「簓さん、ちょっといいですか?」
上司に頼まれて、準レギュラーの白膠木簓を呼びに行く。いつからか、それは私の仕事になっていた。別に特段仲がいいつもりはないのだが、理由は薄々察している。
「どうぞー、開いてるよー」
ノックをすると、そんな返事が返ってくる。扉を開けて顔を覗かせるも、楽屋の中心に置かれたテーブルの周りには誰もいない。
「簓さん?」
不思議に思って再び声を掛けると、開いた扉の裏から「わっ!」と声を上げて簓さんが飛び出してきた。
「……それ先週もやってましたよ」
「そうやっけ?」
「ちょっと打ち合わせしたいことがあるみたいなので、来てもらっていいですか?」
「名前ちゃんのお願いやったら喜んでー」
簓さんは語尾にハートマークでも付いていそうな猫撫で声で答える。お願いというか仕事なんだが。あまり言い返しても面倒なのは分かっているので、特に何も言わず、部屋を出る用意をする簓さんを待つ。
「お待ちどーさん」
簓さんは支度を終えて出てくるなり、私の肩を抱き歩き出す。この人はいつもこうだ。一体私なんかの何を気に入ったのか、あるいは誰に対してもこうなのか知らないが、どうにも距離が近い。
初めて簓さんが収録に来たとき、私はもちろん「白膠木さん」と呼んでいた。それが翌週、唐突に「それ嫌」と言われ「何がですか?」と問うとツンとしたまま「名前」と返された。
それから数週間後、再び簓さんが出演される回の収録で、急遽追加の打ち合わせが必要になったとき、何故か上司は別の作業をしていた私を呼び止めて、白膠木くんを呼んできてくれ、と言った。そのときは何故わざわざ私をと思ったものだが、今となっては、なんとなく察している。たぶん、本人たってのご指名なんだろう。
隣を歩く簓さんはずっと何か喋っていた。仕事の話をしていたかと思ったら、いつのまにかめちゃくちゃプライベートな話をしている。たかがテレビ局のスタッフにそんな話をしていいのか。
「なぁ、聞いてる?」
「聞いてますけど……聞いていいんですか」
「ん?喋ってるんやから聞いてえぇに決まってるやん?」
「はぁ……」
何の話をしていたっけな。確か休みの日がどうのこうの……。
「せやから、今度のオフの日デートしよ言うてんねん」
「……………………デート?」
簓さんは、聞いてないやん!と怒る素振りを見せながら、しかしどこか楽しそうだった。
「暇なんですか?」
「暇なわけないやろ!貴重な休みやけど、名前ちゃんとデートできるなら
構へんわ」
まだ行くとも言っていないのに、簓さんは既にニッコニッコと嬉しそうにしていて、すごく断りづらい。しかもそのオフの日というのが、私の休日とも被っているのだ。この人のことだから、きっと私の上司か同僚にでも確認済みなんだろう。
「簓さんが行きたいならいいんですけど……私なんかと一緒で楽しいですか?」
私がそう言うと、簓さんは少し気分を悪くしたようだった。
「名前ちゃん、俺が誰にでもこんなんやと思ってるやろ」
「違うんですか?」
「ちゃうわ!そんな軽い男やないで!」
だったら、この肩に回された手は何なんだ……と思うのだが、簓さんは特に何も思っていないらしく、離れる気配はない。
「私、仕事中なので」
突き放すように言うと「俺も仕事中やねんけど」と至極真っ当な答えが返ってきたが、相変わらず行動とは一致しない。
「……仕事中やなかったらえぇの?」
「え?」
打ち合わせに使う控え室の扉が見えてきたころ、ひとりごとのように小さく呟かれたそれに違和感を覚えて顔を上げると、簓さんは私からスッと離れてニッと口角を上げる。
「収録終わったらちょーっと付き
合うてもらおかな」
そう言うと簓さんはノックの返事も待たず控え室のドアノブを回し、こちらに何やら不敵な笑みを浮かべ、扉の向こうへ消えていった。
* * *
無事収録が終わり、後片付けや次の仕事の用意をして一階のロビーへ向かうと、いつものスーツを脱ぎ私服に着替えた簓さんが柱にもたれて立っていた。ふと顔を上げ、私の姿を見つけると、パァと顔を輝かせる。
「名前ちゃん、お疲れさん」
「お、お疲れ様です……、待ってたんですか……?」
「付き
合うてもらう言うたやん」
出演者を先に送り出してから一時間以上経ったはずなのに、簓さんは文句ひとつ言わず、いつもの笑顔を浮かべる。いや、別に私が待っててと言ったわけではないので文句を言われる筋合いはこれっぽっちもないのだが。
「飲みに行こー、と言いたいとこやけど……それこそ軽い男やんなぁ……飯くらいならえぇ?」
「え、あ、はい」
驚きと戸惑いで頭が回らず、流されるがままタクシーまで手を引かれてしまった。運転手さんに何やら行き先を伝える簓さんをボーッと眺めていると、おもむろに車が動き出す。見慣れた景色が流れていくのを見ていると、じわじわと脳が覚醒してきた。
(白膠木簓とふたりでご飯に行ってる……)
自分のことなのに、どこか他人事のようにそう思った。
名前ちゃん、という声で我に返り隣を見ると、簓さんはいつもの数倍嬉しそうな顔をしてこちらを見ていた。
「もう仕事中やないし、局も出たし、本気出してえぇよな?」
「本気?」
何の、と問う声は声にならず喉の奥で消えてしまった。なんとなしに太腿に置いていた私の左の手の甲に、簓さんの右の掌が突然重ねられたからだ。ビク、と身体が跳ねるのにもお構いなしで、長い指がスルスルと絡められて、封じられたのは左手だけのはずなのに、まるで全身絡め取られたみたいに動けなくなる。
「さ、ささらさん、」
今、私が自由に動かせるのは目と口くらいのものではないだろうか。驚きと緊張で震える声で名前を呼ぶと、簓さんは嬉しそうにニィと笑った。
「やーっと意識してくれたなぁ」
ここまでせなアカンか、と困ったように言う簓さんは、その言葉とは裏腹にとてもいきいきしているふうに見えた。私はこんなにドギマギして鼓動が速くなって死んでしまいそうなのに、その差がなんだか悔しくて、でも顔に熱が集まるのはそれだけが理由ではないのであろうことは自分でも理解していた。
「なんで、こんな」
「名前ちゃんのこと、本気で好きやから、ちゃんと俺のこと見てほしい」
「何言って、」
顔を上げて、私は息を呑んだ。私の目に飛び込んできた簓さんのその表情は、これまで見たことがないくらい真剣で、窓の向こうでざわめいていた街の喧騒も車のエンジン音も何も聞こえなくなってしまうくらい、ぐっと釘付けになる。
私の瞳が羞恥心からわずかに濡れていることに気付くと、簓さんは一瞬驚いた顔をして、それから困ったように笑い「アカンて、可愛い」と極々小さな声で呟いたが、この距離では私の耳にも届いてしまう。
「分かりましたから、ちゃんと見ますから、手、離して」
時折手の甲を撫でるように這う指先は、自分を見ろと叫ぶ簓さんの心の表れなのか。私の懇願なんてまるで聞こえてすらいないように、簓さんは私の手を握っては
弛めてを繰り返す。
「やっと届いたのに、そんな簡単に離してたまるかい」
言いながら簓さんは私の手を取り自分のほうへ引こうとして、やめた。突然解放された左手は行き場をなくして太腿の上へ帰ってくる。
「アカンな、これでいくら本気や言うても説得力ゼロやわ」
シュンという効果音が聞こえてきそうなほど、見るからに落ち込んでいる簓さんに、何と声を掛ければ良いのだろうか。
しかし、簓さんの言うことはもっともだと思ったのも事実で。
「なぁ、俺どないしたらいい?どないしたら伝わるん?」
「どないしたら、と言われましても……」
そう言って眉を下げる簓さんは、先程とはまるで別人だ。男慣れのしない私をからかっているだけなのか、簓さんの言う“本気”なのか、私にはもう分からない。分からないし、もしこれが演技だったとしても、騙されても仕方ないかな、とすら思う。
「簓さんは……私の何をそんなに気に入ったんですか」
それは、どないしたらいい、という簓さんの問いへの答えでもあった。簓さんが私のことを好きだというその気持ちは幾度となく聞かされたものの、その動機については分からずじまいだった。しかし、これを聞いたら、もう戻れなくなるかもしれない。
「やっと俺のこと見てくれたな」
一瞬驚いたような顔をしたあと、簓さんはへにゃと顔を綻ばせて答えた。
「なぁ、初めて俺を呼びに来たときのこと、覚えとる?」
「そんなの、覚えてないです」
簓さんはたくさんの出演者のひとりで、私は人を呼びに行くのなんて日常茶飯事で、そんなありふれた出来事、いちいち覚えちゃいない。しかし簓さんはちっとも残念がる様子もなく、
「そういうとこが好きやねんな」
と答えた。
「俺がちょっと待ってって言うたら、名前ちゃんはスッて綺麗にしゃがんで、俺の靴揃えて、ちょこんて扉の前で待っとったんや」
「はぁ……」
「それ見た瞬間、なんかドーンって来てな、それからずっと、つい目ぇで追ってもうて、収録が一番楽しみな番組になって、柄にもなく緊張したりして、俺名前ちゃんのこと好きやん!って気付いてしもた」
きらきらと瞳を輝かせながら簓さんは語ったが、私にはどうにもピンと来なくて、ただその簓さんの表情があまりにもまっすぐで、綺麗で、ようやく彼の“本気”が伝わったことだけが確かだった。
「あの、簓さん」
「なに?」
「私、簓さんのことよく知らないし……好きとか言われても、分からないです」
だから、と私が続ける前に、簓さんが「じゃあ!」と口を開く。わたわたとポケットからスマホを取り出して、
「連絡先交換しよ!で、昼間も言うたけど、今度の休みデートして、そんで、」
私に断る隙を与えないようにか、簓さんは勢いよく捲し立てる。そんな様子を見てつい笑ってしまうと、簓さんはきょとんとこちらを見た。
「そう言おうとしてたところですよ」
メッセージアプリの画面を開いて見せると、簓さんはパァッと顔を輝かせて、大きく頷いた。そして、私が見せたQRコードを読み込む簓さんのスマホの画面を見ながら、ふと気付いてしまった。
(この人は、私の連絡先も知らないし、約束もしてないのに、ずっとロビーで待ってたんだ)
ぴこん、という通知音がして、簓さんのアカウントが私のスマホの画面に表示される。友達に追加する前に、ぴこぴことまた通知音が鳴る。簓さんがスタンプを送ってきた通知だった。ありがとうのあと、ハートを飛ばすキャラクターのスタンプが送られてきて、顔を上げると照れくさそうに笑う簓さんと目があった。ドキ、と胸が高鳴った理由が分からないほど子供ではないけれど、このくらいのことでときめいてしまう程度の恋愛経験値しかないことは認めざるをえない。
「絶対名前ちゃんにも好きって言わせたるからな」
「それは……頑張ってください」
何やそれ、と笑う簓さんへの感情は、局を出た瞬間とはまるで違うものになってしまったけれど、私だって軽い女だとは思われたくないので、まだしばらくバレませんように。
Fin.