地下鉄の駅から地上へ出ようとすると、出口のところに数人の人が立ち止まっている。なんとなく嫌な予感がして耳を澄ますと、ぴちゃぴちゃと水の滴る音が聞こえてきた。
あぁ、やっぱ一緒にタクシー乗せてもろたらよかったなぁ。でもあの兄さん、酔うたらめんどくさいんよなぁ。
『簓、今日遅いんやったら傘持っていきや』
家を出るとき、名前がそう声を掛けてきたのを不意に思い出した。
あぁ、言うてたわ、持っていかなあかんと思っててんけど、いざ出るとき降ってなかったら忘れるよなぁ。
きっと名前は風呂を沸かしてくれているだろうし、走って帰るしかないだろうか。
コンビニで傘を買おうにも、そこに着くまでにびしゃびしゃになってしまいそうだ。ここは腹を括り、鞄だけは濡れないようにとシャツの中にしまって抱きかかえた。
「こら簓、何しようとしてんの」
大きく息を吸って、いざ、と一歩踏み出したところで、聞き慣れた声が鼓膜を震わせた。顔を上げると、見慣れた傘が目に入る。差している人物の顔は見えなかったが、それが誰であるかは明々白々だった。
「名前、」
「もー、傘持っていきって言うたのに、玄関見たら普通に置いてあったし」
名前は俺の傘を差して目の前に現れた。反対の手には自分の傘を持っている。迎えに来てくれたのだとすぐに理解した。しかし何故こうもタイミングよく、と驚きを隠せない俺を見て、名前は尋ねる前に答えた。
「さっきメッセージ送ったやん、今どこって」
……来てたわ。なんかパシられるんかと思ったのに返事ないからおかしいなとは思ったものの、そのまま忘れとった。
「冷えてまうから早よ帰ろ、はい、傘持って」
差していた傘を俺に手渡し、自分の傘を差しなおそうとする名前の手首を掴んで止める。
「一本でええやん」
「……もう」
つい口元を緩ませて言えば、名前は呆れたような顔をしつつ同じ傘に入ってきて、互いが濡れないようにぴたりと身体を寄せてくる。ゆっくり歩きだすと、足元でぴちゃぴちゃと水音がした。いつもなら気持ちが暗くなるばかりの雨の日特有のその足音も、今日はなんだか俺たちのための特別なBGMのようで。
「たまには雨もええなぁ」
「自分で傘持っていけるようになってから言い」
名前が濡れないよう、わずかに傘を傾けると、名前はむっと唇を尖らせて、俺の手の上から傘を持ち真ん中に戻した。それからするりと腕を絡めてきて、俺の肩に頬を寄せる。二の腕のあたりがぽかぽかと温かくなった。
「もっと大きい傘にしとけばよかったなぁ」
不意に名前が呟いた。その言葉に「ええ?」と不服の意を示すと、名前は不思議そうに俺を見上げる。ぱちりと視線がぶつかると、ふたりして自然と笑顔になった。
「アカン、これ以上デカかったらくっつく理由にならへんもん」
「アホらし」
真剣な顔でそう主張すれば、名前はケラケラと笑う。
「理由なんかなくてもずっとベタベタくっついてるくせに」
「んなことないやろ」
……んなことある。自覚している。理由なんていらんくない?幸せやから、じゃ足りひんの?
そんなことを思いながら、ちらりと名前を見下ろすと、名前もまたこちらに視線をやり「ま、別にいいんやけど」とひとりごとのように呟いて、ふっと笑った。
「名前」
「なに?」
「好き」
「知ってる」
ぱたぱたと傘が水を弾く音の中、名前が小さな小さな声で「私も好きやで」と答えたのが聞こえたが、傘と鞄に両手を塞がれた俺はその身体を抱き締めることもできず、嬉しそうに微笑みこちらを見上げる名前に、ただ身悶えすることしかできなかった。
Fin.