「名前のそういうとこ嫌い」
喧嘩のきっかけは何だっただろうか。もう覚えていない。ただ、俺が思わず勢いで言ってしまったその言葉に、名前は一瞬目を丸くしたあと、サーッと青ざめて寝室へ駆け込んでしまった。そんな名前のリアクションを見て俺もようやく、(俺、いま何言うた……?)と考え込み、ハッとする。慌てて名前を追うも、座り込んででもいるのか、扉はびくともしなかった。
「名前っ、ごめん、言い過ぎたわ」
扉をノックしても、声を張っても、返事はない。
……あぁ、もう最悪や。よりによって嫌いはないやろ。
何か不満があっても、名前は俺にいつも優しく注意してくれるのに。いや、俺かて普段はこんな言い方せえへんけど……。
「名前、」
名前を呼んだのとほぼ同じタイミングで、扉の向こうでカタンと物音がしたので、おそるおそるドアノブを回してみると、今度はいとも簡単に扉が開いた。部屋の中を覗き込むと、すぐそばに名前がいて、真っ赤な目で俺を睨めつける。この一瞬でそんなになるほどショックだったのかと思うと、俺のほうがぎゅっと胸が痛くなる。そんな権利もないのに。
「ごめんな」
今すぐ抱き締めたいけれども、名前の責めるような視線に堪えかね、行き場をなくした両手が宙をさまよう。すると突然、名前のほうからその腕の中に飛び込んできたものだから、思わず「おわっ」と声を上げる。俯いた頭をぎゅっと俺の胸に押し付けてくるので、その表情を窺うことはできない。
しかし、ひとまず抱き締める許可は下りたようなので、そっと背中に腕を回した。
「……て言うて、」
「ん?」
くぐもった声はよく聞こえず、首を傾げて問い返すと、名前は少しの沈黙のあと、俯いたまま呟いた。
「好きって言うてくれたら、許す」
相変わらず蚊の鳴くような声だったが、今度はちゃんと耳に届いた。その言葉が聞こえるや否や、俺は背中に回した腕にぎゅうと力を込め、頼りない身体を掻き抱く。
「好きやで、ホンマに嫌いなわけないやん」
「……ホンマに?」
「売り言葉に買い言葉っちゅうか……子供みたいなことしてもうたな」
今日何度目か分からない「ごめんな」を口にすると「もうええよ」と返ってくる。
「私も言い過ぎた、ごめん」
ようやく上げられた顔はまた今にも泣き出しそうで、考えるより先に再び「好き」と口が動いていた。
「好き、大好き」
さっきの「嫌い」を上書きしたくて何度も何度も繰り返すと、もうとっくに涙なんて引っ込んで、真っ赤な顔をした名前が「もういいってば……」と声を震わせた。
なんで喧嘩してたか忘れてしもた、と呟くと、名前も笑って頷いた。
Fin.