おめでたい人

「これ、ホントにすごいの!ぷるっぷるになるよ!」

「へー……でも見た目じゃ分かんないな」

「……じゃあちゅーする?」

「馬鹿じゃないの」

くすくすと楽しそうな笑い声が廊下まで響いていた。
朝のHR前、先に来ているのはいつも女子ふたり。といっても、ほんのわずかな差だけれど。
……そんなことより、いくら同性同士での冗談とはいえ聞き捨てならない台詞が聞こえてきたのは私の気のせいか。

「――おはよう、朝から楽しそうだね」

何食わぬ顔をして教室に足を踏み入れると同時に、それとなくふたりの持ち物を確認する。いつもなら並んで雑誌を眺めていることも多いが、今日は机の上には何もない。鞄は机の横に掛けられていて、あとは名前の手に握られた携帯電話くらい。

「傑、おはよー」

ぱっと顔を上げて笑顔で挨拶を返す名前に対し、硝子は私の視線の動きに気付いたのか嫌そうな顔をしていた。おそらく直前の会話を聞いての行動だとバレているのだろう。

「何の話?」

後からやってきた私がふたりにそう尋ねるのはよくあることだったので、名前は特に気にする様子もなく、携帯電話の画面を見せてきた。見切れた白い指先と、ピンク色の小さなボトルが写っている。

「これね、リップスクラブって言って……要するに、リップクリームのすごいやつ。唇がめっちゃぷるぷるになる」

男の私に説明するのが面倒くさくなったのか、名前はものすごく簡潔に答えた。そんなことを言われたら、つい唇に目が行ってしまうのは自然なことで、しかし普段通りの色付きリップが塗られているのであろうそれの変化は残念ながらよく分からなかった。

「昨日使ってみたらすっごいよかったから、硝子ちゃんに宣伝してたところ」

「回し者かよ」

「ホントにいいんだってば!」

名前にぺちぺちと肩を叩かれながら硝子は笑っていた。

「ま、見た目じゃ分かんないらしいから自己満足だけどね」

ふと手を止めると名前はそう言って苦笑する。まあ、そういう自分磨きみたいなことはたいてい自己満足だとは思うけれど。

「そんなことないよ」

「えー、なんで?」

「名前の唇がぷるぷるだったら私が嬉しい」

そう返すと、名前と硝子はぱちぱちと目を瞬かせてこちらを見上げた。数秒の沈黙のあと、硝子がはぁと溜息を吐いて、それを聞いた名前がハッとして赤い顔で私を睨む。

「な、な、なんでそういうこと言うの!?」

「え、だって私のためだろ」

「自己満足って言ったばっかじゃん!?」

スパンッと小気味よい音を立てて携帯電話を閉じた名前は、勢いよく立ち上がって私の胸倉を掴もうとして、やめた。さっと逸らされた顔を見るに、おそらく私との物理的な距離を詰めたくなかったからだろうと思う。行き場を失ってさまよう右手をこちらから掴んでやると、ぎょっとして逃げるように一歩後ずさった。

「……イチャつくならよそでやってくんない?」

「だってさ、名前」

「イチャついてないしもう先生来るでしょーが!」

うんざりしたような硝子に言われると名前はいっそう頬から耳まで朱に染めて、私から逃れようと掴まれたほうの右腕をぶんぶんと振るが、もちろん大した効果はない。

「ねえ、確かめていい?」

「なにを……って、ダメ!無理!何言ってんの!?」

「だってその、リップ?使う前の状態も知ってるの私くらいだろ?」

「そういう問題じゃない!」

カチ、という音がしたので視線をやると、硝子が煙草に火をつけたところだった。もう完全に我関せずといった様子だ。名前に「硝子ちゃん!」と助けを求められてもシカトを決め込んでいる。儚い友情である。

私と名前がじりじりと間合いをはかりあっていると、にわかに廊下のほうが騒がしくなって、一時休戦し皆揃って顔を上げる。それからノックもなく教室の戸ががらりと開いて、飛び込んできた補助監督の男が「家入さんいますか!」と声を上げる。

「朝からすみません、急ぎで見てほしい人がいて、」

男が言い終える前に硝子は立ち上がっていた。せんせーによろしく、なんて軽い口調で名前に言い残して、颯爽と教室を出ていく。一連のやり取りが嵐のように過ぎ去り、再び名前に視線を戻すと、名前は感嘆の息を漏らしながら熱っぽい瞳で廊下のほうを見たままだった。

「硝子ちゃんカッコいい、同い年なのにもうあんなに頼りにされてる」

その様子は大変可愛らしくもあったけれど、それ以上に硝子への嫉妬心がふつふつと沸いてきてしまう自分に少し呆れた。しかし沸いてしまったものは仕方がない。私は名前の肩に手をかけ、そっとこちらを向かせる。

「傑?」

不思議そうな顔でこちらを見上げる名前の顎に指を掛ければ、ようやく自分の置かれた状況に気付いたらしく、バッと私の胸板に手を置いて距離を取ろうとする。しかし、名前がそうやって力を込めたところで微々たるものだ。肩から腰に手を回せば、いっそう身体が強張った。

「あのさ、名前、私はやきもち焼きだから、そうやってきらきらした目で見つめられるのもキスするのも私だけがいいんだ」

「え、う、うん!?」

顔どころか耳も首も真っ赤にした名前は一瞬固まってからハッとして「聞いてたの」と呟く。

「し、してないよ?硝子ちゃんと」

「知ってるよ」

私が顔を近付けると名前は必死に背中を反らして逃げていたけれど、ついに限界が来て互いの鼻先がちょんと触れる。驚いた名前が反射的にぎゅっと目を瞑って、悪手だなぁ、なんて他人事のように考えた。顎に掛けていた手を後頭部に回すと、長い睫毛がびくりと震える。あぁ、可愛い。これだけのことでもうガチガチになっているくせに、余裕ぶって硝子に「ちゅーする?」なんて言っていたその軽薄さすら愛おしい。

「んっ……」

ちゅ、と軽く唇に触れただけでそんな甘い声が漏れた。けれどこれだけじゃリップスクラブとやらの効能は分からない。息をつく間も与えず再びその薄桃色の唇に吸いついた。今度はその感触を確かめるようにじっくりと。固く結ばれたそれに割り入るように舌を這わせてみたけれど、さすがにまだ頑なだった。

「っ……は、」

酸素を求めて唇が薄く開いたのは無意識だったらしく、名前は息を呑んだ。ヤバ、という心の声が聞こえてくるようだった。しかし、深追いはせずそっと身体を離す。きょとんとこちらを見上げる名前の顔は心配になってしまうほど真っ赤で、丸い目にはゆらゆらと涙の膜が揺れていた。生理的なものだとは分かりつつ、続きを期待されているのではないかと勘違いしそうになって慌てて頭を振る。

「おーし、ギリギリセーフ……って硝子まだじゃん」

開けっぱなしだった扉からぬっと大きな身体を覗かせて気の抜けた台詞を吐く悟に、名前はビクッと肩を震わせて、私の身体を盾にするように慌てて悟の死角へ入った。

「あれ、今名前いなかった?」

「いるよ」

名前は熱い顔を冷まそうとしてか、両手で頬を押さえてまごついている。そんなこと知る由もない悟は長い脚で容赦なくこちらへ近付いてきて、私の肩越しに名前を覗き込んだ。平静を装うのが間に合わなかった名前は俯いて小さくなって、未だ薄っすらと朱の残るうなじを晒している。

「……朝っぱらから何してたんだよ傑」

「別に何も?」

「続きは後でね」と言い残して席に着けば、「ほら、続きっつったじゃん」と言って悟も続く。名前は赤い顔を隠すのは諦め、じいと無言で私のほうを睨みつけた。

Fin.

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