私が控え室の扉を開けるなり、簓の劈くような叫び声が廊下にまで響き渡った。
「うっ……るさ!何や急に!」
「アーッ、どないしよー!」
簓は文字通り頭を抱えてそう繰り返すばかりで話にならないので、盧笙さんを窺うと、ほとほと呆れたという顔で簓を見、そして私のほうを見てどこか哀れむような、そんな視線を向けてきた。
「……どないしたんですか。まさか簓が緊張でこんなんなるわけないし」
今日はどついたれ本舗の初お披露目が為されるライブのリハーサルの日だった。
ちなみに私はまるで無関係だが、簓の「関係者として入れるように手配しとくわ!」という一言で、マネージャーのような雑用係のような、よく分からない立場でここにいる。どついたれ本舗の出番は本当に一瞬なので、特に仕事なんてない。
「気にせんでえぇですよ。しょうもないことなんで」
「しょうもなくないわッ!」
盧笙さんに訊ねると、その返答に簓が噛みついてきた。しかし一向に話が見えない。
「簓、どないしたん?何かあったん?」
「名前のせいやん……」
「は?私?」
備え付けのパイプ椅子に座ったまま上半身だけ振り返った簓に近づき声を掛けると、簓は私の腰に抱きつき、顔を擦り寄せながら弱々しい声で言った。たった今来たばかりなのに私のせいとは何事か。
「いや、全然名前さんのせいやないんで大丈夫です」
「もーッ、盧笙は黙っとれ!」
「いや、あの、何なん……?」
見下ろすと、上目遣いの簓と目があった。いつもと立場が逆で変な感じだ。
「やっぱり連れて来んほうがよかった……いや、でも出番少なすぎて暇やし……」
再び私のお腹の辺りに顔を埋めブツブツと言い出す簓に呆れ果て、視線で盧笙さんに助けを求める。盧笙さんはハァと盛大な溜息を吐いてから答えた。
「そのアホ、他のディビジョンの皆さんとこに、名前さん連れて挨拶に行くかでずーっと悩んどるんです」
「……は?」
答えは返ってきたものの、意味が分からなくてポカンとしてしまう。すると簓はガバッと顔を上げて、
「名前可愛ぇから!他のチームのやつらに見せたないねん!でも名前がひとりのときに絡まれたら嫌やし、それなら最初から俺のやって紹介しといたほうがえぇんかなとも思うし、でも会わせたない……」
「……自分、何言うてるん?」
「何やねん、その目!俺は本気で悩んでるっちゅーのに!」
「いや、ちょっと、思ってたんと違いすぎて」
ライブのことか、あるいはディビジョンバトルのことか、はたまた仕事のことか、とにかくもっと重大な悩みかと思ったのに、この男は何と言った?
「関係者として来てる以上、私も挨拶行くんが筋ちゃうの?他の皆さんがどないしてるんか知らんけど」
「真面目か」
「これからお付き合いしていくんやから、挨拶は大事やろ」
「お付き合いて、一応敵やん」
「敵でも、今回は一緒にライブする仲間やろ?」
「別に、俺ら一瞬しか出えへんし……」
「もー……そんなウジウジしてんの簓らしくないで?」
そう言うと簓はピタッと黙り込んでしまう。あの簓が三秒以上黙った……と思い少し焦って「簓?」と声を掛けると「こんな簓サン嫌……?」と蚊の鳴くような声で言った。
「い、嫌とは言うてないけど」
いつだって自信に満ち溢れている簓が、しゅんと眉を下げて訊ねてくる。そのギャップにわずかに胸が高鳴ってしまって、思わず目を逸らした。すると簓は、
「なんで目ぇ逸らすん!やっぱ嫌なんやん!」
「ごめん、ちゃうねん、それはホンマにちゃうから!」
「やっぱ挨拶行かん、名前とずっとここにおるし、名前も控え室から一歩も出さん」
「簓ー!ちゃうってー!」
腰に巻き付いた腕の力が強くなる。そっぽを向く頭をしつこく撫でていると、背後でドアの開く音がした。
「お、名前チャン来てたのか」
「あ、天谷奴さん!お疲れ様です」
姿の見えなかった天谷奴さんが控え室へ戻ってきたところだった。天谷奴さんは私にしがみついている簓を気にも留めず、空いていたパイプ椅子に腰を下ろす。
「全員揃ったし挨拶回りにでも行くか、リーダー?」
先程までの会話など知りもしない天谷奴さんがそう言うと、簓は「ふたりで行ってきて」などと返す。
「簓!リーダーやねんから挨拶くらいしておいで!」
本当は私もちゃんと挨拶に行きたいのだが、そう言うと簓は梃子でも動かなさそうだったので、仕方なく「私はここで待ってるから」と付け足すと、簓はしばらく唸っていた。
さすがに様子のおかしい簓に天谷奴さんも「何だ?」と声を上げ、盧笙さんが一部始終を説明すると、アッハッハと豪快に笑い出した。
「簓ぁ、んなもん、俺の女だから手ェ出すなよって見せつけてやりゃいいじゃねぇか」
「ちょ、天谷奴さん……?」
これをアドバイスと呼んでいいのかは分からないが、天谷奴さんの言葉に簓は「そうかー」とわずかに理解を示す。いや、そうかーじゃない。
「で、どないするんや?行くならそろそろ行かな、ギリギリやと邪魔になるやろ」
盧笙さんがそう言うと、簓は「よし!」と言って私から手を離し、机に置いてあった扇子を引っ掴み唐突に立ち上がる。
「行くか!んで名前のこと思いっきり自慢したろ」
「……いや、逆に行きたなくなってきたわ」
「なんでやねん!?」
今度は私が頭を抱える番だったが、簓はもう腹を括ったらしく、先程までの様子が嘘のように私の袖を引き急かす。
「そんなことせんでも、別に他の男の人になんか興味ないから、変なこと言わんといてや」
「名前は興味なくても、向こうがどう思うかは分からんやろ!」
「ディビジョンバトルに出とった人ら、みんなカッコえぇから私になんか何も思わんて」
「カッコえぇ!?今カッコえぇ言うた!?」
「そういう意味やなくて!」
しまった、完全に言葉の選択を間違えた。簓は再び喚き出したかと思うと、唐突に私のシャツの胸倉を掴む。背後で盧笙さんが「おい、簓」と声を上げたのが聞こえた。
「ちょっと、何して、」
彼女相手にそんなガチの喧嘩するやつがあるか、と思い止めようとすると、突然胸元が涼しくなる。見下ろすと、簓がボタンを二、三個開けたところだった。何してるんやコイツ、とわずかにフリーズした瞬間、視界いっぱいに広がる鮮やかな緑。
「いた」
ちく、と首筋に鈍い痛みが走り、ようやく何をされたのか理解した。
「んっ……、これでよし」
「何がよしや、このアホッ!」
それを数回繰り返してようやく離れた簓の頭を平手で思いっきり殴る。しかし簓は特に怒りもせずフフンと笑うだけだった。壁に備え付けられた鏡を見ると、首筋、しかもシャツでは隠しきれない絶妙な位置に複数残された赤い痕。
「よっしゃ、盧笙、零、行くでー」
呆れて言葉が出ない私の手を無理やり引っ張って、簓は控え室を後にする。
遅れて出てきた盧笙さんは顔が死んでいるし、天谷奴さんはサングラスの奥で笑いを堪えきれていないのが丸分かりだし、もう、なんというか、
(……大丈夫なんか、どついたれ本舗)
Fin.