一本おばけと大魔神

我ながら、違和感を覚えるポイントはそこなのかとツッコみたいところなのだが、覚えてしまったものは仕方がない。

「簓、今日はおかえりのチューいらんの」

問いかけると、簓は一瞬ぎょっとしたような顔で振り返った。
……そう、あの簓が何事もなく「ただいまぁ」とだけ言ってリビングへ向かうなんてまずありえないのだ。

「え、名前どないしたん?えらい積極的やなぁ」

語尾にハートマークの幻でも見えそうな猫撫で声で簓は言うが、それすらも何かがおかしい。だって、そんなことを言いながらも、手を出す様子は一切ないのだ。
……なんだか私が欲求不満のようなモノローグになってしまっているが、けしてそういうわけではなく、ただいつもの簓なら帰宅するなり私に「おかえり」を言わせる間もなく「ただいまのチュー!」と飛びついてきて、長ったらしいキスをしなければ、まず玄関を上がることすらしないので、今日のように何事もなく私の横を通り過ぎてリビングへ抜けていくなんて――

「……何?何かやましいことでもあるん?」

「えっ!?なんでそんな話になるん!?」

先程隣を通り過ぎた簓からは煙草の匂いがした。楽屋とか打ち上げとか、人との付き合いでその匂いを付けてくることは多々あるが、今日はいつもより強い気がする。

「簓、今日はいつにも増して煙草の匂いキツいなぁ?」

「あー、楽屋で隣に座ってた先輩がな、めちゃくちゃヘビースモーカーやってん」

「ふーん……」

簓はごく自然に、流れるように答えた。その返答だけを見れば信じてしまったかもしれないが、私の鼻はごまかせない。昔、喫煙者の多い職場にいたものだから、それが他人の煙を浴びただけのものなのか自分で吸ったものなのかくらいはなんとなく分かってしまう。

「簓」

甘えるような声音で呼び近寄ると、簓は少し照れたような顔をして「ホ、ホンマにどないしたん?」なんて言いながら一歩だけ後ずさる。

(……何を期待してはるんか知らんけど)

帰宅するなり緩められたのであろうネクタイを掴みぐいと引くと、いつもは頭ひとつ分離れている簓の顔が目の前にまで下りてくる。空いているほうの手をその頬に添えると「んぇ?」と頭の悪そうな声が漏れてきた。
それを無視して、その薄い唇に吸いつく。驚きのためか簓は一瞬身を固くしたが、すぐこちらへ応えるように力を抜いた。

「な、なに……ん、っ……」

簓が戸惑う声を漏らした隙に、わずかに生じた隙間に舌を捩じ込むと、懐かしい味がした。簓がまだ禁煙なんて微塵も考えていなかった頃のキスの味。
ぷは、と唇を離すと今度は簓のほうが私の後頭部に手を回して、再び顔を近付けてくる。唇が重なる前に、間にスッと掌を差し込むと簓はいかにも不満そうな顔をした。

「……誘ってんちゃうんかい」

「ちゃうわ、アホ。自分、煙草吸うてきたやろ」

「ギクゥ」

「口で言うな」

私が指摘すると、簓はそーっと手を離し、逃げるように回れ右をした。その襟首を掴み、リビングのソファに連行する。

「ちゃうねんて、先輩がヘビースモーカーやったんはホンマでな、一本どうやって言うから仕方なく」

「何が仕方なくや、そんなん簓やったら角立てんとえぇ感じに躱せるやろ!」

「えっ、めっちゃ褒められてる」

「褒めてへんわっ!」

腰を下ろすなりペラペラと喋りだす簓の頭を思わず引っ叩くと、「いた」とまるで痛くなさそうな反応が返ってくる。

「何?それ確かめるためだけにあんなことしたん!?名前チャンのえっち!」

「普通に訊いたかて絶対答えへんやろ!」

「答えへんよ!せっかくただいまのチューすんの我慢したのに無駄になるやん」

……あまりにも頭の悪い返答に溜息しか出ない。コイツの頭の中にはスケベなことしか入ってないのか。

「あんなぁ……あんだけ頑張って禁煙したんやから、ぶり返すようなことしなや」

そう言うと簓は、一番苦しかったあの頃を思い出したのか、う……と言葉を詰まらせる。反省までしているかは分からないが、とりあえず後悔はしているようで少し安心した。

「言うとくけど、あの頃しんどかったん自分だけやないねんで」

「……え?なんで?」

「なんで?やないねん、口寂しいー言うて飴ちゃんだけじゃ飽き足らず、毎日ちゅっちゅちゅっちゅ……」

そしてこのドスケベ大魔神がキスだけで満足するわけもなく、ずるずると流されたのは一度や二度ではなかった。さすがにそこまで口にするのは憚られたので無言で圧を掛けるも、簓はそんなことは物ともせずヘラッと笑って、

「いやぁ、おかげさまで禁煙できましたわぁ」

「ニヤニヤすな」

「それ(おも)たら、ちょっとくらいぶり返してもえぇなぁ」

「ハァ?もう付き合わんわ」

「えぇー?」

相変わらずのその様子に溜息が止まらない。一週間分くらい使い果たした気がする。
ふと顔を上げると、簓はローテーブルの上、小皿に盛られた飴玉に手を伸ばしていて「……まさかホンマにぶり返してるんちゃうやろな」とこわごわと問うと、アホみたいにニヘェと笑って「どないでしょー」なんて答えていた。

Fin.

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