墜落

どうして口に出してしまったんだろう。最初に思ったことは、そんなことだった気がする。

「好きだよ」

白馬に乗った王子様、までは夢見ていないけれど。いつか私のことを大切にしてくれる誰かに、そうやって言われることを望まなかったといえば嘘になる。けれど、その相手は少なくとも彼ではなかった。

「……ありがと」

たった四人の同期、まだ入学して数ヶ月の学校、これからも続く共同生活。いろんなことが頭に浮かんで、絞り出すように「私も」と呟いた。

* * *


「名前」

寮の自室から教室へ向かう途中の廊下で、柔らかな声が背後から私を呼ぶ。足を止めて振り返ると、声音の通り優しく微笑んだ傑がいて、大きな手のひらをこちらへ向けてひと振りした。私もそれに答えるように小さく手を振る。追いついて隣に並んだ傑が「おはよう」と言ったのを合図に再び歩き出した。

「おはよ」

「名前、今日はずっと学校?」

「うん、傑はどこか行くんだっけ」

「お昼からね」

行きたくないなあ、と肩を落とす傑の背中をぽんぽんと叩く。任務が億劫、ではなく、私と一緒にいたいからという理由は幾度となく聞かされた。

「夏油はほんとに名前のことが好きだな」

教室に着いたときには誰もいなくて、少ししてから硝子ちゃんがやってきた。それから私にべったりの傑を見て、開口一番そう言った。椅子をふたつ並べて私の肩に頭を預けていた傑は、じろりと硝子ちゃんに視線をやると、見せつけるように腕を絡めてくる。

「何、今更」

「毎日毎日飽きないなって」

「飽きるわけないだろ、私は授業中だって寮でだってこのままでいい」

「そ、それはちょっと……」

きゅ、と腕に力を込められて苦笑する。これ以上は私の心臓がもたない。不満そうな傑と物言いたげな硝子ちゃんの目が揃ってこちらに向けられて息が詰まった。

「名前か硝子、ちょっと手伝ってくれ」

気まずい沈黙が流れかけたのを、先生の声が遮る。硝子ちゃんが「どっち」と嫌そうに答えたから「私が行くよ」と立ち上がった。

* * *


「名前はさ、私のこと好きじゃないよね」

ふたりきりになった途端、夏油はすんと真顔になって口を開いた。

「知らない。好きとも嫌いとも聞いてない」

「そんなことないよ、とか言ってくれないの?」

だって、聞いたことがないというのが答えじゃないか。
万が一夏油のことを好きになったとして、あの名前が私に黙っているとは思えない。黙っておこうとしたって全部顔に出る。名前はそういう子だ。
だから私は、夏油が名前と付き合うことになったと言い出したとき、とうとう頭がおかしくなったか、名前は何か脅されているのだとすら思った。

「夏油、なんで名前に告白したの」

「好きだから」

「そうじゃない」

脅されている――というのは、あながち間違いではないのだと思う。別に夏油が名前の弱みを握って、とかではなく。

「私たちは卒業までずっと一緒、減ることはあっても増えることはまずない。クラス替えもクソもない」

「そうだね」

「そんな状況で告白したら、名前がどうするかなんて分かってただろ」

争いごとが嫌いでことなかれ主義の名前が、どう答えるか。呪術師にはまるで向いていないあの優しい子が、断ったあとの夏油や私たちとの関係のことを考えないわけがない。

「私は勝てない勝負はしないよ」

「……最悪」

「でもさ、硝子」

いつ死ぬか分からないのだから、悔いのないように生きないと、なんて、そんなの名前だって同じだろうが。

* * *


「名前ー」

先生に頼まれた用事を済ませて再び教室を目指していると、背後から間延びした声に呼び止められる。なんだかデジャヴだ。

「悟、おはよ。ギリギリじゃん」

「名前もだろ」

「私は先生のお手伝いしてたの」

後頭部に可愛い寝癖を残して、まだ眠たそうな顔をした悟が近付いてきた。そう早く歩いているようには見えないのにあっという間に追いつかれてしまったのは、たぶん脚の長さの違い。

「名前、やっぱ傑と一緒じゃないときのほうが元気だよな」

「……え」

まるで天気の話でもするような軽い口調で悟は言った。対する私は時が止まったかのようにぴしりと固まる。半歩先で立ち止まってこちらを振り返った悟は、珍しく真面目な顔をして。

「名前、ほんとに傑のこと好きなの?」

「……傑に訊かれた?」

「いや、俺が気になっただけ」

傑にも言わない、と付け足された言葉は、私に返事を急かしていた。

「嫌いじゃないよ」

「好きじゃないってこと?」

「分かんない」

悟の青い綺麗な目は、サングラス越しでも刺激が強い。私は視線を逸らし足元を見たまま再び歩き出した。悟も隣をついてくる。

「名前は嫌いじゃなかったら誰とでも付き合うのかよ」

「そんなことないけど……」

悟は今どんな顔をしているのだろう。怒っているのか、それともこんな私を軽蔑しているのか。声色だけでは分からなかった。

「コクられたとき、どうせ余計なこと考えたんだろ」

「余計なことって」

「おまえと傑のこと以外は全部余計なことだよ」

そう言うと悟は、ぽすんと大きな手のひらを私の頭に乗せて、そのまま髪をくしゃくしゃにして去っていった。目的地は同じだけど、その速度はおそらく私の小走りよりうんと速くて、追いかける気にはならなかった。それと同時に、悟が私のペースに合わせてあの長い脚でゆっくりゆっくり歩いていたことに気付いて、なんだかくすぐったくなった。

* * *


昼食を終えるなり、傑と悟は予定通り任務に駆り出された。いつまでも私から離れようとしない傑の首根っこを引っ掴んだ悟の背中を見送って、私は硝子と一緒に医務室へ向かう。一応自主練ということになってはいるけれど、私たちはそんな真面目な学生じゃないのだ。医務室は一年中空調が効いていて快適だし、硝子の手伝いと言えば追い出されることもない。私のオアシスだった。
連絡もなしに重傷の術師が運び込まれてくることなんてまずない。時折顔を出すのは、硝子曰くそれくらい舐めてりゃ治るレベルの甘えた学生たち。いつにもまして穏やかな時間が流れる。

「硝子ちゃん、今日ラーメン食べたいなあ」

「いいじゃん、ふたりで行く?」

「うん」

なんとなしに言えば、軽い口調で返ってきたから、私も深く考えず頷いた。すると硝子ちゃんは読んでいた雑誌から顔を上げ、じいともの言いたげにこちらを見つめる。

「……なに?」

「夏油のこと考えすらしないんだなと思って」

「あ……」

そう言われて初めてこの場にいないふたりのことを思い出した。ふたりとも晩ごはんのころには戻ってくるはずだった。けれど、硝子ちゃんが言いたいのは、たぶんそういうことではなくて。

「なんか、未だに実感わかないんだよね、傑と付き合ってるって」

私と傑は恋人同士で、どこかへ出掛けるならまず彼のことを思い出すべきなのだろうけれど、私にとっては同期で同性の硝子ちゃんとふたりでいるほうがうんと自然なことだった。
硝子ちゃんは雑誌をぱたんと閉じて、身体ごと私のほうを向く。

「それって、名前が夏油のこと好きじゃないから?」

「いや……、分かんない……」

「あのさ、名前」

俯いていた私は、そのとき硝子ちゃんがどんな表情をしていたのか知らないけれど、耳に届いた声はとても優しかった。

「名前と夏油がどんな関係になっても、私も五条もめんどくさいとか思わないから、名前の好きなようにしたらいいんだよ」

「え……」

それって、傑に告白されたとき断ってもよかったってこと?今からでもただの同期に戻っていいってこと?
――私はどうしたい?
一瞬で頭が真っ白になって、ふたりきりの医務室に静寂が満ちる。

「硝子ちゃん、私――」

口を開きかけたとき、硝子ちゃんの携帯電話が軽快な音楽を奏でだした。あまりに場違いなそれにふたりして目を丸くして、けれど硝子ちゃんはすぐに真剣な顔に戻って電話を取る。

「分かった、医務室で待ってる」

一言、二言話したあと、硝子ちゃんはそう言ってパタンと携帯電話を閉じた。

「名前、手伝えるなら手伝って。無理なら出てってくれてもいい」

「なに……」

「夏油が怪我して運ばれてくる」

* * *


心配な気持ちはあった。手伝うつもりもあった。けれど、硝子ちゃんに突然告げられた事実に私があまりに顔色を悪くしたものだから、問答無用で医務室を追い出されてしまった。仕方なく談話室に避難して、ソファの上で行儀悪く膝を抱える。
しばらくすると磨りガラスの窓の向こうが騒がしくなって、バタバタと数人の人影が駆け抜けていった。傑が帰ってきたんだ。私はガバッと腰を浮かせたものの、すぐに固まってしまった。
怪我の程度は聞いていないけれど、もし傑が血塗れとか、酷い姿をしていたら。私は冷静でいられるだろうか。硝子ちゃんが私を追い出したのは、きっと私が取り乱して足手まといになると思ったからだ。だったら、ここで状況が落ち着くまで待ったほうがいいんじゃないか。硝子ちゃんが付いているのだから絶対に大丈夫なはずだ。

「絶対、大丈夫……」

自分に言い聞かせるように呟いたけれど、絶対なんてないことは分かっている。ここは、ついさっきまで笑って話していた友人が次の日にはいなくなっているかもしれない世界だ。傑に限って、そうは思いつつ私は居ても立っても居られなくなって駆け出した。廊下には誰もいない。全力で駆けると廊下の古い床板たちはギィギィと悲鳴を上げた。
医務室にたどりつくまで誰ともすれ違わなかった。医務室の中も静かだ。もう治療が終わったのだろうか。ノックをするのも忘れ、引き戸に手をかける。

「傑……」

普通に声を上げたつもりだったが、ここまで走ってきたせいで息が上がってしまっていて、掠れた声しか出なかった。名前を呼んだ人物は悠々とベッドに腰掛け、すぐそばに立つ硝子ちゃんと何か話していたようだった。私が姿を見せると、ぽかんとした顔をこちらに向ける。

「……名前?」

ぜぇぜぇと肩で息をする私を不思議そうに見つめる傑は、とても大怪我をして運ばれてきたようには見えなかった。

「傑、怪我って、」

「あぁ、ちょっと足を捻っただけだよ。歩けなかったから大騒ぎになっちゃったみたいだけど」

「なんだ……」

ほっとしたら急に全身の力が抜けてしまって、私はへなへなとその場に座り込んだ。慌てて駆け寄ろうとする硝子ちゃんより先に、傑が飛んできて手を差し伸べてくれた。怪我してるんじゃ、と思ったが、反転術式でとっくに治してもらっているのだろう。
傑は私を立ち上がらせるとそのまま手を引き、先ほどまで腰掛けていたベッドに私を座らせた。隣に座るのかと思ったら、私の正面に立ってじいとこちらを見下ろしている。

「そんなに心配だった?」

「え……、うん」

頷くと、傑の切れ長の目がいっそう細くなって、なんとなく喜んでいることは伝わってきた。

「名前はきっと、怪我したのが悟でも硝子でも同じように走ってくるんだろうけど、それでも嬉しいな……あぁ、でも心配かけてごめんね」

どこか悲しそうな笑顔に、今日悟と硝子ちゃんに言われたことを思い出した。傍で見ているだけのふたりでさえ気付くことを、傑本人が気付いていないわけがない。

「あ……あのね、傑」

私が意を決したように口を開いたからか、硝子ちゃんがすっと動き出して何も言わず医務室を出ていった。
傑とふたり、同じく無言でそれを見送る。ぱたん、と扉が閉まると、傑は続きを促すように私を見つめた。

「今日、悟と硝子ちゃんに言われたの……私は傑のこと好きなのかって」

大して賢くもない頭を必死で動かして言葉を探す。傑は小さく頷きながら、私の声に耳を傾けていた。

「そうやって訊かれて、好きだって言えなかった……傑も分かってたんだよね」

今度は、頷いてくれなかった。けれど否定もされなかった。

「ごめんね」

「私、今からフラれる?」

傑の右手がするりと私の左手を絡めとった。きゅ、と込められた力はいつになく弱々しい。
祈るように見つめられる手に、私も少しだけ力を込めた。

「私ね、傑に好きだって言われて、毎日毎日好きだって伝えられて、どうしたらいいか分からなくって、ずっと傑から目を逸らしてた」

こうやって視線がぶつかるのは、ずいぶん久しぶりな気がする。私が知っている傑はいつだって自信満々で、こんなに不安そうな顔をするなんて知らなかった。

「まだ傑のこと好きだってはっきりとは言えないけど、今度はちゃんと受け止めるから、もうちょっとだけ付き合ってくれる?」

「もちろん……ちょっとじゃなくて、いつまでも付き合うよ、名前が私を好きになるまで」

そう言うと、私たちはどちらからともなく抱き合う。何度も触れた身体のはずなのに、知らない体温のようだった。

「……好きになるかは分かんないよ」

「好きにさせてみせるさ」

「ふふ、かっこいいね」

「好きになった?」

「ちょっとだけ」

傑は少しだけ身体を離してこちらを見ると、くすくすと含み笑いをしたから、私もつられて笑った。

Fin.

prevnext

Main
Top