俺にチャンスをくれへんか

彼が東京に行くと言い出したとき、私は今の会社に就職したばっかりで、とてもじゃないけど、付いていくなんて選択肢はなかった。だからと言って遠距離恋愛をする勇気もなく、私はお別れを選んだ。学生時代からずっと一緒で、これからもそうだと思っていたのに、誰よりも好きだったのに、最後は存外あっけなかった。
そんなことを思い出したのは、点けっぱなしのテレビで不意に始まったバラエティ番組のせいで。

『今回のゲストは、最近人気急上昇中のピン芸人!白膠木簓さんです!』

数年ぶりに見た彼は、テレビの画面の向こう。割れんばかりの拍手と黄色い歓声を受けて、セットの扉の奥から満面の笑みで現れた。元気そうやな、とか、結局またオオサカにおるんか、とか、思うところはたくさんあったけど、画面越しに見る彼はなんだか知らない人のようで、一度はざわめいた心も、すっと静かになってしまう。

「……もう何年も会ってないし、他人みたいなもんか」

誰もいない部屋でぽつりと呟いて、チャンネルを変えた。

* * *


やっと忘れられてきたのにな、と思う。
結局彼と別れてから、私は新たに恋をすることもなく、心の片隅に彼の面影を抱きながら、ずっとひとりだった。時折好意を寄せてくれる人が現れても、どうしてもその気になれなくて、のらりくらりと躱してきた。それでも時間は皆平等に過ぎていくもので、さすがの私も焦りを覚える歳になり、早く彼のことを忘れて、婚活とやらを始めるべきなのだろうか、なんて考えはじめたころだった。
今や、テレビで彼の姿を見ない日はない。チャンネルを変えたら、CMで現れる。毎日そんな調子だった。

さすがに朝の情報番組にレギュラーでもないお笑い芸人の需要は少ないようで、出勤前のそれだけが私が心安らかに見られる番組だった。
それなのに、ある平日の朝、彼はまた私の生活を侵食する。

『白膠木簓が、あの女子アナと……』

突然耳に入ってきたその名前に、化粧をする手を止めて顔を上げる。彼と人気女子アナの密会報道だった。楽しくやっていらっしゃるようで、なんて、今の私にそんなことを言う権利はないのだけど。
その日は一日、仕事ではミスを連発するわ、帰り道で定期を落とすわ、夕飯の材料をふたつもみっつも買い忘れるわで、朝から晩まで散々だった。しかし極めつけは、寝る前に見ていたネットニュースで。
今朝、大騒ぎされていた彼がまた記事になっていた。なんでも今朝の報道についてSNSでコメントしたらしく、別に読む気はなかったのだが、概要が一緒に表示されていたせいで、つい目に入ってしまった。曰く、件の女子アナとの交際を否定したうえで、彼は、

『今、本気で好きな人おるんで、そういうのやめてください』

と言ってのけたらしい。何だそれ。熱愛報道には熱愛報道で対抗か。しかし実際、相手は誰だ、という話題で持ち切りだった。アイドルやモデルじゃあるまいし、たかがお笑い芸人の恋愛事情にここまで躍起にならずとも。

「……そんなん知りたないし」

なんとなしに呟いた、その理由は分かりきっている。私は未だに、簓のことが好きだ。
ほとんど他人と化してしまった、画面の向こうの売れっ子芸人にこんな感情を抱いていたって、幸せになんてなれないのに。

* * *


どこかにずっとモヤモヤを抱えたまま数日。定時を少し過ぎたころ、会社のロビーを抜けて外に出た途端、がしっと誰かに後ろから腕を掴まれた。思わず悲鳴を上げそうになると「待って!」とどこか聞き覚えのある声がする。振り返ると、そこにはキャップを深々と被り、パーカーのファスナーを顎のすぐ下まで閉じた、いかにも怪しい男がいて。しかし、そのキャップの下にわずかに覗く若緑の髪に私はハッと息を呑んだ。

「さ、さら……?」

震える声で呟くと、彼はわずかにキャップのバイザーを持ち上げて苦笑する。

「驚かせてすまんな」

なんで、なんで。
ようやく忘れられそうだったのに、公共の電波に乗ってまで私の前に現れたかと思ったら、今度は実物?私が何も言えず固まっていると、簓は困り顔をするのだが、そんな顔をしたいのはこっちのほうだ。

「今から時間あるか?ちょっとだけ話できひん?」

わけが分からないまま小さく頷くと、簓は掴んでいた腕を離し、そのままするりと手を握る。この感触、何年ぶりだろう。一瞬ときめいてしまったが、先日の一連の騒動を思い出して胸が痛んだ。すぐこういうことをするから、あることないこと書かれるんだろう。私はもう、知ったこっちゃないけど。
手を引かれるがまま互いに無言で歩いていると、近くの喫茶店へ連れていかれた。コーヒーでええか、と訊かれたので、また頷く。ふたり分のホットコーヒーを頼む簓をじいと見ていると、もしかして自分に都合のいい夢を見ているのではないかとか、そういう気持ちになってしまう。だけどテーブルの下で軽くつねってみた手の甲は痛くて、その痛みが、これが現実だと伝えてくる。

「まだあそこで働いてくれててよかったわ。俺、名前の今の連絡先も分からへんから」

私のほうを向いて、ふうと一息吐いてから、簓は言った。そういえば、携帯を変えたときにそのままにしてしまったかもしれない。別に簓のことが嫌いになったとか、忘れたかったからとかじゃなくて、私から別れを切り出した手前、今更どんなふうに連絡をすればいいのか分からなかっただけなのに。簓はひどく傷ついたような顔をするので、ずきんと胸に鋭い痛みが走る。それから目を逸らしたくて、私は全然違う話題を投げかけた。

「オオサカ、戻ってきたんやね」

「ん、ちょっと前にな」

「最近、いっつもテレビ出てるな」

こんな売れてよかったなぁ、って言いたかったのに、言葉にならなかった。ふと顔を上げると、簓がすごく辛そうな表情をしていたから。

「こないだの……見た?」

それが何を指すのかは明々白々だった。私はまた小さく頷いたが、そんなに言いにくいなら言わなきゃいいのに。

「ただの芸人やのに、大変やね」

「いやっ、そうやなくて……」

その話を、何故私にするのだろうか。もう恋人ではないどころか、知り合いと言えるかすら怪しくなってしまった私に。わざわざいるかも分からない勤め先で待ち伏せしてまで。

「あの記事が出るって聞いたとき、事務所より、マネージャーより、名前に見られたないって思った」

「……なんで?」

突然出てきた自分の名前に、心臓が跳ねる。それを誤魔化すように、コーヒーを一口啜った。

「こっち帰ってきてから、ずっと名前に会いたくて、でも連絡先も分からへんのにどないしよって、思ってた矢先やったから」

あれはホンマにただの誤解なんやけど、って、まるでまだ私たちが付き合っているみたいに簓が弁解するから、勘違いしそうになる。なんでなん、なんでまた引っ掻き回すん、そんなイライラやモヤモヤで頭がいっぱいになる。
だって、そんなの、だったら、そのあと言ってた『本気で好きな人』って、

「俺、まだ名前のこと好きや」

いつも堂々と漫才をしているのが嘘みたいに、震える声で絞り出すように簓は言った。

「名前はもう俺のことなんかとっくに忘れてるやろうけど、俺は向こう行ってもずっと忘れられへんかった」

今度こそ本当に夢なんじゃないかと思って、私が何も言えずにいると、そんなことは気にせず簓は続ける。

「もう離れたりせえへんから、もう一回、俺にチャンスをくれへんか」

「何……言うて」

俯く私の視界には、テーブルの木目とふたつ並んだコーヒーカップしか映らない。すると簓に名前を呼ばれて、おそるおそる顔を上げると、簓は真剣な表情でこちらを見ていて、

「名前じゃないとアカンねん」

今になって、ぶわっと顔に熱が集まる。それから鼻がツンとして、自分が泣きそうなことに気付いた。

「……そんなん」

気付いてしまったら、もうだめだ。両目からぽろぽろと涙が零れ落ちて、簓はそれを見てぎょっとしている。慌てふためく簓を掌で制しつつ、鞄からハンカチを取り出して、私は続ける。

「そんなん、私のほうが簓のこと忘れられへんくて、ようやく忘れられそうやと思ったら毎日のようにテレビ出てきて、ホンマに何なん」

真っ白いハンカチに、マスカラの黒が移る。子供みたいに泣きじゃくりながら紡ぐ私の言葉は、中身も日本語もぐちゃぐちゃだ。

「私からサヨナラしたのに、まだ好きなんて、こんなんもう誰にも言うつもりなかったのに」

きっと既にぐしゃぐしゃになっているであろう顔を、ハンカチで更にぐしゃぐしゃにしていると、簓はそれを止めるように私の手の甲に自分の掌を重ねた。

「ホンマに?」

そう言って私の顔を覗き込む簓は、困ったように眉を下げながらも、どこか嬉しそうなのが隠しきれていなくて、

「どないしてくれるん……っ」

半ば八つ当たりのように吐き出したそれに、簓はとうとう堪えきれず、ニィと口角を上げてしまう。

「責任取る、この数年分もまとめて、甘やかして、笑わして、愛して、幸せにしたるから」

せやから、俺と、もっかい、と続いた簓の言葉は途切れて消えてしまった。私がパーカーの首元を引っ掴んで、その唇を塞いでしまったからだ。

「もう二度と逃がしたれへんけど、いいん?」

そう言った私の顔は、きっとそれは酷いものだっただろうに、簓は「望むところや」と満面の笑みを浮かべた。

Fin.

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