ツイてない。まさか降水確率20%で当たってしまうとは。すぐ止むだろうけど、下ろしたてのコートを濡らすのはなぁ、などと考えながらバイト先の軒下で立ち尽くしていた。
バイト先の喫茶店はとっくに閉店していて避難することもできず、庇で雨はしのげても風は吹きっぱなしだった。じわじわと冷たくなる手を擦りながら黒い空を見上げていると、視界の隅にこちらへ歩いてくる人影が映る。
(……あ、お昼のセクハラ野郎)
人気の少ない夜道であるので多少警戒して、凝視しない程度にその人物を確認すると、見覚えのある派手なコートが目につく。忘れもしない、それは今日、仕事中の私をわざわざ「キレーなオネーチャン」なんて言い方で呼び止めた胡散臭い中年男の持ち物だった。
まぁ、向こうは何も覚えちゃいないだろうけど。そのまま通り過ぎるだろうと思って視線を逸らしていたのに、男は何故かこちらへ進行方向を変えた。
「昼間のネーチャンじゃねぇか」
「……え」
ひら、と片手を上げて男は声を掛けてくる。そして当然のように庇の下、私の隣に並んで立った。仕事終わりかい、なんて問い掛けられるも、こんな見ず知らずのいかにもヤバそうな男相手に素直に答えて良いものかと、言葉に詰まる。というか、これは今すぐにでも逃げたほうが良い状況?
「なんだ、傘持ってねぇのか?」
私が返事をしていないのを特に気にも留めず、男はまた訊ねてきた。小さく頷いて、もしかして駅まで送ってくれるとか、なんて期待してちらりと隣を見たが、男も傘を持っている様子はなかった。私の視線に気付いたのか、男はクックッと肩を震わせて「残念だったな」と笑う。
「それとも入るか?」
そう言って男は派手なコートの裾を持ち上げた。確かに、この無駄に体格の良い男の、無駄に面積の広いコートであれば、私みたいな小柄な女はすっぽり覆えてしまうだろうけれども。その怪しげな風体を見ているとそのまま抱えて拉致でもされそうな気がしてしまって、反射的に首を横に振った。
私の表情が、たぶん怯えているように見えたのだろう。男はまた笑って、取って食いやしねぇよ、と言った。いや、割と食われそうな気がする。
「じゃ、俺も雨が止むまでここにいるか」
「……なんでですか」
言いながら、男は煙草に火を点けようとする。いつまでいるんだ、気まずすぎるからやめてくれ、そんな思いがつい口を衝いてしまった。私が口を開いたことに男は一瞬驚いたような素振りを見せたが、サングラスの奥の瞳は見えないままで、真意は図りかねた。
「なんでって、雨降ってるからな」
「さっきまで気にせず歩いてたじゃないですか」
「賢いな、オネーチャン」
言葉とは裏腹に、まるで馬鹿にするよう、というか、子供に言うみたいに男は言った。まぁ、実際に男に子供がいたら私くらいなのかもしれないけど。
「女の子が夜中にひとりで突っ立ってるのを放って帰るわけにもいかねぇだろ」
突然出てきた“女の子”という単語に、目の前がちかちかする。ネーチャン、ネーチャンと散々繰り返したその口から、そんな可愛らしい言葉が飛び出してくるなんて。
「……あなたのほうがよっぽど怪しいと思いますが」
「はっ、違いねぇな」
――確かに、派手なコートに真っ赤なシャツ、サングラスと帽子で隠された顔は明らかにカタギのそれではないのだが、ケタケタと笑うその表情からは不思議と悪意は感じられなかった。
ぽたぽたと庇から垂れ落ちる雫をなんとなしに眺めていると、男は不意に口を開く。
「こりゃ、しばらく止みそうにねぇな」
「そうですね」
天気予報的には曇りのはずだったのに、雲はどんどん重くなって今にも落ちてきそうで、雨足は強まるばかり。もうコートのことは諦めるかと考えはじめたところだった。
「止むまで待ってたらいつまで経っても帰れねぇだろ。もう入っちまえよ」
そう言うと男はまたひらりとコートの裾を持ち上げて見せる。疲れてるだろ、早く帰って寝ちまえよ、なんて甘い言葉が私の心を揺さぶった。
一歩踏み出しそうになって、思い留まる。いやいやいや、見ず知らずの男の、文字通り懐に入るなんて、貞操観念か、あるいは倫理観がどうかしている。
「なぁ、ネーチャン」
男は一旦コートから手を離し、どこか遠くを見たまま私に話しかけた。
「俺は職業柄、よく嘘を吐くが、意味のない嘘は吐かねぇ」
……職業柄?何て?などと問い質す隙は与えず、男は続ける。
「つまり俺が昼間、ネーチャンのことを綺麗だと言ったのは、嘘ではないか、もしくは意味のある嘘だったってことだ」
――どんな意味があったとしても、その件については嘘だということは秘めておいたほうがいいと思うのだが。
そのとき、自分が一体どんな顔をしていたのかはもう記憶が定かではないが、男は視線をこちらに戻すと、噴き出したように吐息を漏らして笑った。その顔はあまりにも無邪気だった、なのに。
「それから、だ。俺は狙った獲物は絶対に逃がさねぇ」
ぱち、と瞬きをしたその刹那、私の視界は漆黒に染まって、嗅ぎなれない煙草の匂いに包まれて、頬にはハリのある触り心地の良い布地が触れて。それが男のコートの裏地だと気付く前に、私は(あぁ、捕まった)と思った。
「さ、帰るか」
いや、今日はもう絶対家には帰れないだろ、と思いながら歩みを進める先は、私にはちっとも分からないけれども、少なくとも駅はこちらの方向ではない。
Fin.