ふんわりと甘い匂いが鼻をかすめて、ゆるゆると脳が覚醒を始める。広いベッドの隣は空っぽで、今日は休みだと言っていたはずなのに、と思いながらスマホに手を伸ばした。ボタンを押す前に、ガチャと音がしてドアが開く。私のエプロンを勝手に身に着けた簓が近付いてきたかと思うと、ベッドを素通りして勢いよくカーテンを開けた。東向きの寝室の朝日は眩しく、せっかく持ち上がったまぶたも再びぴしゃりと閉じられてしまう。
「名前、おはよーさん」
スマホを握っているので、一度目覚めていることはバレているのだろう。枕元に手でもついたのか、少しだけマットが沈み込んだ感じがしたあと、簓の声が耳に届いた。しかし目を閉じてしまったせいで再び睡魔に襲われはじめた私は、わずかに呻き声を発するので精一杯だった。
「ちょ、起きて、俺せっかく休みやのに」
ゆさゆさと優しく肩を揺さぶられるが、起きろと言われれば起きたくなくなるのが人間の性で。しかも今日は日曜日なのだ。これだけ日が差し込むということは、まだ相当早い時間だろうに、すっと起きてやれるほど私はできた人間じゃない。
「しゃーないなぁ、王子様のちゅーで起こしたるわ」
「誰が王子様やねん……」
「お、起きた」
す、と頬をなぞる掌の感触と、ツッコまねばという使命感で目が覚める。重いまぶたを持ち上げると、もう数センチで唇が奪われる距離だった。ヘラヘラと笑う顔を押しのけて身体を起こし、改めてスマホを確認すると、まだ朝の七時半。
「はや……」
「なぁ、今日休みやねんて、どっか行こうや」
ボサボサなのであろう私の髪を手櫛でせっせと撫でつけながら簓は言う。寝起きでなかなか動き出す気になれずベッドの上でぐずる私に「やっぱりちゅーいる?」なんて軽口を叩き、相変わらずのニヤケ面でこちらを覗き込むので、エプロンの肩紐を引っ掴んでそのうるさい唇を塞いでやった。
「……あま」
「あ、フレンチトースト、ちょっと味見したから……やなくて、え?」
私のほうからキスをした、という事実にようやく気づいたのか簓はカッと頬を染めて、しかし喜びを抑えきれないのかじわじわと顔を綻ばせて、なんとも情けない表情で私を見つめた。
そんな簓はほったらかして、ベッドを降りて歩き出すと、少し遅れて簓も後ろからバタバタとついてくる。
「なに今の、アカンて、あんなん」
「ちょっと、顔洗いに行くんやから向こう行っとって」
背後から肩に手を掛け離れない簓を注意しようと振り返ると、今度は簓のほうからちゅ、と口づけを落としてきた。恥ずかしさを感じる余裕もなく驚きで目が点になる私に、簓はしてやったりとばかりに口角を上げ「やられっぱなしは性に合わんわ」と言い残してリビングへ消えていった。
「……もう」
じわじわと熱が集まる唇にそっと触れてから、私は洗面所へ向かった。
* * *
「すご……」
見慣れているはずの食卓の、まるで見慣れないその様子に、私は思わず驚嘆の声を漏らした。先程言っていたフレンチトーストに、具だくさんのスープにサラダ。コイツは一体何時に起きたんだ。
相変わらず私のエプロンを身に着けたまま、簓はマグカップを片手にニコニコとこちらへ歩いてくる。
「……ありがと」
すごいやろ、褒めたって、って顔に書いてあるものだから、素直にお礼を言った。
「
早よ食べてどっか行こ!」
「自分そればっかりやな」
日曜日の小学生みたい、なんて考えつつ腰を下ろす。簓も向かいの椅子に腰掛けると、食卓に用意してあったナイフでフレンチトーストを切り分けはじめた。その様子をなんとなしに眺めながらコーヒーを啜っていると、簓は一口大に切り終えたそれにフォークを突き刺し、当然のように私に差し出してくる。
「はい、あーんして」
「いや、なんで?」
もちろん素直に口を開くわけもなく、呆れて簓の顔を見ると、相変わらず楽しそうに微笑んでいる。意味が分からない。
「頑張ったんやからご褒美ちょーだい」
「これがご褒美?」
むしろ私へのご褒美になるのでは、と思いながらも、そう言われてしまってはむやみに断るわけにもいかず、渋々口を開いた。ゆっくりと口内に運ばれてきたフォークの先がちょんと舌に触れたのを合図に、ぱくと食いつく。再びゆっくりとフォークが抜き取られるのを待って咀嚼すると、卵と砂糖の甘みがふんわりと広がって、その甘さに、つい先程のキスを思い出す。
「んまい?」
改めて思い出すと少し恥ずかしくなって、無言でもぐもぐと口を動かす私に、自分も一口頬張ってから簓は訊ねる。
「ん、美味しい」
「よかった、何も言わんからまずいんか思ったわ」
フォークを手に取り、二切れ目を口に運ぶ。簓が早起きして作ってくれたご飯がまずいわけがない、なんて思う私もたいがいアホなのかもしれない。
「どっか行こって、行きたいとこでもあるん?」
口内が空になったタイミングで訊ねると、簓もしばらく口をもぐもぐさせ、ごくんと喉を鳴らしたあと、
「別に?せっかく休み
合うたのに、ずっと家おったらもったいないやん」
私はおうちデートも悪くないと思うのだが。簓はじっとしてられないタイプというか、好奇心旺盛だなあとは常々思う。まあ、今日は天気もよさそうだし外へ出るのもいいな。
「あ、名前がこないだ言うてたカフェ行こうや」
「カフェ?あぁ、先輩が連れてってくれた……」
「クリームソーダがめっちゃあるって言うてたとこ」
……私は紅茶が美味しかったという話をしたはずなんだが。いや、でも確かにクリームソーダの種類は豊富で、それもチラッと言った気もする。さすが、自分の興味のあることはよく覚えているものだ。
そうと決まれば、と簓はあっという間に朝食を胃に収めていく。毎日忙しい売れっ子芸人は、早食いなんてお手の物だ。私はせっかく簓が作ってくれたご飯だしゆっくり味わって食べたいのだが、このあとも化粧やら何やらで待たせてしまうことは目に見えているので、少しスピードを上げる。すると簓はやっぱり「急がんでええよ?」なんて言ってくれるんだけれども、それなら自分もゆっくり食べればいいのに、と思わなくもない。
先に完食した簓にニコニコと見守られながら私もようやく食べ終えると、簓はてきぱきと食器をまとめ「片付けとくから準備しとってええよ」と言う。
「ごめんな、何から何まで」
「そういうときは、ごめんやなくてありがとうって言われたほうが嬉しいで」
「せやね、ありがと」
お言葉に甘えて先に身支度を始める。台所でカチャカチャと簓が食器を洗っている音をBGMに、せっせと化粧をしていると、いつの間にか片付けを終わらせた簓が洗面所からヘアアイロンを持ってきてコンセントに繋いでいるのが鏡越しに目に入った。本当によく気がつくけど、プレッシャーもすごい。簓は急かす気なんてさらさらないというのは分かっているのだけど。
まだ化粧も終わらないうちに、自分の着替えを済ませたらしい簓が戻ってきてヘアアイロンに手を伸ばす。
「あ、ごめん、それまだやねん」
「うん、分かってるで?」
「……ん?」
不思議な返答に一瞬固まって、再び鏡越しに簓を見ると、左手にアイロンを持ち、もう片方の手は私の髪をさらと掬ったところだった。
「え、」
「気にせんと化粧しとってええよー」
「いや、え?できるん?」
「自信なかったら大事な名前の髪の毛
触れるわけないやん」
言いながら、簓は掴んだ一房の髪を器用にくるくると巻いていく。ぽかんと見入っていると、手ぇ動かし、と小突かれた。
「そんなんどこで覚えてくるん……」
「名前がやってるの見て覚えたんと、こないだメイクさんにもちょっと教えてもろたで」
見ただけでそんな綺麗に仕上げられたら、私のこの数年の努力と経験は何やったん、と思ってしまう。しかし、これで名前とのデートの時間ちょっとでも
長なるやろ、なんて言われたら何も言い返せない。
私が必死でまつげを起こしている間にも、背後では一房、また一房と髪が綺麗にカールされていく。
「ホンマに器用やなぁ」
ぽつりと溢すと、鏡の中で簓と目が合った。
「失敗してやり直したら、そのぶん傷んでまうやろ」
いつも失敗しまくっている私にそれを言うのか。恨みがましい視線を送ると、簓は「えっ、何」と少し焦ったような顔をした。
「はい、あとは前髪だけな」
「あー、ありがとう……めっちゃありがたいけどめっちゃ複雑や……」
自分でやるのより何倍も綺麗に仕上がった髪を見ると一瞬テンションが上がったものの、またすぐ現実に戻ってしまった。さすがに簓も意味を理解しているのか「自分の頭やったら難しいって」とフォローを入れてくれる。
「……うん」
「それやったら毎日俺がやったろか」
「そんな暇ないやろ」
呆れて苦笑すると、簓はカラカラと笑った。
そんなことをしている間に化粧も終わり、最後に自分で前髪を巻いて、机の上を片付ける。使おうと思っていた鞄と上着が椅子の上に置かれていて、本当に至れり尽くせりだな、と思った。それだけ、少しでも長い時間デートを楽しみたいのだろうけど。
「……簓、私のこと大好きやん」
玄関で靴紐を締めていた簓の背中に言うと、振り返って一瞬きょとんとしたあと、
「え、うん、好きやで?」
何言うてんの、と言わんばかりに、至極当然のように口にする。
それから、その服やったらこれやんな、とまさに私が思い浮かべていたパンプスを靴箱から取り出して並べた。
「簓とおったらええとこのお嬢様みたいな気分になるわ」
「え、何?俺名前の執事なん?」
クスクスと笑いながら呟くと、簓は不満そうで、少し意外だった。「いや?」と訊くと、小さく頷く。
「執事やったら付き合われへんやん」
「じゃあ何?」
「そら、名前がお姫様で俺が王子様やろ」
言いながら、簓はすっと手を差し出してくる。エスコートのつもりらしい。
「素面でようそんな恥ずかしいこと言えんなぁ」
「酔うてるほうがこんなカッコつけられへんわ」
「それカッコつけてたん?」
「え!?」
パンプスに足を突っ込みながら差し出された手を取り言うと、簓はぎょっとしたあと「ガーン」と口で言った。相変わらずのそれに呆れつつ、取ったばかりの手をぱっと離して、代わりにその腕に抱き着く。
「そんなことせんでもカッコええのに」
「え、ホンマに?」
照れくささから少し顔を背けて言うと、簓の声音がぱぁと明るくなって、あぁ、今めちゃくちゃ嬉しそうな顔してるんだろうなぁ、と思う。ちら、とその横顔を垣間見れば、やっぱり今に鼻歌でも歌いだしそうなほど幸せそうな顔をしていた。
「簓」
「ん?」
ドアノブに手を掛ける簓の袖をくいと引くと、簓はドアを開ける前にこちらを見やる。突然呼び止められ不思議そうなその顔を見つめ、「私も大好き」と囁けば、目覚めのときのそれとは比べ物にならないキスの雨が降ってきて、結局デートの時間
長なってないやん、と思った。
Fin.