あれは確か、そう、初めて冠番組を持たせてもらえることになって、忙しい日々が続いていたころだった。連日、朝早くから夜遅くまでスケジュールが詰まっていて、数週間ぶりにようやく名前と顔を合わせられる、久方ぶりのデートの日だった。
その日は朝からぽかぽかと暖かい日差しが降り注いでいて、本当にツイていると思っていたのだ。
「おはよ、久しぶりやね」
待ち合わせ場所に現れた名前は、妙に厚着だった。急に暖かくなったから対応できなかったのか。それならば、首元のもこもこしたマフラーを外せば幾分かマシだと思うのだが。
「ホンマにな、会いたかったわぁ」
人目も憚らず名前を抱き締めるも、何の抵抗もない。いつもなら「やめて、人前で!」なんて言って暴れるものだが、名前はどこかボーッとした様子で、微かに笑みを浮かべていた。名前もそれほど寂しかったということなのだろうか。そんな都合のいい解釈をして、俺もつい口元が緩む。
身体を離して「ほな行こか」と言いながら名前の手を取ると、ぽかぽかと温かい。というか熱い。まるで眠りに落ちる寸前の子供のようだった。名前は名前で、「簓、今日はなんか手ぇ冷たいな」と不思議そうな顔をしている。
「そんなわけないやろ?こんな暖かいのに……」
そう言って名前を見下ろすと、頭の中で何かがカチカチと噛み合うような、そんな感覚になった。熱い掌、不自然な厚着、わずかに濡れた瞳。よく見ると顔も妙に赤い。
「……ささら?」
相変わらずきょとんと俺を見上げているその顔を両手でガバッと掴むと、「ひっ」と小さな悲鳴を上げ、ぎゅっと目を瞑る。頬から首筋へ掌を滑らせると、くすぐったそうに身を捩った。
「あっつ!やっぱ熱あるやん!」
「……へ?」
俺がそう言ってもなおポカンとしている名前に背中を向けてしゃがみこむと、名前はクエスチョンマークを顔の周りにぽこぽこと浮かべる。
「帰るで!自分、思いっきり風邪引いてるやろ!」
ようやく状況を理解したのか、そして己の身体の不調を自覚してか、名前はフラフラと俺に歩み寄り、どさ、と一気に体重のほとんどを預けてきた。じわじわと背中に伝わる体温は、明らかに異常だった。その熱い身体を背負って歩き出すと、ハァ、と苦しげな呼吸が耳元で繰り返される。
「ったく、なんでこんな
熱なってんのに気付かへんねん」
ただ名前のことが心配でそうひとりごちたつもりだったのだが、怒られているとでも思ったのか、背後から名前が小さな声で「ごめん……」と呟くのが聞こえた。
「あー、怒ってるんとちゃうよ」
「なんかだるいなぁとは思っとってん……でも簓に会えるん久しぶりやったから……」
それだけ言うと名前はまた黙り込む。横目でちらりとその顔を盗み見ると、苦しそうに目を閉じていた。
そんなことを言われたら、俺はもう叱ることも文句を言うこともできないということを、分かって言っているのだろうか。だって、ほら、名前がこんなに苦しんでいるというのに、少し嬉しく思ってしまった。我ながら酷いやつだ。
「じゃあ、俺がずっと忙しくて会われへんかったせいやな」
ごめんな、と言うと名前はもそもそと俺の肩の後ろで動きだす。首を振っているのだと少し遅れて理解した。
「簓、せっかくの休みやったのに、せっかく来てくれたのに、こんなことさせてしもてごめんな」
「俺は名前の顔見れたらそれでええよ」
* * *
名前の家の近くで待ち合わせていてよかった。急ぎたい気持ちと、あんまり背中を揺らしてやりたくない気持ちでふらふらしながらも、俺はせっせと足を動かす。
久しぶりに訪れた名前の部屋は相変わらず整っていて、しかしその中でベッドの上に残された数枚の衣服や、開きっぱなしのアクセサリーケースは、ギリギリまで俺と会うための装いに悩んでいたことを表していて、胸がきゅっとなった。それに気付いたのか、名前が背後で「あ……」と声を上げる。こんなん、散らかってるうちに入らへんよ。
名前をベッドに下ろして、出しっぱなしだった服を空いていたハンガーに掛けてやる。このワンピースも可愛らしいのに、不採用だったのかと思うと残念だ。でもギリギリまで悩んでいたのなら、そのうち着てきてくれるだろうか。
「ありがと、簓。また今度ちゃんとデートしよな」
クローゼットに服を掛けて振り返ると、名前は苦笑いしながらそう言ってきた。
「うん……え?俺もう帰ると思われとる?」
「……え、帰るやろ」
「帰るわけないやろ?風邪っぴきの名前ほったらかして!」
心底不思議そうに目を丸くしている名前は、本気で俺がもう帰ると思い込んでいたようだ。
「ちゃんと飯食って薬飲んで寝な、治るもんも治らへんやろ?何か作ったるから寝とき」
「そ、そこまでしてもらわんでもええよ、外出れるくらいには元気やったんやし」
「どの口が言うとんねん!今日は一日休みやねんから、好きなことさせてもらうわ」
「好きなことって……」
熱のせいか、名前の口撃にもいつものキレがない。何か言おうとしつつも、すんと口を閉じてしまった。
「キッチン借りるで、その間に着替えとか済ませとき」
「……うん」
そう言って部屋を出ると、扉の向こうでガサガサと音がする。それを確認してから、廊下を歩き出した。
いつか自炊をすると言っていたのは本当だったようで、名前の家の冷蔵庫は俺の家のそれとは違って、きちんと食材が収められていた。炊飯器に残っていたご飯と、いくらかの野菜と卵を拝借して、無難に雑炊を作ってみる。しかし、野菜などは揃っているが、スポーツドリンクやゼリーなんかはひとつも入っていなかった。薬と一緒に買ってこないとなぁ、と考えながら手を動かしていると、部屋着に着替え化粧も落とした名前が近付いてきた。
「簓、料理できたんやね」
「……馬鹿にしてるん?」
「ううん、料理なんかしてる暇ないんやろなって思ってたから」
「今はなぁ。でも昔はやっとったで」
「お玉似合わへんな」
「うるさいなぁ、寝えへんなら座って待っとき」
クスクスと笑いながら名前は食卓へ向かっていった。元気そうで何よりだ。
「食うてる間に薬
買うてくるわ」
言いながら、片手鍋と取り皿をテーブルに並べてやると、名前は一瞬何か言いたそうな素振りを見せたが、すぐに「ありがとう」と言い直した。どうせまた遠慮する気だったんだろうが、俺がそう簡単に折れることはないと、ようやく理解したらしい。
「熱だけか?鼻と喉は?」
しゃがみこんで俯いた顔を覗き込み、額に手をやると、名前はいつかのように「ひぇ」と驚きと戸惑いの声を上げる。
「だ、だいじょうぶ、熱だけ」
「そか」
……付き合いたての高校生やないんやから、ちょっと触ったくらいでそんなあからさまに緊張せんでええやろ。
なんて、俺の考えを知ってか知らずか、名前はうぅと唸りながら、
「久しぶりやねんからちょっとは加減してや」
ドキドキする、風邪のせいかな、って、
「……行ってくるわ」
病人相手に手を出しそうになってしまった己の頭を冷やすため、俺は学生時代の体育祭か何かのように素早く回れ右をして、足早に家を出た。