学生時代からのお付き合いだった盧笙が芸人になると言いだしたときはどうしようかと思った。確かに盧笙は、一緒にいて面白いなとは思うけれど。それはたぶん万人受けする面白さではない。だけど、養成所に入って、そんな盧笙の魅力を存分に活かしてくれる相方さんに出会えたようで、ふたりは売れっ子への階段を駆け上がっている。
今日もミナミでライブがあると招待されて、つい先ほど劇場を出たところだった。三十分ほどで出てくるから、と言われていたので近くの喫茶店で時間を潰して、再び劇場へ向かい歩いていると、マナーモードにしていたスマホが震える。
連絡は盧笙からで、十分ほど遅れるという内容だった。お店出る前に言ってほしかったな、と思ったが、きっと何やら立て込んでいるのだろう。十分くらいなら近くでスマホをいじっていればあっという間だと、そのまま歩みを進めた。
ミナミは、というか、これは都会ならどこでもそうだと思うのだけど、あんまり治安が良くない。暇そうに立ち尽くしていると、あちこちから視線を感じる、気がする。時折声を掛けてくる男の人を「待ち合わせです!」とはねつけていると、あっという間だと思っていた十分も、うんと長く感じてしまう。
(盧笙、早くー……)
つい顔を上げると、なんだか嫌な感じのする男の人と目が合ってしまった。その人はずんずんとこちらへ近付いてくる。逃げたほうが良さげだったけれど、いつ盧笙が出てくるか分からないと思って出遅れてしまった。
「おねーさん、ひとり?」
「待ち合わせです」
「でもずっとここおるやん」
……そんな前から目を付けられていたのか。本当に厄介そうだ。一旦その場を離れようとすると、ぐい、と手首を掴まれる。
「ちょっと、」
ご飯だけでもとか、待ち合わせ相手が来るまでとか、絶対それだけで済ますわけがないとしか思えない誘い文句を繰り返しながら、男は私の手を引く。これは本格的によろしくない。周りをちらりと見回しても、みんな心配そうな視線を送ってはくるものの、助けてくれる気配はない。
自分でなんとかしなきゃ、とは思ってもどうしたらいいのか分からなくて半ばパニックになっていると、今度は別の誰かにぐいと肩を抱かれる。勘弁してくれ、と思って振り返る前にその手に抱き締められて、目の前はその人のシャツの白でいっぱいになる。それからうっすらと嗅ぎなれた香水の香りがして、ふっと肩の力が抜けた。
「汚い手ぇで触っとんちゃうぞ」
いつだったか相方さんが言っていた、養成所の入所試験でモーゼの十戒のごとく他の受験生の海を割った盧笙の鋭い眼光とはこのことだろうか。いつも私に向けるのとはまるで違う視線と声音に驚きはしたものの、不思議と恐怖は感じなかった。
男がいなくなったのを見届けると、ようやくその逞しい腕から解放される。
「大丈夫か?」
「あ……盧笙、ありがとう」
気が抜けたのか、今になって身体が震えた。再び肩を抱かれ、劇場の敷地内へ連れていかれる。
「すまん、もうちょっと早よ連絡したらよかった」
「盧笙は悪ないよ、全然大丈夫やから」
未だ膝を震わせて、どう見たって大丈夫じゃないのに、盧笙はそれは指摘しない。
「名前が大丈夫でも、俺が俺を許されへん」
「もう、大袈裟」
再び私を抱き締めて、私以上に不安そうな声で言うものだから思わず笑ってしまった。狙ってやっているなら恐ろしい人だけれど、盧笙はそんな器用じゃあない。
「お腹空いてるやろ、ご飯行こ?」
「……ん」
ぽんぽんと背中を叩きながら言ってやれば、渋々といった感じで身体を離す。
ライブ終わりにいつも行く安いファミレスへ歩みを進めながら、思いつめたような顔をしている盧笙に声を掛けた。
「盧笙、もう終わるの遅なるライブは呼ばんとこかなとか考えてる」
「え、」
「絶対嫌やからな、自分でチケット取って行くから」
「……でも」
「今度はどっかお店の中で待ってるから、盧笙がそこまで迎えに来て」
な、と首を傾げてみせれば、盧笙は少し気の進まない様子ではあったが、小さく頷いた。
「んふふ、ちょっと怖かったけど、さっきの盧笙めっちゃカッコよかったから逆にラッキーやったかも」
「んなわけあるか、アホ」
絡めた腕にぎゅっと抱きついて含み笑いとともにそんなことを呟けば、ちっとも痛くないデコピンが飛んできた。
Fin.