「名前ー、ちょっと来てー」
金曜日の夜。家事も片付けお風呂も済ませ、少し早いけどそろそろ寝ようかなどと思いながらもダラダラとスマホを眺めていると、遠くから簓が私を呼ぶ声がする。
「なに?」
声のしたリビングへ向かうと、あぐらをかいて雑誌を読んでいた簓が、こちらを振り返り手招きをする。何か面白い記事でもあったのだろうか。近付いて覗き込むと、どこかの観光ガイドのようだった。しかし、それから何も言わない簓を不思議に思ってちらりと視線を送ると、その刹那、手首を掴まれぐいと引かれる。
「わ!ちょっと!」
まさかそんなことをされるとは思っていなくて、すっかり油断していた私は、ぽすんと簓の足の間に収まった。私の抗議の声などまるで聞こえていないかのように、簓の腕がお腹の前に回されて逃げられない。
「もー、何なん……」
「ふふ、捕まえた」
文句のひとつでも言ってやろうと思って振り向くと、肩越しに嬉しそうに微笑む簓の顔が見えて、ぐ、と言葉に詰まる。
クーラーが効いているとはいえ季節は初夏、背中の体温は決して心地いいものではないはずなのに、どうしてか、ちっとも不快にならない。
「私もう寝る……」
「ここで寝ててええよ?」
「何もよくないわ」
ぱらぱらと簓が雑誌のページを捲る音が響く。いや、何か見せたくて呼んだんやないんかい。そう伝えると、簓はきょとんとして、
「別に、ここに名前がおったらええなーって思ったから呼んでん」
そう言いながらお腹に回した手をもぞもぞと動かすものだから、くすぐったくて仕方ない。落ち着きのない手をぺちんと叩くと、簓は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにまたニィと嬉しそうに口角を上げて、私を抱く腕に力を込める。
ぎゅうと苦しいくらいに抱き締められて、首筋にかかる吐息と、ちりちりと触れる毛先がこそばゆい。飼い主に吸われる猫ってこんな気持ちなんかな、なんて、馬鹿なことを考えていた。
「アホなこと言うてんと寝えや」
「んー、もうちょい……」
簓の鼻が髪をかきわけ首筋にちょんと触れる。
……臭くないかな。お風呂入ったばっかやし、大丈夫やと思うけど。そんなことを考えていると、簓は呑気に「シャンプーいつもとちゃう?」と呟いた。
「あー、うん、サンプル貰たやつ」
「これ好き」
(……今のやつ終わったらこれにしよ)
いつの間にか私の膝の上に落ちていた雑誌をなんとなしに眺めながら、そう思った。
「……眠たなってきた」
「だから早よ寝えって言うてるやん、私も寝たいし」
「ん……」
ぐぐ、と簓の身体がこちらにのしかかってきたかと思ったら、突然そんなことを言う。全く、急に呼び出して抱き枕にして、人の気も知らずに散々匂いを嗅いだかと思ったら、今度は眠いとは。私は幼稚園児の相手でもしているのか。
「ほら、離して、ベッド行こ」
じわじわと緩んできた腕をポンポンと叩きながら言うと、またぎゅっと力が込められて、そして突然視界が広くなった。一拍遅れて、抱き上げられたのだと気付く。
「わ!?もう、今度は何!?」
「ベッド行こって」
「運ばんでええねん」
言っているうちに寝室に着いて、ぽすんと優しくベッドに下ろされる。簓も隣に潜り込んできたかと思ったら当然のようにこちらを向いて、再び私の身体にその細い腕を絡めてきた。
「なんで今日そんな甘えたなん?」
「名前が風呂入ってる間に、恋人が死んでまうドラマ見た」
「何それ」
怖いテレビ見た幼稚園児と一緒やん。笑いを堪えきれない私を、簓はむすっと不満そうに見下ろしている。
「そんな簡単に死なへんし、どこも行かへんよ」
そっと腕を伸ばして丸い頭を撫でてやると、気持ち良さそうに目を閉じて、ふにゃ、と表情も柔らかいものになる。
「ホンマに?」
「ホンマに」
そう繰り返してやると簓は「へへ……」と嬉しそうに笑って、なんとそのまま寝息を立てはじめた。おやすみ三秒か。
しかし、その穏やかな寝顔を見ると全て許せてしまうから、私も甘い。
(……色々あったもんな)
きっと私が聞かされているのなんて、ほんの一部なんだろうけど。
簓が二度と悲しい思いや寂しい思いをしなくて済むよう、いるかどうかも分からない神様や仏様に祈るくらいならば、私だけでも、簓がもう嫌だと言うそのときまで隣でしがみついて離れないでいてやろう、なんて、なんだかまるで呪いみたいだ。
Fin.