青息吐息

昼休みの事務所内は、みんな休憩で出払ってしまってとても静か。そんな静寂のなかに、ハァと響く音がある。

「……12回」

「あ?何が」

来客用のソファーから、ひとり黙々と作業する獄さんに向かってぽつりと呟くと、彼は怪訝そうな顔でこちらを見た。

「私が今日ここに来てから獄さんが吐いた溜息の数」

「何数えてんだ……」

言いながら、獄さんはまたひとつ溜息を吐く。私はソファーから立ち上がり獄さんの席へ向かった。

「だめ!幸せが逃げちゃいますよ!」

「それくらいで逃げちまう幸せなんてこっちから願い下げだ」

「は〜!?」

近くの席からガラガラと椅子を引いてきて、デスクを挟んで獄さんの向かいに座ると、彼は心底嫌そうな顔をする。

「獄さんはここの代表なんですよ?獄さんが溜息吐いてたら、皆さん滅入っちゃうでしょう」

「今更なんも思ってねえよ」

「私が思う!」

「おまえはここの従業員じゃねえだろが」

いくら言っても獄さんはどこ吹く風でパソコンと資料に向かい続けている。それからスゥと息を吸う音がしたのでキッと睨めつけると、気まずそうに咳払いをした。

「あー、分かった分かった、一応気を付けるから今は静かにしてろ」

……そう言った直後にハァと盛大に溜息を吐いているのだけど、本人は全く気付いていないから本当にタチが悪い。
私が勢いよく立ち上がり、ダン、と机に手を付くと、獄さんはこちらを見上げて目を丸くした。文句を付けられる前にネクタイに手を掛け、ぐいと引く。自分も身を乗り出して一気に距離を詰めると、その困った唇に思いっきり吸い付いた。数秒の後、ぷは、と口を離すと、珍しくきょとんとした獄さんと目が合う。

「獄さんがそうやって溜息吐くたび、私がこうやって幸せ押し戻しますから!」

「……そんな恥ずかしいならやんなきゃいいだろ」

はじめこそ呆然としていた獄さんだったが、すっかり真っ赤になった私の顔を見ると、呆れたように笑って言った。私が俯いていると、すっと立ち上がって隣まで歩いてきて、ぽんと頭を撫でる。おそるおそる上げた顔を優しい目で覗き込まれて、わずかに息を呑んだ。

「大体、それで溜息が減ると思うか?」

「え、だめですか……」

私の答えに、獄さんはハアァ……と一際大きな溜息を吐いて、それからじっと私を見ると、にいと口角を上げた。

「キスしてくれるんじゃなかったのか?」

「そっ、そういう意味じゃ!」

くいと私の顎を持ち上げた手を思わず叩き落した。何食わぬ顔でそういうことができてしまうところも、拒否されてもなお不敵な笑みを絶やさないところも、大人って感じで、好きだけどどこか腹が立つ。

「……大体、今の獄さんすっごい幸せそうだし」

「そりゃ間違いねえな」

唇を尖らせてぽつりと零すと、獄さんは声を上げて笑う。
おもむろに自分の席へ戻ると机に肘をつき、なんだか悪い笑顔でこちらを見つめた。

「理由はどうあれ、おまえが俺のこと考えてるのは、まあ悪い気はしない」

そうやってしみじみと言われるとなんだか恥ずかしい気もするが、気持ちは分かるので何も言い返せない。返事代わりにむすっと頬を膨らませる私を見て、獄さんは今度は打って変わって優しく微笑む。

「ま、おまえが俺のそばにいるうちは幸せだろうから、そんな心配すんな」

……獄さんの溜息をどうにかしたかったはずなのに、なんだか結局、私のほうがずいぶん満たされてしまった。
けれど再び資料に目を通しはじめた獄さんのずいぶん満足気な表情を見てしまっては文句のつけようもなくて、自分の不甲斐なさに思わず小さく息を漏らすと、はたと顔を上げた獄さんが「キスしてやろうか」と嬉しそうに言って、確かにこれで溜息が減るわけがないと、今になって気がついたのだった。

Fin.

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