと言い張る名前に「じゃあ帳下ろして」と言うと、これ見よがしに唇を尖らせた。そのまま地団駄でも踏み始めるんじゃないかと思ったが、さすがにそこまで子供ではなかったようだ。
確かに名前では少し危なかったな、なんてことを思いながら呪霊を取り込んで戻る。諸々の後処理をしたころにはもう日付が変わろうとしていた。
「今から高専帰るんですか?」
「いえ、今日はホテルを取ってあります。私はこのあと更に遠方へピックアップが……あ、」
名前が後部座席から身を乗り出しながら補助監督に尋ねると、突然言葉が途切れる。私と名前が不思議そうに顔を見合わせるのをバックミラーで確認しながら、彼はだらだらと冷や汗をかいているようだった。
「あの……元々名字術師だけの予定だったので一部屋しか取っていなくて……あっ、今ホテル側に確認してみます」
車を路肩に停めて、スーツのポケットから取り出した携帯電話で連絡をする補助監督をぼーっと眺める。この時間だし少し不安だが、まあ、一部屋も余裕がないなんてことはないだろう――全員が、そう高を括っていた。
「えっ、一部屋も……近隣でイベントが……はぁ……」
電話の向こうの声は聞こえないが、補助監督の返答に、ふたりしてまた顔を見合わせた。眉間に皺を寄せる私に対し、名前は相変わらずきょとんと不思議そうな顔で、「大丈夫かな?」と呑気に囁く。
通話を終えたらしい彼が私たちを振り返る。
「近くで大きなイベントがあるらしくて、空きがないそうです……一応ベッドはダブルだって言ってましたけど、さすがにだめなので他のホテルにも確認してみますね」
とはいうものの、イベントがあるなら近隣一帯似たようなものではないのだろうか。彼もそれには薄々気付いているらしく、苦い顔をしながら携帯電話でマップを確認している。名前だけが何事もないようにその様子を眺めていた。
何件か電話をかけたようだが、返事はどこも同じらしい。すっかり行き詰まった彼の様子に、名前が何やら考えるそぶりを見せる。
「傑、一緒の部屋でよくない?」
「へっ!?」
「は!?だ、だめですよ、そんな」
突然言い放たれたそれに、私も補助監督も、柄にもなく取り乱す。何を言っているか分かっているのか。
「ないなら仕方ないよ、それに私今日なんにもしてないし……」
「それは名前の責任じゃないだろう、そうだったとしても同じ部屋で泊まるなんて、」
「でも、このあとまだお仕事あるんですよね」
名前が補助監督にそうやって振ると、彼は「そうですけど」と肯定してしまう。
「じゃあもう最初のホテルでいいですよ、寝るだけだし」
寝るだけだから問題なんだろうが。しかし名前の様子を見て、薄々察しがついてきた。……おそらく名前はもう眠いのだ。
あっけらかんとした名前の台詞に、補助監督が困った様子でこちらを見る。
「……分かりました。あの、大丈夫です、何も起こらないので」
「どういうこと?」
「君はもう黙ってな……」
私まで同意すれば、さすがに彼も諦めたらしく、当初の目的地へ再び車を走らせる。もう知らない。どうにでもなれ。
* * *
ホテルに到着して、去り際、補助監督は名前に「何かあったら連絡してくださいね」と言った。何もしないと言っているだろうが。名前は呑気に「はぁい」と返事をして、早々にチェックインの手続きへ向かう。学生服の男女がふたりで同じ部屋に泊まろうとしていることにフロントが微かにざわついた気がしたが、高専が懇意にしているホテルだったのか、何か訊かれることもなくルームキーを渡された。指定された部屋へ向かうエレベーターの中で、最後にもう一度だけ、名前に「……本当にいいの?」と訊くと「何でもいいから早く寝たい」と返ってきた。赤ちゃんか、君は。そう言って笑いながら、私は内心で、自分があまりにも男として意識されていない事実に打ちひしがれていた。
「わー、ほんとにダブルベッドだ!でか!」
部屋に入るなり、名前はそう言ってベッドへ駆け寄った。そのまま飛び込みでもするのかと思ったが、シャワーも浴びずに布団に入るのは嫌なのだと足を止めた。
「これなら傑と一緒でも全然大丈夫だよね」
「そうだね」
馬鹿か、何も大丈夫じゃない。絶対に顔にも出さないけれど。
「傑、先にシャワー浴びていいよ」
名前のそんなささいな台詞にもドキドキしてしまう。所詮私も世間一般の男子高校生と同じなのだ。これ以上名前と言葉を交わすことすら躊躇われ、私は素直にバスルームへ移動した。逃走したというほうが正しいのかもしれない。シャワーを浴びれば少しは頭が冷えるだろうと思ったが、そんなことは全くなかった。制服で寝るわけにもいかず備え付けの白いパジャマに袖を通せば、一気にこの異常事態を再確認させられてしまう。
部屋に戻ると、名前は私の姿を見るなり「短いね」と言ってケラケラと笑った。確かに、男女兼用フリーサイズのパジャマは膝が隠れるか隠れないかというほどの丈しかなく、少々間抜けだなとは思ったが、この状況で真っ先に出てくるリアクションがそれなのか。
名前は椅子から立ち上がると持っていた携帯電話をベッドにぽいと投げて、来る途中に寄ってもらったコンビニの袋を片手にバスルームへ消えていった。数分もすると静かな室内にシャワーの音が聞こえてくる。黙ってその音を聞いているとどうかしそうだったので、あらかじめバスルームから持ってきておいたドライヤーで髪を乾かした。普段はきちんと乾かしたりしないのだけれど、先ほど名前がシャワーを浴びずに布団に入るのを拒んだことを思い出したから。たぶんこのままベッドに入ろうとすれば顔をしかめるのだろう。こういうときに限ってちゃんと風量のあるいいドライヤーが置いてあって、あっという間に水分が飛んで行ってしまう。名前があとで使うだろうからコンセントに差しっぱなしにして、手持ち無沙汰の私は何とはなしにベッドに腰掛け、そのまま後ろに倒れこんだ。まだ水音がしている。女子の入浴は長いものだ。
柔らかなマットに身体を預け、見慣れない真っ白な天井をじいと眺めていると、じわじわと睡魔が襲ってくる。任務より移動に疲れたな、と思った。このまま眠ってしまえば名前の湯上りの姿も寝顔も見ずに済むのだろうか。それは――どうしようかな。見なければいらぬ我慢をする必要もないのだろうけれど、この貴重な機会を不意にするのもどうなんだと思う。私という男は本当に愚かだ。
そんなことを考えていると、いつの間にかシャワーの音が止んでいた。私がそのことに気付いたのとほぼ同時に、洗面所のドアが開く音がして、名前の履いたスリッパががぱたぱたと鳴る。しまった、腹を括る時間がなかった。思わずぎゅっと目を閉じる。しかしそれが悪手だった。部屋へ戻ってきたらしい名前は、ベッドに寝そべる私の姿を見るなり、またぱたぱたと音を立ててこちらへ近づいてくる。すぐ脇に立って、こちらを覗き込んでいるのだろう。洗い立ての髪から香るシャンプーの匂いはいつもよりうんと濃厚だ。
「傑、寝た?」
「……起きてるよ」
ここで寝たふりなんてしようものなら、今度は目を開けるタイミングを失ってしまう。意を決して瞼を持ち上げると、すぐ手の届く場所に名前がいて、腰を屈めて私の顔を覗き込んでいた。お揃いになってしまったパジャマの襟を少し引いてしまえば、どうにでもなりそうな距離。
「名前、近い」
「え、ごめん」
思わず腕で顔を覆って言うと、名前は驚いたような声音で謝って私から離れた。よくもまあそんな、予想外みたいなリアクションができるものだ。
「明日、早くから補助監督が迎えに来てくれるんだろう。もう寝なよ、名前朝弱いんだから」
「はぁい」
未だ水滴の滴る髪をタオルでぽんぽんと挟みながら、名前はきょろきょろと部屋を見回し、私が使ったドライヤーを発見すると鏡台の前に腰を下ろした。先ほども聞いた動作音が再び部屋に響く。騒がしい風の音に混じって、名前が何か喋った気がした。身体を起こして鏡越しに目を合わせると、口をぱくぱくと動かしていたから、たぶん何か話しているのだと思う。しかしまるで聞き取れず「なに!?」と大きな声で尋ねれば、名前は一旦ドライヤーのスイッチを切って、
「ここのドライヤー風強くて熱くていいねって言った」
「……そうだね」
名前と話していると、緊張している自分が馬鹿みたいに思えてくる。しかし、今はその天真爛漫っぷりがありがたくって仕方ない。
髪を乾かし終えた名前が「これどこにあった?」と訊くから「バスルーム」と答えると、名前はゆっくりと立ち上がる。そこで私はようやく名前の全身を目にした。私では膝丈ほどしかないパジャマも、名前には足首近くまである。小さいなとは普段から思っていたけれど、ここまで差があるのかと改めて実感させられて、また心が乱される。
歯磨きでもしているのか、名前はまたしばらくバスルームにこもってから、再び部屋へ戻ってきた。制服をハンガーにかけ、備え付けの消臭スプレーを振ると「傑のは?」と言って振り返る。畳んで荷物と一緒にサイドテーブルに積み上げたそれを指差すと、名前は「皺になるよ!」とぷりぷりしながら同じようにハンガーにかけスプレーを振った。なんかいいな、なんて思いながらその様子を眺めていると、作業を終えた名前がこちらへ向かってくる。それからスリッパをその辺にぽいぽいと脱ぎ散らかして、ベッドへ飛び込んだ。マットレスがぐんと一気に沈む。あまりに突然やってきたその衝撃に、私はぴしりと固まった。
「あー、疲れたー!私何もやってないけど!」
そう言いながら名前は布団の中に潜り込んでくる。私は掛布団の上から寝転がっていただけだから、まだ完全に一緒の布団に入っているわけではない。だというのに、既に心臓がバクバクと音を立てて、隣にいる名前のほうを見るどころか、わずかにでも視界に入れることすら躊躇われた。
しかし、そんな内心は決して悟られぬよう、私は努めて冷静に返事をする。
「名前は車で来たんだろ、そりゃあ疲れただろうね」
「特級は新幹線で来れていいよね」
「別に特級だから新幹線で来たんじゃないけど……」
「まあ、でも運転する補助監督が一番大変だよね、私ほぼ寝てたし」
……君、今回本当に何もしてないな。名前の責任ではないのでもちろん口には出さないが。
名前もそれは自覚しているのか、時折黙り込む。今日何度目だろう。
「今日のは名前のせいじゃないよ」
「……分かってるけど」
名前の声が震える。ちらりと隣を見たが、頭まで布団を被っていて表情までは分からなかった。さすがに泣いてはいなさそうだけれど、あまりに弱々しいその姿に、思わず身体を起こして手を伸ばして、丸い頭を撫でた。
「……傑だって、せっかく休みだったのにめんどくさって思ったでしょ」
「思わないよ、私は名前に何かある前に分かってよかったと思って来たんだよ」
もそもそと名前が布団から這い出てきたので、慌てて手を引っ込める。ほとんど無意識だったとはいえ、この状況で名前に触れてしまったという事実に、今になって気が付いた。手のひらがかっと熱くなるような錯覚を覚える。しかし、平静を失いかけている私の内心など露知らず、名前は布団から出した頭をぴたりと私の腕に押し付けて「来てくれてありがと」と蚊の鳴くような声で言った。それは名前なりの照れ隠しというか、おそらく顔を見られたくないがゆえにやったのであろうことは分かってはいたが、これは――これは、よくない。本当によくない。
いくらダブルベッドとはいえふたりで寝ればそう広くはないそこで、じりじりと私は端に寄って名前との距離を取った。名前は顔を上げ、きょとんと不思議そうな顔をしてこちらを見る。いや、不思議そうな顔をするな。
「……名前、誰とでもこんなふうに……同じ部屋に泊まったりしてはいけないよ」
「しないよ、同期か後輩までかなぁ」
「後輩もだめ!悟もだめだ、硝子だけにしな」
後輩って、私たちの後輩は七海と灰原だけじゃないか。正気なのか。注意してよかった。
……硝子は女同士だからいいって分かっているのかな。もう全員だめだって言ったほうがいい気すらしてきた。
「悟もだめなの?」
「悟もだめ」
「傑は?」
「私は……もういいよ、一回も二回も一緒だから」
「ふうん?」
……しまった。これ絶対基準が分からなくなっている顔だ。……でも確かに私だけいいって言われたら分からなくもなるか。いや、義務教育すら終わっている年齢でなぜこんなことを説明しないといけないのか。
「名前、明日も早いからもう寝よう、電気消すよ」
「ん」
これ以上話しているとまた余計なことを言うか頭がどうかするかのどちらかだと思って、私はそう言った。名前は素直に頷いて、肩まで布団に潜り込む。私はそんな名前の様子を確認してから、照明のスイッチを探して辺りを見回した。スイッチかリモコンか――壁にはそれらしきものが見当たらず、ベッドサイドを振り返る。あった。よりによって名前の寝ているほうに。名前に頼もうかと思ったが、なんというか、もう完全に寝る体勢で、少し手を伸ばすだけの動作すら頼むのが申し訳なくなった。仕方なく、名前の頭のすぐそばに手をついて、もう片方の手を伸ばす。じっとこちらを見る名前が上目遣いになる。あぁ、もう、頼むからそんな顔で見ないでくれ。
スイッチに触れる直前、名前はこちらを見上げたまま、とろんとした眠たそうな声音で「おやすみ、傑」と言った。寮の談話室や廊下で何度も言われたはずの言葉なのに――どっと体温が上がって、鼓動が速くなって、全身に血液が駆け巡る、そんな心地がした。おやすみ、の一言すら返せない私を、名前は少し心配そうに見つめる。
「……傑?」
それからいったいどうしてなのか、名前はこちらへ手を伸ばしてくる。小さな手のひらが、私の頬のあたりを目指して。突然のその行動に、私はぎょっと目を見開いて、動揺からバランスを崩してしまった。それだけはだめだと散々意識していたはずなのに。先に「わ、」と声を上げたのはどちらだっただろう。
「っ、ごめん」
ぼす、と額から枕に突っ込む。名前の顔に頭突きをするのだけはなんとか回避した。けれど、この姿勢はまずい。名前に触れている二の腕が熱い。というか、この感触、と冷静になってバッと飛び起きた。いくら男と女で体格に差があるからって、あの柔らかさが肩や腕のそれではないことはすぐに分かった。
「ごめん、傑、びっくりしちゃった?」
「……いや」
びっくりするのは名前のほうだろうが。けろっとした様子で尋ねる名前に、こちらのほうが驚きを隠せない。……ここまでしてもそういう雰囲気にならないって、名前がおかしいのか、徹底的に私に脈がないのか、どちらなんだろう。そんなことを考えていれば、昂った熱もすーっと下がっていくというものだ。
「電気消すよ、傑も布団入って!」
入って、などと言いつつ名前は私が動くのも待たず、ぐいぐいと腕を引き布団へ引きずり込む。先ほども触れた柔らかいものがぎゅうと腕に押し付けられるのは見なかったことにして、感覚も遮断して、頭を空っぽにする。何の修行だ、これは。
私に布団を被せると名前はすっかり満足した様子で、照明のスイッチに手を伸ばした。音もなく部屋が暗闇に包まれる。常夜灯は点けない派らしい。未だ目が慣れていないので何も見えない、一面の黒の中で名前が再び「おやすみ、傑」と言って、私は今度こそ「おやすみ」と返した。
返したところで眠れるわけもないのだが。
* * *
「あ、名前からメール」
昼休みが明けて、五限目の授業が始まる直前、硝子が不意に声を上げた。携帯電話の画面をこちらへ見せる。
「……門の前まで迎えに来て?」
「昨日泊まりだったから今帰ってきたのか。五条、行ってこいよ」
「硝子にメールしてきたんだから硝子が行けよ」
「名前が寂しいからってだけで迎えに来いなんて言うわけないだろ。何か荷物でもあるんじゃないの」
言いながら、硝子は窓に近寄りロータリーのほうを眺める。真似をして隣に並ぶと、更に遠く、敷地の外に見慣れた黒い車が停まっていた。
「……あれか?」
「補助監督だけ出てきた。後ろに何か喋ってるし、やっぱ名前乗ってるんでしょ」
「なんで出てこねえんだよ」
「……怪我でもしたとか?」
硝子の返事を聞くや否や、俺は走り出した。それを先に言え。本当は窓から飛び出していったほうが早いのだが、むやみに術式を使うと色々うるさいのだ。それに俺の足なら走ったところであっという間だし。
途中、先ほど車から出てきた補助監督の男とかち合った。五条さん、と少し嬉しそうな顔をされた。
「名字さんが連絡してたの五条さんだったんですね、いやあ、助かります」
「何、名前怪我してんの?」
「え?してませんけど」
その言葉に内心でほっと息を吐きつつ、再び歩みを進める。補助監督も後ろをついてきているようだった。
車が近くなると、こちらに気付いた名前が窓の向こうからひらひらと手を振った。元気じゃん。なんで降りてこねーんだろ。後部座席の窓をコン、と一回叩いたところで俺は名前が動かない理由に気付いて固まった。
名前と同じく昨日から泊まりの任務だった傑がいた。名前と一緒だったんだな、なんてことを考える前に、コイツ何やってんだと思った。傑はそのデカい図体を狭苦しそうに小さく丸めて、名前の膝に頭を預け、すやすやと無防備な寝顔を晒している。どうりで名前が出てこないわけだ。叩き起こしてやりゃいいのに。
後部座席のドアを開けると名前が小さな声で「お迎えありがとー」と言う。
「いや、いくら俺でもコイツ寝かせたまま運ぶとか無理だからな、叩き起こせ」
「ええ、そうなの?」
その前に写真撮ってやろ、と思って携帯電話のカメラを向けると、名前は楽しそうにピースサインを作ってみせた。
「おい、起きろこのスケベ」
携帯電話をポケットにしまうと、上半身を車内に突っ込み、傑の肩に手をかけ揺さぶる。傑は嫌そうに呻き声を上げ、名前の太ももに顔を擦りつけた。起きてるだろ。
「朝からずっとこんなんなんだよね、昨日眠れなかったのかなぁ」
名前がケラケラと笑いながら言う。そうこうしているうちに硝子もやってきて、こちらを覗き込むとプッと噴き出した。
「名前、昨日の任務夏油とだったんだ」
「うん、そのまま一緒にホテル泊まって帰ってきた」
「……一緒に?」
硝子が不意に真顔になって名前に問い返す。一緒にって、同じホテルにってことだろ?俺は当たり前のようにそう思ったのだが、硝子は何か引っ掛かったらしい。しかし次の名前の一言で、俺は女の勘の恐ろしさを思い知った。
「部屋空いてなくて一緒のベッドで寝た」
「はぁ!?」
真顔のまま目を見開く硝子の代わりに俺が声を上げた。バッと傑のほうを見たが、すぐ近くで俺たちがこれだけ騒いでいるにも関わらず、相変わらず呑気に寝息を立てている。
「……何もされなかった?」
「え?何が?」
きょとんと硝子を見上げる名前の様子を見れば、何もなかったというのは本当なのだと思う。それから傑の様子にも納得がいった。たぶん一睡もできなかったんだろうな。可哀想なやつ。
硝子が襟首を掴んで引っ張ると、傑は「うぇ、」という呻き声とともにようやく目を覚ました。だるそうに身体を起こすと、眼前に広がる名前の太ももを見下ろして、固まる。
「傑、おはよ」
顔には出さないもののおそらくパニックなのであろう傑を覗き込むようにして名前が言う。それから「二回目だね」と付け足された言葉に、傑はびくりと肩を跳ねさせた。あぁ、朝もこうやって挨拶されたってことか……ベッドで?寝起きの名前に?
「……おはよ……、え、待って、悟と硝子がいるってことは……聞いた?」
「詳しい話は教室で聞こうか」
「いや、私ほんとに何もしてな」
「別にお兄さんが犯人だって言ってるわけじゃないからね」
「絶対疑ってるやつじゃないかそれ」
既に逃げ場のない傑の両脇を硝子とともに固め、これから取調室となる教室へ案内する。名前は俺たちのやりとりを不思議そうに眺めていたが、補助監督に声を掛けられると慌てて車を降り、挨拶をしてから荷物を両手に駆け寄ってきた。
「あ、それ傑の鞄か、持つよ」
「自分で持つし別に逃げないから連行するのやめてくれない?」
傑の言葉には耳を貸さず、名前から鞄を取り上げた。傑のと、ついでに名前のも。
「ねえ、もう五限目始まってる時間なのにこんなのんびりでいいの?」
「いいのいいの」
そう言う硝子は完全にサボりのいい言い訳ができたとしか思ってないんだろうな。硝子がしれっと名前の手を取ると、名前は嬉しそうに腕を絡めた。ずりい、俺もそっちがいい。
「名前、本当にこのクズに何もされなかった?変なこと言われてない?」
「だから何もしてないって……」
「あ、変なことは言ってた」
名前の言葉に俺と硝子だけでなく傑もぴしりと固まった。背中から撃たれたって気分だろうか。
「何言われたの」
「悟とはお泊まりしちゃだめなんだって、傑はいいのに」
「へえ」
「ふーん」
「待って、違う、名前前後省きすぎ……!」
「あとで詳しく聞かせてもらおうか」
校舎が近くなってくると、教室の窓から顔を出した夜峨センが「おまえら、ちょっとは急ぐそぶりを見せろ!」と怒鳴って、名前だけが「はぁい」と返事をして俺たちを急かす。
「ほら、急がなきゃ!」
名前に背中を押された硝子はしぶしぶと小走りで校舎へ吸い込まれていったが、俺と傑はもちろん微塵も急ぎはしない。
「……マジで何もしてねーの?」
ようやくふたりきりになったので、ここぞとばかりに尋ねると、傑は盛大に溜息を吐いた。俺の質問に呆れ果てているのと、少しの解放感といったところか。
「してないよ、名前見れば分かるだろ」
「意気地なし」
「真摯なんだよ」
すげーな、コイツ。好きな女が隣で寝てて何もしないとか。……抜いてもねーのかな。それはもう不能なのでは?
とはいえ、そんな傑も睡魔には勝てなかったし、寝ている間の自分までは制御できなかったってわけだ。
「……じゃあ名前の太もものご感想は」
俺がそう言うと傑は玄関の段差に引っかかってつんのめった。また何か言い返されるのかと思って身構えたが、傑は真剣な表情で何か考えるようなそぶりを見せる。
「なんで私はあの状況でずっと眠っていたんだって思った」
もったいなさそうにすんな。しかし聖人かと思われた親友もそれなりに馬鹿で安心した。
「一回も二回も変わらないよね?あとでもう一回チャレンジしていいかな」
――コイツこんなんでよく一晩堪え抜いたな。
Fin.