日付が変わってしまった。終電二、三本前の電車で帰ってくるなんて久しぶりだ。今朝、簓が家を出るとき「今日はだいぶ
遅なるわ、下手したら帰られへんかも」なんて話していたのを思い出して、少しほっとした。仕事終わり、友人と食事だけ行ってすぐに帰ってくるつもりが、すっかり盛り上がって二軒目、三軒目とハシゴしてしまったから。簓には、行くなとは決して言われないけれど、帰りが遅くなるときは絶対連絡しろとは口酸っぱく言われている。以前うっかり連絡を忘れて終電で帰ったときには、それはもう烈火のごとく怒られたものだ。
「ただいまー……」
誰もいないのは分かっているが、習慣でそう口にした。窮屈なパンプスを脱ぎ捨てると、洗面所と寝室のドアの前を通りリビングへ向かう。水を飲んだらシャワーを浴びてさっさと寝てしまおう。そんなことを思いながらドアノブに手を掛けたところで、突然ポンと肩に何かが乗る感触がして、思わず小さく悲鳴を上げた。
「名前、おかえりぃ」
「さ、簓……」
おばけとかじゃなくてよかった……と、一瞬安心したものの、振り返って目に入った簓の表情は、正直おばけよりよっぽど怖かった。簓の肩越しに、寝室のドアが開きっぱなしになっているのが見える。帰ってきていたんだ。
「は、早かったんやね」
「早い?おかしなこと言うなあ、もうてっぺん回ってんで?」
いつもと同じ笑顔のはずなのに、目がまるで笑っていない。肩に置かれていたはずの手はいつの間にか壁に突かれ、すっかり逃げ道を塞がれてしまっていた。後ろ手にリビングのドアを開けることは可能かもしれないけれど、たぶんそんなことをしても簓のご機嫌をいっそう損ねるだけだ。
「珍しいなぁ、えらい飲んでるみたいやん」
そう言うと簓はわずかに身を屈め、ずいと顔を近付ける。思わず目を逸らすと、「ん?」とどこか嬉しそうに視線の先に回り込んできた。
「あの、今日
遅なるって言うてたから」
「へぇ、名前チャンはいっつも俺がおらんとこで楽しんでたんやなぁ」
「いつもじゃないっ、」
少し声を荒げてしまった私の頭を、簓はポンポンと宥めるように撫でて、にこりと笑う。それから耳元に唇を寄せると「アカン子やな」と、まるで子供に言うみたいに囁いて、踵を返し、
「
早よ風呂入っといで」
と言って寝室へ戻っていった。
こんなの知らない。簓のスキンシップが激しいのには慣れっこなはずなのに、撫でられた頭がじわじわと熱を持つ。それを振り払うようにぶんぶんと首を振って、言われたとおり洗面所へ向かった。
* * *
簓が沸かしたらしいお風呂に入って、寝る用意を済ませて寝室へ戻っても、何の言葉もかけられなかった。なんだか拍子抜けだ。てっきり、また長々とお説教をされるものかと思っていたから。明日も忙しいからだろうか。
(……まあ、無言は無言でちょっと怖いけど)
寝息を立てている、というにはあまりに静かすぎる簓にびくびくしながら布団に潜り込む。
お酒はすっかり抜けてしまったようだけど、布団に包まったらすぐに眠気が襲ってきた。今日はもうさっさと寝てしまって、明日改めて謝ろう。遅くなると思っていたとはいえ、あんなに言われていたのに連絡しなかったのは私の落ち度だし、簓が怒るのはそれだけ私のことを心配してくれているからだというのも分かっている。
……呆れてもう心配してくれなくなったら嫌だと思うなんて、私もとんだわがままだ。
「やっと来た」
「っ、わ」
まぶたを下ろした瞬間、隣からするりと伸びてきた腕が私の身体を絡め取り、ぎゅうと抱き締める。ずっと布団に入っていたらしい簓の身体は、風呂上がりの私に負けじと劣らず熱い。
「簓……?」
起きていたんだ。やっと来た、ということは待っていたのだろうか。簓の胸元に押し付けるようにされていた顔をなんとか離して見上げてみるも、まだ部屋の暗さに慣れていない私の目では、その表情を窺うことはできない。
「なあ、名前?ご褒美とお仕置きどっちが欲しい?」
「……へ?」
片方の手がするりと首筋を撫でたかと思うと、そのままくいと顎に指をかけ、無理やり目線を合わせられる。少しずつ暗闇に慣れてきた目でじいと見つめると、先ほど明らかに怒っていたのが嘘みたいに、簓はにこにこと微笑んでいた。
「え、えっと……?」
「ちゃあんと帰ってきてえらいなあのご褒美と、何回言うても連絡できひんアカン子へのお仕置き、どっちがええ?」
前言撤回だ。めちゃくちゃ怒っている。もう嫌な予感しかしない。怒鳴られたほうがよっぽどマシだった。
すっかり縮み上がって何も言えずにいると、簓は「ん?」と言って首を傾げる。いつもなら可愛いとさえ思うその仕草も、今はひたすら私に恐怖を与えるだけだった。だけど、心臓がこんなにドキドキしているのは、怖いからというだけではない気もする。
「さ、簓、ごめ……」
「ちゃうやろ?質問に答えるんが先や」
まずは怒りを鎮めんと口にした謝罪の言葉だったが、どうやら逆効果のようだ。簓は「時間切れ」と呟くと、顎に添えていた手を背中に回し、ぎゅうと私を抱く腕に力を込める。再び胸元に顔を埋めるかたちになり、痛いほどに抱き締められる。
「何も答えられへんかったから、お仕置きや」
耳元に顔を近づけてそんなことを囁かれると、心臓がどくんと跳ねる。でも、物騒な響きだけれど、簓は私に酷いことなんてしない。
とはいえ、さすがに少し息が苦しいし、あんまり力を込めるものだから色んなところがみしみしと音を立てるような気すらして、胸板を押して抵抗すると、余計に拘束が強くなった。
「アカンよ、お仕置きなんやから。今日はずっとこのまま」
今日っていつまで?これがお仕置き?一瞬浮かんだクエスチョンマークも、あまりの緊張と羞恥心であっという間に消えてしまった。
ばくばくとうるさい心臓の音も、これだけ密着していたらきっとバレバレなんだろう。それに伴って熱く、荒くなる呼吸も。ときどき緊張で身体が震えると、簓の手が優しく撫でる。お仕置き、なんて言葉とは程遠いやわく甘やかなそれに、頭がおかしくなりそうだ。
「ささら、今度からは
早よ帰るし、
遅なるときはちゃんと連絡するからっ」
「前もおんなじこと言うたのに、結局連絡せえへんかったやん、アカン子やな」
まただ。耳元で囁かれるたび、身体がぞくぞくして、じわりと涙すら浮かぶ。
「も、いやや」
「嫌やなかったらお仕置きにならへんからなあ」
これならいっそ、正座でお説教を聞かされるほうがよっぽどマシだった。ああ、それか簓に訊かれたときにさっさと「ご褒美」と答えられていたら何か変わったのだろうか。自責と後悔の念に苛まれているこの時間のことを思えば、お仕置きの効果はてきめんのようだ。
すっかり目が覚めてしまったどころか緊張でガチガチになっている私とは裏腹に、簓の表情はどんどん穏やかになって、今も楽しそうに額や頭部にちゅ、ちゅと唇を寄せている。こんな甘ったるいお仕置きがあってたまるか。
「……俺がどんだけ名前のこと好きか分かった?」
「わ、分かった!」
「名前が寝てまう前に帰りたくて、めっちゃ頑張って仕事終わらせてきたのに、何時間も帰ってこんくて心配で心配でどうかしそうやった俺の気持ちも?」
「分かった、ホンマにごめんなさい」
ようやく解放されるのかと、ほとんど動かせない頭でこくこくと頷くと、簓が満足そうに笑う声が聞こえた。しかし、腕の力はいっこうに弱まる気配がない。それどころか、寝息かと思うほどあまりに穏やかな呼吸音が聞こえてきてハッとする。
「離してくれへんの……?」
「ん……?言うたやろ、今日はこのまんま」
添い寝の刑、なんてどこか楽しそうに言う簓はずいぶんご機嫌で、とてもとてもつい先ほどまで怒っていた人間には見えなかった。
Fin.