CIGARET(2/3)

最悪だ、寝坊した。しかも、よりによって新番組の一発目の収録で。ギリギリ間に合いそうではあるけれども、化粧も何もできず、すっぴんの顔はマスクで、ボサボサの頭はキャップで誤魔化して、オシャレのオの字も感じられないスウェットにデニムパンツという出で立ちで家を飛び出してきた。スタジオに向かうエレベーターに飛び乗って、ドアを閉めるボタンを連打していると「ちょお待ってー!」という叫び声とともに片手がドアの間に差し込まれる。
この声は、と思って顔を上げそうになって、慌てて止めた。
……白膠木簓だ。そういえば初回のゲストのひとりにその名を見つけて、苦い顔をした記憶がある。まさかエレベーターから一緒になってしまうとは。先日なんだか思わせぶりな声の掛けられ方をして以来、会いたくない芸能人ナンバーワンの座に輝いているというのに。
しかし、今日の私は先日とは違う、自分でも引くほどの芋っぷり。顔もほとんど見えちゃいないし、まさか気付かれやしないだろうと高を括って、俯いてエレベーターのボタンを見つめていた。

「名字さん」

突然呼ばれた自分の名前に、思わず肩を跳ねさせてしまった。これでは肯定しているのと同じだ。

「やっぱり名字さんやん!なんで無視するん?」

なんで分かるんだ。しかも、いつの間にやら名前まで覚えられているし。
渋々振り返ると、むすっと唇を尖らせた白膠木簓がこちらを見下ろしていた。

「……おはようございます」

「おはよーさん」

俯いたまま視線だけちらりと彼のほうへ向けて挨拶をすると、彼は嬉しそうに顔を綻ばせた。何がそんなに楽しいのやら。

「今日はえらい自然体やなあ」

「何ですかそれ、嫌味ですか」

今度は私がマスクの下で唇を尖らせる番だった。彼は「ちゃうちゃう」と笑いながら手を振った。

「いつもよりニオイするから」

彼は相変わらずの笑顔でそう言ったが、私はその言葉にどっと冷や汗が噴き出す。

「く、臭いですか……」

確かに、ろくに身だしなみを整える時間なんてなかったし、服だって着る前に確認してない。さーっと顔色を失った私を見て、彼は一瞬不思議そうな顔をして慌てて否定する。

「え?あ、そういうことちゃうよ!」

エレベーターが目的の階に到着してポーンと音を鳴らす。ゆっくりと扉が開くと、彼も当然のようについてきて同じ階で降りた。これから一緒に仕事をするから当然なのだが。

「前も言うたやんか、煙草のニオイ!」

エレベーターを降りてもなお、彼は話を続ける。そろそろ同僚や知り合いがいるかもしれないから、あんまり話しかけてほしくないのだけれど。

「懐かしいニオイするなーって最初に思ったんもエレベーターの中やってんなあ。そんとき名字さんしか乗ってへんかって、こんな女の子があんなキッツいの吸うんやなあって思って、」

特にリアクションを返してもいないのだが、彼はひとりでぺらぺらと喋っていた。さすがに少し可哀想になって「へえ」と至極どうでもよさそうな返事をすると、彼にはそれで十分だったのか、背後から嬉しそうな含み笑いが聞こえた。

「それからずーっと見てたら好きなってもうたわあ」

「……は、」

爆弾発言に思わず足を止めると、真後ろを歩いていた彼が「うわ」と声を上げて私の背中にぶつかった。
混乱して何も言えない私を尻目に、彼はがしりと私の両肩に手を掛け「遅刻するでー」などと言って無理やり歩き出す。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよっ」

「いや、でもホンマに遅刻するで」

「それは」

あぁ、もう最悪だ。ちゃんと起きて早めに来られてたら、こんな会話をすることも、こんなに頭や心をぐるぐるにかき回されることもなかったのに。全て投げ出してその場に倒れ込んでしまいたい私の気持ちを知ってか知らずか、彼はせっせと私の背中を押しながら、

「せやから、収録終わったらいっぱい話そな」

す、と身を屈めて耳元に唇を寄せ、きっと彼のファンなら絶叫してしまうような艶っぽい声音で囁いた。

prevnext

Main
Top