グラウンドでサッカーをしていたら盛大にすっ転んで、膝からだらだらと血を流しながら保健室へ向かって歩いていた。時折すれ違うクラスメイトたちは、鮮やかな赤に顔を顰めながらも「またやったの?」とどこか呆れた様子でもあった。しかし彼らの指摘の通り、これくらいの怪我は慣れっこで、正直ラップバトルでキツいのを食らったときのほうがよっぽど痛い、とも思う。
ここを曲がれば突き当たりが保健室、というとき、タイミング悪く鉢合わせた女子と軽くぶつかってしまった。俺はなんてことなく踏みとどまったが、相手はぺたんと尻もちをつく。
「悪い、大丈夫か!?」
「大丈夫です……あ、山田くん」
俺が手を差し出すと、女子も顔を上げてこちらを見た。同じクラスの名字さんだ。俺の手を取ろうとして、ふと膝ににじむ血に気付くとぎょっと目を見開いた。
「えっ、あれ、山田くんも転んだ!?それとも何か当たった!?だ、大丈夫!?」
「違う違う、これは元から、保健室行くとこだったんだよ」
その小さな身体でどうやって俺を突き飛ばしたと思うのか、つい笑いそうになりながらも慌てふためく名字さんを宥める。上げかけていた手を無理やり引いて立ち上がらせると、名字さんは少し恥ずかしそうに「ありがとう……」と呟いたあと、また「あっ」と声を上げて、
「私、保健室行ってきたところなんだけど、いま先生いないの」
鍵は開いてるけど、と廊下の先を振り返りながら、まるで自分のように困った顔をする。
「名字さんも調子悪いのか?」
「ううん、ちょっと提出物があっただけ」
オロオロと保健室の方向と俺の傷を見る名字さんを横目に、(消毒くらいなら自分でできるよな……)などと考えていると、名字さんはおそるおそるといったふうに顔を上げてこちらを覗き込んだ。
「あの、よかったら私が手当するよ」
「え……いいのか?」
「うん、ぶつかっちゃったお詫びに」
それは俺も前方不注意だったし、むしろ一方的に突き飛ばすようなかたちになってしまった俺のほうが謝らなければいけない気もするのだが……しかしありがたい申し出ではあったので、素直に受け取ることにした。
* * *
誰もいない保健室で、丸椅子に座り、てきぱきと動く名字さんの背中を見つめる。何の迷いもなく道具を取り出して机の上に揃えると、
「よし、まず傷口洗おっか」
一応グラウンドで洗ってきたつもりだったのだが、名字さんはお気に召さなかったらしい。こういうときのためか低い位置にも設置してある水道へ向かうと、すすす、と名字さんが隣に寄ってくる。
「はい、掴まっていいよ」
「……ええと」
どうやら肩を貸してくれるらしい。大丈夫、とも言いづらいが、女子に身体を預けるのもそれはそれで申し訳ない。あと、少なからず密着することになるだろうに、いいのだろうか……。
躊躇う俺をよそに、名字さんは潜り込むようにして俺の片腕を自分の肩にかける。まさか突っぱねるわけにもいかず、俺は渋々そのまま背中を丸め、なるべく無心で傷口の洗浄に取り掛かった。
これくらいの痛み、なんてことはないとはいえ、痛いものは痛いので少し声が漏れてしまった。すると名字さんが「大丈夫?」と言ってこちらを見上げるのだが、肩を貸してもらっている状況でそんなふうに顔を上げられたら、
(ち、近、)
しかしここで顔を背けたりしては名字さんを傷つけてしまうのではないかと、俺は努めて冷静に、しかし実際に出たのはほとんど消え入るような声の「……おう」だった。
ようやく名字さんも納得がいったのか、いつのまにやら用意していたタオルを差し出してくれた。血で汚してしまわないよう水だけを拭い、再び丸椅子に腰を下ろす。名字さんは何の躊躇もなく俺の前に膝をついて、手袋をはめた手で何やら軟膏を塗り始めた。傷口じゃなかったらきっとくすぐったくて仕方ないほどの優しい手つき。
「何だそれ、消毒?」
「違うよ、今はもう消毒しないの。綺麗に洗って保湿」
マジか、全然知らなかった。ひとりのときは普通に消毒してたな、なんて考えていたのがバレているのか「してたんでしょ」と苦笑される。
「ほんとは、傷が早く治るって絆創膏あるでしょ?あれがいいんだけど、ここにはなかったから、おうちで替えてね」
「ん、分かった」
そんなハイテクなものが
家にあった記憶はないのだが、ここまでしてもらったんだし、帰りに買って帰ろう。俺のことだからどうせすぐ使い切るだろうし。
そうこうしているうちに手当が終わったらしく、名字さんはおもむろに立ち上がり、後片付けを始めた。
「ありがとな、すげー助かった」
「ついてきてよかったよ、山田くんに任せてたらどうなってたか分かんない」
靴を履いて保健室を出ようとしていた名字さんに言うと、苦笑いをしながらそう返された。
「あー……ちゃんと勉強しとくわ」
「勉強するのもいいけど、そもそも怪我しないように気をつけなよ」
山田くんて意外と生傷絶えないよね、なんて言われて、名字さんも意外と俺のこと見てたんだな――と思ったが、かろうじて口には出さなかった。
「名字さん優しいな」
「普通だよ」
優しい、そう、いつか自分で言った言葉を思い出した。ラジオの仕事で――確か、好きなタイプを訊かれたときだ。
(好きなタイプ……)
あのときは別に恋愛になんて興味はなくて、まあ、どうせなら優しい子がいいなあ、なんて軽い気持ちで答えたはずだったのに。
教室へ向かい前を歩く名字さんの後頭部を見下ろすと、急に心臓が激しく脈を打ち始めた。
……いやいやいや、確かにめちゃくちゃ優しくしてもらったけど、それはあまりにもチョロすぎだろ俺。
急に黙り込む俺を名字さんが不思議そうに振り返る。ふたりの身長差が名字さんを上目遣いにして、俺はそれにまた心臓を跳ねさせた。
「どうしたの?」
「えっ、あ、いや、名字さんもう帰るのか!?」
急に慌てふためく俺に不思議そうな顔をしながらも、名字さんは「うん」と言って小さく頷いた。
……帰るのか。じゃあ、部活とかやってねえのかな。俺、名字さんのこと何も知らねえや。
「送ってく」
「え?いいよ、まだ明るいし!山田くん怪我してるし!」
窓の外は確かにまだ明るかったけれど、たぶんあっという間に暗くなる。それに、こういう夕暮れ時のほうが危ないんだと三郎が言っていた……なんでかは忘れたけれど。
「別に骨折ったわけでもねーんだし大丈夫だよ、早く荷物取りに行こうぜ」
「でも、」
「……さっき言ってた絆創膏、買って帰るから選んでくれよ」
すっかり足を止めてしまった名字さんにそう畳みかけると、名字さんは一瞬言葉に詰まったあと「それなら……」と言って再び歩き出した。
いくら俺が馬鹿でも、絆創膏くらい自分で買える。少しズルをしたような、そんな気持ちになってモヤモヤした。けれど、これで名字さんは俺が送って帰ることを許してくれたみたいだし、それどころか一緒に寄り道までできるのだから安いものだ。
――この感情を恋だの何だの言うのは時期尚早だと思うし、正直今の俺には判断できないし。
けれど、名字さんのこと、もっと知りたい。夕飯のとき、膝に貼った絆創膏について兄ちゃんに訊かれて、少しだけそんな話をしたら「それが恋だろ」と至極当たり前のように言われてしまった。
Fin.