Spring has come.

ほんの一週間前までコートを着ていたと思ったら、あっという間に暖かくなって、昼間は上着が必要ない、そんな季節。じきに桜も咲くだろう。みんなでお花見をするのもいいな、誘うメンバーはどこまで広げるべきか。

その日の任務は傑とふたり。山奥の曰く付きのトンネルというやつで、市街地から遠く標高も高いそこの空気は心なしか冷たい。上着、持ってきたほうがよかったかな。まあ、傑もいるし祓うだけなら一瞬だ。なんて、余裕ぶって出てきたことを私はひたすら後悔していた。

「まだ?」

「あと一時間くらいだって。どうする?歩く?」

「うーん……どうせ暇だし歩いてもいいけど、でも結局車乗らなきゃだし時間的には変わんないなら無駄だなーとも思う」

「うん、だから訊いたんだけどね」

カチカチと携帯電話をいじりながら言う傑に、なんでもないように返事をする、が、正直めちゃくちゃ歩きたかった。
私たちがこんな会話をしている理由は、私たちが任務に当たっている間、近くの別の現場でトラブルがあり、補助監督がそのヘルプに行ってしまったせい。トラブルは簡単に解決し、すぐに戻れるはずだったのに、渋滞に巻き込まれてしまったとかで私たちは一時間待ちというわけだ。前述のとおり、山奥なので、少し歩いて電車で帰ろうなんて選択肢はない。
いつもならぐだぐだしていれば一時間なんてあっという間なんだけれども、今日の私にはひとつ問題があった。寒い。寒すぎる。昼間の気温がずいぶん春らしくなってきたのですっかり油断していた。日が暮れはじめれば気温はぐっと下がるうえ、ロケーションも最悪。しかも、隣で涼しい顔をしている傑と違って私はしっかり動き回って汗をかいてしまった。それがまた身体を冷やす。今にもガチガチと歯を鳴らしてしまいそうなのだが、傑にバレるのは何か嫌だ。その一心で平静を装っていた。

「まあ、名前の言うとおり歩いたって仕方ないし、ここで待とうか」

――あぁ、墓穴掘った。いや、本当にその通りなんだけど。しかも先ほどまで息を切らしていた私ならともかく、まだまだ元気であろう傑にそう言われてしまってはもう歩きたいなんて言えない。あと、少し歩いたところでそこまで体温が上がるだろうかという疑問もある。
自分の身体を抱き締めるように二の腕を擦りそうになって、ハッとしてやめた。同じ過ちを繰り返さないよう私も傑に倣って携帯電話を取り出してみるが、全くもって、何にも集中できやしない。硝子に構ってもらおうかな、なんて考えてはみたものの、普段そんなことしないから何を話せばいいのかも分からない。対面だったら永遠におしゃべりしていられるのに。

「傑、何してるの?」

「悟が死ぬほどどうでもいいメール送ってくるから返してる」

「返すんだ……えらいね」

死ぬほどどうでもいいメールってどんななんだろう。それが分かったところで、たぶん硝子は傑みたいに返事してくれないだろうけれども。
傑がパチンと携帯電話を閉じたので、なんとなしに視線を向けると、にっと微笑まれた。

「せっかく名前といるんだし名前と喋ろうかな」

「ええ、なに改まって」

「名前、何か言いたいことありそうだし」

――バ、バレてる……!

「エスパーじゃないしさすがに何言いたいのかまでは分からないけど。どうしたの?」

からかっているのかと思ったら、不意にそんな真剣な顔をするから調子が狂う。思わず目をそらすと、傑はすすす、と近付いてきた。

「なんにもないってば、っ、くしゅん!」

今にもくっつかんばかりの勢いで迫ってくる傑を制そうとした手で、ぱっと口元を押さえた。くしゃみひとつは褒められた……とは、思ってくれないだろうな。反射的にそむけた顔をおそるおそる傑のほうへ向けると、切れ長の目をぱちぱちと瞬かせてこちらを見下ろしていた。

「……寒いの?」

「……うん」

ここまで口に出されてしまっては、もはや隠す理由もない。小さく頷くと、傑は腕を組んで何か考え込んでいる様子だった。その間も視線はじっとこちらに向けられたままで居たたまれない。
やっぱり歩く……いや、いっそ組手でもしてもらうか……なんて、ろくに回らない頭で馬鹿なことを考えていると、突然傑が学生服の上着を脱ぎ始めた。Tシャツ一枚になって、何食わぬ顔で「はい」と差し出されたそれをどうしろというのか。

「な、なにしてるの……?寒くないの……?」

「全然。名前と違って、これくらいじゃ汗かいてないしね」

嫌味ったらしい言い方をするのは、私が悪態でもつきながら上着を受け取りやすくなるようにだろう。これが悟だったら本気でただの嫌味だし、そもそも自分の服をわざわざ脱いで譲ってやるなんてことをするわけがないのだけど。

「着てなよ、名前風邪ひいたら長引くでしょ」

これは本当の嫌味だな?確かに、この冬のはじめに風邪をひいたときはそれはそれは長引いて、傑も含めいろんな人に多大なる迷惑をおかけしたと思っているけれども。

「いや、今はよくても絶対すぐ寒くなるよ、私が風邪引くより傑が風邪引くほうが大事(おおごと)なんだから馬鹿なことやってないで着なよ!」

「天気予報も見れない馬鹿に言われたくないんだけど」

「もう春だと思ったんだもん」

「三寒四温って言葉知ってる?」

差し出していた上着をすっと下ろして、傑は完全に呆れ果てた顔で言う。本当そういう顔得意だよね、なんて口に出したら返り討ちに遭うので言わないけれど。

「……分かった。じゃあおいで」

再び上着を羽織ったかと思ったら、傑はそんなことを言う。何が分かったんだ。おいでってどこへ。きょとんとしたまま固まる私の腕を傑が掴んでぐいと引き寄せた。

「へっ!?」

あまりに突然のそれに踏ん張ることもできず、私は背中からぽすんと傑の腕の中に収まった。背中に触れる胸板の硬さに驚いて、そのあとカッと頬に熱が集まる。

「すっ、傑!?なに!?」

肩のあたりに回された力強い腕は鉄の棒でも入っているのかと思うほど硬く、逃れようともがくことすら許されない。前のボタンを開けたままの上着の中にいそいそと詰め込まれて、先ほどまで凍えていたのが嘘みたいに、ぐんぐんと体温が上がる。

「本当に寒いの?すごい熱いけど」

ごつごつとした手の甲をぴとりと首筋に当てられて、危うく変な声が出るところだった。ぐ、と息を呑むに留めるのにいっぱいいっぱいで何も言い返せずにいると、今度はくるりと返された手のひらで首筋をするすると撫でられる。

「傑がっ、そういうことするからでしょ!」

声だけは威勢がいいものの、抱き締められた肩から下は相変わらず微塵も動かせない。なんとか肘を曲げて太い腕を掴んでみても、何の抵抗にもならない。むしろイチャつくバカップル感が増している。勘弁してくれ。

「酷いな、温めてあげてるのに」

「もう温まったからいい!離して!」

「すぐ寒くなるって言ったのはそっちだよ」

「ああ言えばこう言う……!」

本当に、変な汗かきそう――、え……汗……?
かろうじて動く首だけわずかに振り返って、ちらりと見上げる。当たり前なんだけれど、すぐそばに傑の顔があって慌てて再び前を向いた。

「だっ、だめ、待って、本当にだめ、私さっき汗かいたから離して!」

「シャンプーの匂いしかしないよ?」

「嗅ぐな!!」

頭上ですんすんと傑が鼻を鳴らす音が聞こえる。さすがにここまでされると抵抗する力も入るというものだが、暴れれば暴れるほど傑もまた腕に力を込めるので状況はなんにも変わらなかった。私だってそこそこ鍛えているつもりだけれど、傑からしたらたぶん子供とじゃれているのと変わらないんだろうな。

「硝子にチクる!」

「へえ、なんて言うの?私に抱き締められて匂い嗅がれたって?」

それは困るな、なんて言っている傑はたぶん全く困っちゃいない。いや、実際そうやって口にしたらまあまあ変態的だし本当に困るんだろうけど、そもそも私がそれを口に出せるかという問題だ。出せるわけがない。

「誰も見ちゃいないよ」

「そういう問題じゃない!」

――もはや腕に力をこめるのはやめた。どうせ無駄だからだ。私が大人しくしていれば傑の腕も少しずつ緩む。だからといって逃げようとも思わないけれど。どうせ反射神経でも敵いやしない。
傑だと思うから照れるんだ。これは電気毛布。ちょっと硬いけど。傑の言うとおり誰も来やしないし、解放されたらたぶんまた寒くなるし、もう諦めて受け入れよう。そして、どうせ諦めるなら存分に利用してやろう。身体の力を抜いて、そのまま背後に倒れこむように傑にもたれかかってやった。驚きからか一瞬ふらついたものの、すぐにしゃんと踏ん張って受け止められた。ちらりと振り返ると、ぱちぱちと目を瞬かせていて、少しだけ勝った気分。ふふん、と鼻を鳴らしていると、何故か傑の腕に込められた力が強くなった。

「……ん?」

先ほどより密着したからか、ふと気付いてしまう。背中と後頭部にわずかに伝わってくる、どくどくと脈打つ鼓動。一瞬自分のものかと思ったが、それより少し速い音がもうひとつ。

「傑、すごいドキドキしてる?」

「……うるさいな」

不意に片腕分だけ解放されたと思ったら、その手でぐいと前を向かされ、再び抱き締められた。前を向いたところで音と振動は伝わるんだけれど。

「ねえ、もうほんとに寒くないよ」

「私が寒い」

「絶対嘘じゃん……」

背中から伝わる体温も、時折つむじにかかる吐息も、風邪でも引いてるんじゃないかってくらい熱い。それで寒いなら絶対風邪だ。

「寒くなかったらだめ?」

甘えるような声が降ってきたあと、後頭部に何かがこつんと当たる。それが傑の額だということに気付くのに、そう時間はかかりはしない。

「……逆に訊くけど、寒いからって理由だけで私が誰にでもここまでさせると思うの?」

首だけ無理やり振り返って傑を見上げると、今日何度目かの驚いた顔。今度は傑が目を逸らして、頬を染める。

「……そういうこと言うと男はすぐ勘違いするよ」

「したらいいじゃん」

私は目を逸らさない。じっと見上げたまま言えば、おそるおそるといったふうにこちらを見た傑と視線がぶつかる。は、と息を呑む音がしたけれど、はたしてどちらのものだったのか。
時間が止まったような気がしたのも束の間、不意に傑の顔がこちらへ近付いてきたから、私は慌ててバッと顔をそむけた。

「……なんで」

「はっ、早すぎでしょ、馬鹿じゃないの!?」

「勘違いしていいって許可が降りたから」

「にしても早すぎでしょ!まだ……、」

警戒しつつ再び振り返る。さすがにそう早く二度目の襲撃はなかった。

「……まだ好きとも何とも言われてない」

「そういうの気にするんだ」

かわいいね、と切れ長の目を細めて囁く傑の声が耳元をくすぐる。

「好きって言ったらしていいの?」

「いや、だめ。初めてがこんなとこなんてやだ」

「……初めて?」

あ、やば、口が滑った。パッと反射的に両手で口元を押さえるも、もちろん時すでに遅い。

「す、傑と、って意味」

「……そう」

堪えきれないように口元を緩ませる傑は、たぶん私の言葉の真意に気付いているけれど。傑がそれ以上何も訊いてこないのであれば、わざわざ寝た子を起こすこともない。ぐ、と押し黙っていると傑がまた私の髪に顔を擦り寄せながら「ねえ」と吐息混じりの声を掛けてくる。耳のすぐそばでそんなことをされたら全身がぶわっと粟立つようで、めちゃくちゃ良い声してるんだな、なんて今更気付くのだ。

「私か名前の部屋なら満足?」

「……やだ、絶対最後までするじゃん」

「最後って?」

……やっぱこいつセクハラで晒し上げてやろうかな。軽く肘鉄を入れると「冗談だって」と笑っていたけれど、絶対冗談のつもりじゃなかったと思う。

「私だって誰にでもこんなことするわけじゃないよ」

当たり前だ、いくらその顔でも訴えられるぞ。そうは思いつつ全く声にならない程度にはしっかりと絆されている私も私だ。
それにしても――一体私はいつまで傑の抱き枕にされているのだろうか。時折ごうと音を立てて春の強い風が吹いていたが、もうちっとも寒くなかった。

Fin.

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