(心斎橋でデートなんか久しぶりやな……)
暇潰しに入ったお気に入りのコーヒーチェーンは、ちょうど商店街を見下ろす2階のカウンター席が空いていた。慣れた様子でせかせかと歩くオオサカ市民や、大荷物の外国人観光客、近隣で働いているのであろうホスト風の男たち。ハロウィンは数日前に終わったからか、さすがに仮装をしている人はもういない。テレビ中継で見た、当日の戎橋は酷いものだった。お互い(と言っても、ほとんど簓の事情だけれども)仕事があって誕生日当日に祝える年のほうが少ない私たちだが、正直簓の誕生日に関しては数日遅らせたほうが色々楽だったりする……なんて言うのは薄情だろうか。
――こうやって絶えず流れ続ける人の波を眺めるのは初めてではない。
簓がまだ盧笙とコンビを組んでいたころ、賞レースの結果が出るのをここで待っていた。携帯電話の小さな画面で、ふたりが2回、漫才をするのを見守った。どんな結果であってもふたりを讃えようと食事の約束をしたものの、まさか決勝まで行くとは思っていなかった。優勝したふたりは次の仕事の打ち合わせとかで引っ張りだこだったらしく、結局誰かの家で合流することになったんだったか。
今日の簓は、あのときほど切羽詰まってはいない。劇場で数本ネタを披露するだけの仕事だ。時間もある程度は読めるし、そんなに待つことはないだろう。未だ勢いよく湯気の立つコーヒーを舐めるように少しだけ啜った。これが熱いうちに来ればいいけれど。
* * *
いわゆるフラグを立ててしまったのではなかろうか。
コーヒーはとっくに冷たくなって、けれど飲みきってしまったらなんとなく居づらくなってしまうから時折思い出したようにカップに口をつける。
舞台は生物だから多少遅くなるのは想定のうちだったが、この時間には出れると思う、と簓から伝えられていた時刻から一時間が経とうというのに連絡ひとつない。何かあったのだろうかとネットニュースやSNSを確認するも、分かったのは何事もなく公演が終わったらしいということだけ。
さすがにそろそろメッセージのひとつやふたつ送っておくか――と思ってアプリを開いたところで、マナーモードにしていたスマホがブルブルと震えだした。
『――っスマン!いま劇場出た!』
後ろでガチャガチャと荷物が揺れるような音がして、ゼェゼェと荒い息遣いも聞こえてくる。
「走らんでええよ。言うてたカフェにおるから」
『すぐ行く!』
返事をする暇もなく、ピロンという電子音とともに電話が切れた。
いつ来るかも分からずに一時間近く待ったあとだ。そのうち来ると分かっているなら何も苦ではない。それでも簓は走ってくるのだろうけれど。ただでさえ目立つのだから少しは大人しくしてほしいものだ。
スマホを置いて窓から商店街を見下ろすと、相も変わらず川の流れのように人がぞろぞろと歩いていく。さすがにこの中は走れないだろうと思っていたら、脇道からひょこりと出てくる緑の頭頂部が見えた。さすが、地の利を味方に裏道を駆け抜けてきたのだろう。きっと1階のカウンターは素通りしていて、ドタバタと階段を上がる音が聞こえてくる。他のお客さんたちが訝しげな視線を向けるが、まさかあの白膠木簓がこんな必死になって息を切らせて走ってくるなんて思わないのだろう。すぐにそれぞれの会話や作業に戻っていった。
私の姿を見つけた簓がよろよろと近づいてくる。アラサーの身体は限界が近いらしい。劇場から全速力でここまで来たのだとすれば仕方ない話だ。
「す、まん、お待たせ、」
ぜえぜえと肩で息をする簓の言葉は途切れ途切れで、カッコよさなんてまるでない。
「だから走ってこんでいいって言うたのに」
たぶん大した意味はないけれど、大きく上下する背中を擦りながらちょうど空いていた隣の席に座らせる。ああ、でも何も頼んでないから落ち着いたら早めに出ていかんとな。
そんなことを考えていると、熱い視線を感じる。走ってきたせいで上気した頬と微かに濡れた瞳という、見る人が見ればなんとも官能的な表情で簓がこちらを見つめていた。
「……名前?」
小さく首を傾げる。私が男で簓が女の子だったらたぶんイチコロだ。
何も言わない私を簓が不思議そうに見つめたから、なんでもないと言うように頭を振った。
「やっと会えたなーって思っとっただけ」
「……え、何?怒っとる?」
「怒ってないって」
そう言いながらも、まさか私が怒っているなんて微塵も思っていないからか、簓はきょとんとした顔で尋ねた。
「まだ盧笙と組んでたころにさ、新人賞取ったやん、あんときもここのカフェで待っとってんけど、あの日は結局会われへんかったから、やっと会えたなーって思っただけ」
「ええ?何年前の話やねん」
偉そうに言うけれど、盧笙とお笑いをしていたころの話をこんなふうに自然と口に出せるようになったのは割と最近だ。指摘することはないが、きっとお互い気が付いている。
「ま、それはそれは、えらいお待たせしましたぁ」
くすくすと含み笑いをしながら、簓は立ち上がって私に向かい手を差し出した。その手を取ってゆっくりと腰を上げる。
「ほな行こか」
「なんか私がお誕生日様みたいやわ」
「お誕生日様やなくて俺のお姫様やし」
「……恥ずかしいやつ」
簓は当然のようにするりと指を絡ませて、反対の手では私の鞄と空になったマグカップを器用に持って歩き出す。さあ、ここからは私が簓をもてなす番だ。既に十二分に楽しそうな背中を眺めながら、私は気合を入れなおした。