はじまりは、些細なことだったと思う。確か「冷蔵庫にごはんあるからチンして食べてな」とか「今日遅くなるから洗濯物取り込んどいて」とか、そんな業務連絡。いつからか、簓がそれに「ありがとう」とか「了解」とか返事を書くようになって、それが面白くて私も「明日のご飯何がいい?」なんて質問したりするようになって。仕事が立て込んでいるのか、最近は入れ違いになることも多い簓との貴重なコミュニケーションの場になっていた。
電話もメールもあるこのご時世に置き手紙なんて少し時代遅れだけれども、簓の字が意外と綺麗なことや、絵はあまり得意でないことを知ったのはこれがきっかけで、それを思うと、手紙もそんなに悪くない。
「あれ、何か書いてる」
今朝はバタバタしていて何も書かずに家を出たはずなのに、仕事を終えて帰宅すると、机の上にいつものメモ用紙が置いてあるのが目に入った。クリームソーダのイラストがでかでかと描かれたそれは、簓がどこかの雑貨屋で見つけて買ってきたもので、おかげさまで私はこれを見るたびに簓のことを思い出す。まさか文通に使うことになるとは思わなかったけれども。
鞄も下ろさずそれに手を伸ばす。けして整っているわけではないのに、なぜだかとても読みやすい簓の字。『なんで今日なんも書いてへんの』と文章でも相変わらずの関西弁と、すぐ隣の小さなイラストは、たぶん怒っている顔なんだろうけれど、いまいち分かりづらい。でも、このたった一枚の紙に、あぁ、私がいない間に簓はここにいて、これを書いたんだな、と痛感させられる。
返事でも書いておくか、とメモ用紙を机に置くと、ちょうど指で隠れていた部分にも何か書いてあることに気づく。それを見て私は思わず持っていた鞄を思いっきり床に落としてしまった。
『愛してるで』という文字と、末尾には小さなハートマーク。
あまりに脈絡がないのは、これといって書くことがなかったからなんだろうか。それなら無理に何かを書き置かなくともいいだろうに、アホなやつ、なんて悪態をつきながらも、私の顔は正直で口元が緩むのを抑えきれないのだ。
『顔見て言え』と大きめに書いたあと、少し考えて、その下に小さく『私も』と書き足した。
次の日、家を出る前に机を見てみると、昨日のメモ用紙はなくなっていて、かといって新しいものが置いてあるでもなく、ただがらんとした天板が広がっていた。
(昨日のメモ、取っとこうと思ったのにな)
何の気まぐれか、ずいぶん甘い言葉が記されたあんなメモ、次はいつお目にかかれるか分からないのに。やっぱり返事せずにポケットにしまってしまえばよかった、なんてさすがに不誠実だろうか。
「……ていうか、簓いつ帰ってきてんねやろ」
私が寝るまでには帰ってきてなくて、朝起きたときもいなかったのに、メモがなくなっているということは一度は帰ってきたのだろうけれども、まさかそれだけ……?と、相変わらずな生活が心配になった。
手紙は手紙でいいところもあるのだが、いかんせん利便性に欠ける。久しぶりにメッセージアプリを開き『今日は何時に帰ってくるん?』と送ってみる。手書きでないテキストがなんだか味気ないなんて、この時代にそんなことを考えられるとは夢にも思わなかったな。
すぐ返事が来るとも思っていなかったので、昼休みに改めてスマホを確認してみると『なに?寂しなった?』なんて、いつものニヤケ面を無意識に想像してしまうようなメッセージが届いていた。直後『今日は
早よ帰れる日やで』と、嬉しそうなスタンプと一緒に。
(今日は急いで帰って、何かちゃんとしたご飯食べさせんと……)
忙しくなるとすぐ睡眠と食事をおざなりにしがちな簓のため、私は今朝の冷蔵庫の中身へ思いを馳せることとなった。
* * *
玄関に自分のものでない靴が並んでいるのを見たのは久しぶりだ。ただいま、と声を掛けると、おかえり、と返ってくるのも。リビングのソファには、いつものスーツのジャケットだけ脱いで、ゴロゴロとスマホを眺めていたらしい簓がいた。
「おかえり、簓」
「えー?今帰ってきたん名前やん」
「そうやけど、なんかめっちゃ久しぶりに家おるの見たから……」
「俺も起きて動いてる名前久しぶりに見た」
人をロボットか何かみたいに言って簓はケラケラと笑った。やっぱり私が寝ている間に帰ってきて、再び出ていっていたのか。それって睡眠時間どうなってんの、なんて考えているのはバレバレのようで、私が何か言う前に「収録の合間とか移動中にずっと寝てるから大丈夫やで」と簓は言った。
「じゃあご飯はいつ食べんの」
「へっ」
「ほら!寝るんも大事やけど、自分すぐご飯抜くからちゃんと意識して食べってあんなに、」
「あー、分かってる分かってる、ちゃんと食うてるよ」
ひらひらと振られる掌も、それを支える手首も、相変わらず小枝みたいで今にも折れてしまいそうなくせに、よく言う。しかし疲れているであろう簓にこれ以上の小言をぶつけるのは躊躇われるので、ぐっと飲みこんで我慢した。
「……今日は死ぬほど食べてもらうからな」
「名前の料理で死ねるんやったら本望やで?」
「すぐそういうこと言うやろ」
相変わらずな様子の簓に言い返しながら身支度をして台所へ戻ってくると、簓もいそいそと近づいてきて、手を洗う私の後ろにぴったりとくっついて立つ。
「なに?座っててええよ?」
「んー、その前にな、言わなアカンことあるから」
「献立ならもう買い
物してきたから変えられへんけど」
「ちゃうわ」
人の頭の上に顎を乗せて喋るので、軽く背伸びをしてやると頭上から「うぇ」と声がした。
濡れた手をタオルで拭っていると、いよいよ腰にするりと腕が回されて、身動きが取れなくなる。
「なー、名前こっち向いて」
「いや、向かせる気ないやろ」
かろうじて自由の利く首だけ振り返ると、ちゅ、と触れるだけのキスをされる。驚いて思わず前のめりになると、その勢いで簓の腕から解放された。すると簓は一瞬寂しそうな顔をしつつ、またいつものニヤケ面を晒して、今度は隣に並んで立ち、こちらの顔を覗き込んでくる。
「顔見て言えって言うたん自分やからな」
何を、と言おうとしてハッとした。昨日の置き手紙のことだ、と気づき心の準備をする前に簓の薄い唇が再び開かれようとしているのが目に入って、逃げ出したくなる。細長い指が私の髪を掻き分け頬に触れた。わずかに力を込め上を向かせられると、既に真っ赤な私とは対照的に平然とした簓と視線が交わり動けなくなる。
「愛してるで」
昨日、文字で見るだけでも心臓が飛び出しそうだったあの言葉を、目の前で、簓の声で紡がれて、今度こそ心臓が止まってしまうかと思った。「ひぃ」と情けない声を上げて顔を逸らそうとすると、逃がすまいともう片方の手も私の頬を捕らえる。
「返事は?」
「わ、私も」
手紙に書いたままの返事をすると、簓は「私も、なに?」と追い打ちをかけてくる。手紙ではあんなに可愛かったのに、実物は全然可愛くない。蚊の鳴くような声でなんとか「あ……あいしてる」と紡いでみても、
「え?聞こえへんわぁ」
「っの、アホ!もうご飯するから離せ!」
ぐいと手首を掴んで引っ張ってみても、その細っこい見た目の割にびくともしない。
しかし先程のが本当に聞こえていないはずもなく、今回は満足したのか簓はニコニコしながら手を離し私を解放した。
「……ていうか、昨日の手紙どないしたん」
置いとこうと思ったのに、と呟くと、簓は一瞬きょとんとしたあとポケットに手を突っ込み、
「あるけど」
「ちょうだい」
「嫌や」
「なんで!」
不意打ちで奪いにかかるも、簓はひょいとその手を頭のはるか上に上げてしまう。そんなことをされてしまったら私にはもう手も足も出ない。
「名前の貴重なデレやから」
「簓のほうが恥っずかしいこと書いてるやん」
「じゃあ恥ずかしいから渡されへん」
「じゃあて何やねん」
こうなると簓は梃子でも動かないんだよなあ、と手紙のことはほぼ諦めてしまった。捨てたんじゃないならいいか、とも思う。あぁ、でも、写真くらい撮っとけばよかったかなぁ、なんて馬鹿なことを考えていると、簓はじいと自分の手元を見つめて、
「手紙もええけど、やっぱり顔見て声聞くんが一番ええなぁ」
「せやなぁ」
そう言って微笑みあうと、簓は「やっぱこれやるわ」と言って四つ折りになった昨日の手紙を手渡してきた。慌てて両手で受け取るも、突然の心変わりにお礼を言うことも忘れ、
「ええの?」
「俺はやっぱ実物がええわ」
そんなことを言いながら抱き締められたら、なんだかこんな紙切れにこだわっていた私が馬鹿みたいじゃないか。かといって手放す気もないのだけれど。
「……まあ、そりゃどっちかって言われたら実物やけど。両方貰えるんやったら両方貰うわ」
腕の中でそう答えると、簓は「セコ!」と声を上げた。
セコくて結構、この時代に好きな人からの手書きのラブレターなんてそうそう手に入るものじゃないのだから。
簓の肩越しに手紙を眺めてニコニコする私を見て、簓もまた嬉しそうに笑っていた。
Fin.