溺れるふたり

『あ、名前さん?毎度毎度申し訳ないんですけど……』

簓が飲みに行くと言った日の夜、私はお酒を飲まない。お風呂にも入らず、食事を済ませ家事を片付け、ボーッとテレビなど見ながら時間を潰す。すると日付が変わる頃、盧笙さんから電話が掛かってくるので、上着と車のキーを手に取り家を出る。

今日は……お初天神か。とても車で行きたい場所ではないが、酔った簓を公共交通機関で連れて帰ることはできないので仕方ない。少し離れた場所に車を停め、盧笙さんから送られてきた店名を検索する。

「こんばんはー、お迎えに来ましたー」

会場は個室の居酒屋だった。彼らが何という名前で予約をしていようが、飛び込みで入っていようが、白膠木簓の迎えに来た者なんですがと店員に声を掛ければ、九割九分辿り着く。彼はそれだけこのオオサカの地で名をあげていた。

ペラペラの襖を開けると、そこにはいつも通りの天谷奴さんと、いつもより顔の赤い盧笙さんがいて、その盧笙さんの脚に抱き着いているのが、私の探し人である。

「名前チャン、いつもご苦労さん」

「そう思てるなら飲まさんとってくださいよぉ」

「俺たちが止めたくらいじゃ変わんねーよ」

スニーカーを脱いで座敷に上がると、話し声に反応した簓がモゾモゾと動き出す。その姿は完全に睡魔に負けた大きな子供だ。
盧笙さんの隣に膝をつき、若緑の髪の奥にわずかに覗く頬をペチペチと叩く。

「簓ー、迎えに来たでー」

「名前……?」

一向に机の下から出てこない簓の脇に手を差し込み、無理やり引っ張り上げる。くっつき虫から解放された盧笙さんにも手を貸してもらって、ようやく座らせるところまでたどり着いた。

「ほら、帰るよ!財布出し!」

言いながら尻ポケットに手を伸ばすと、酔っ払いが舌っ足らずな声で「えっちぃ」などとほざくので、反射的に後頭部を平手で殴ってしまったが、私は悪くないし、むしろこれが正解である。隣の盧笙さんは苦笑いだし、対面の天谷奴さんはケロッとしている割に酔ってはいるのかゲラゲラ笑っていた。

「あー……お金なら今度貰うから気にせんと帰ってえぇよ……」

「ホンマ申し訳ないです……」

お言葉に甘えて、くたびれたテディベアのようになっている簓の腕を肩に回し、立ち上がる用意をした。盧笙さんも反対側の腕に手を掛け、手伝おうとしてくれている。
すると簓がおもむろに顔を上げる。あ、やばい、と思ったときには据わった目で私に照準を合わせた後だった。盧笙さんの手を振り払い、簓の熱い掌が私の頬を包み込んだ。

「簓!やめ、っ」

私の制止など歯牙にも掛けず、簓の薄い唇が私のそれに重ねられる。ちゅ、ちゅ、とついばむようなキスが幾度となく降ってくる。今のうちに止めねばと思い、空いているほうの腕を上げようとすると、それに気付いたのか肩に回していた簓の腕がふっと軽くなり、その手を後頭部に回され、逃げ道を塞がれた。

「ちょ……っ……!んんっ、」

突然下唇を甘噛みされた、かと思うと、そのまままるで飴玉か何かのようにつぅと舌先を這わせられた。くちゅ、とわざとらしく水音を立て、何度も吸い付き、噛みつき、舐めあげる。顔を背けようとすると、後頭部に回された手にぐっと力が入る。髪を掻き分けた指先が頭皮に直接触れるようでくすぐったくて身を捩るが、それも今は簓を喜ばせるだけだった。

「ッはぁ……名前……」

瞬間、離れた唇に名前を紡がれ、いつの間にか閉じてしまっていた瞼を持ち上げると、とろんとした簓の目と視線がぶつかる。それを合図に、私の頬と後頭部に添えられていた手が首筋を通り肩まで下りてきて、グ、と力を込められ、

「って、オイ!チームメイトの前でどこまでやる気や!」

今まさに私を押し倒すはずだった簓は、盧笙さんの平手によってその暴挙を止められた。突然の衝撃に力が抜けたのか、くたりと倒れこんで私の首筋に顔を埋め、あろうことか再び寝息を立てようとしている。

「この状況で寝るか!?」

言いながら簓を引き剥がす盧笙さんの顔は、先程より明らかに赤くなっていて、見苦しいものを見せてしまった……と自責の念に駆られる。一方の天谷奴さんは相変わらずの様子でロックグラスを傾けていた。

「その酔っ払いのキス魔は相変わらずだな」

「いや、もう、ホンマに毎度毎度……重ね重ね申し訳ないです……」

「名前チャンの色っぽい顔が見られるから俺は嫌いじゃないぜ」

そう言われると言葉に詰まる。簓の奇行ではあるものの、私もなかなかに恥ずかしい姿を晒しているのだ。

「……ハァ。車まで送ってくるんで、ちょっと待っててください。名前さん、行きましょ」

天谷奴さんに声を掛けると、盧笙さんは改めて簓の腕を肩に回して立ち上がる。私も慌てて立ち上がり、反対側から支え、ともに店を出た。

……これが飲み会後の簓を公共交通機関で連れて帰れない理由である。

* * *


車を駐車場へ入れる前に、一旦エントランスの側で停め、無駄とは分かりつつも一応声を掛ける。

「簓、着いたでー。降りる?」

「んー……」

ゆるゆると顔を上げ辺りを見渡すと、簓は再び俯いた。まぁ、正直ひとりで部屋まで戻れるとも思っていない。そのまま地下の駐車場へ向かう。
先程は盧笙さんがいたが、今度は私ひとりでこの大きな子供を連れて行かなければいけない。さすがにその体重を支え切ることはできないので、どうにか起きて自分で歩いてもらわねば。
先に車を降りて助手席の扉を開けると、意外にも簓は自分から降りてきた。細い目をゴシゴシと擦りながら、のんびりと両足を地面に着けたかと思うと、突然こちらに両手を伸ばしてくる。

「は、何?」

また何かされるのかと思って身構えたが、簓は私をぎゅうと抱き締めただけだった。

「名前ー、ありがとーなぁ」

「何やの、急に……迎えに行ったこと?」

ひとまず何もしてこなさそうだし、自力で立っているし、私は簓の肩越しに手元を見ながら車のキーを操作する。ロックが掛かったのを確認して、簓の腕を軽く叩いた。

「ほら、帰ろ!手離して、歩いて!」

「そうやなくてぇ……」

「え?あぁ、何がありがとうなん?」

ちゃんと話を聞いていることが分かって満足したのか、簓はようやく私を解放したが、そのまま流れるように自分の左手で私の右手を取り、するりと指を絡めてくる。そして私の手を引き、エレベーターの方へ向かって歩き出した。

「何がありがとう?」

「いや、うん、私が訊いてるんやけど」

酔っ払いとの会話は成り立っているようで成り立っていない。しかし簓は何故かは分からないがニコニコと子供のように無邪気に笑っているし、先程よりはマシか……と思って返事をする。すっかり目も覚めているようで、自分でエレベーターのボタンを押していた。

「めっちゃすき」

繋いでいた手を突然口元へ持っていったかと思うと、ちゅ、ちゅ、と私の手の甲に口づけながら簓は言った。めっちゃすき、って、普段芸人やってラップやって、言葉を巧みに操りまくっているはずの男の愛の言葉がそれか。
と、内心呆れながらも、私の心臓は馬鹿正直に鼓動を速めていた。

「そりゃ、どーも」

「名前は?」

エレベーターが到着して扉が開く。突然の振りに固まる私の手を引きポチポチとボタンを押すと、簓は私の顔を覗き込んで繰り返す。

「なー、名前は?」

「はいはい、好きや、っ、ぎゃっ」

言い終える前に勢いよく抱き着いてきた簓によって、私の言葉は途切れた。避ける暇もなかったので、シャツの肩口にファンデーションが擦れてしまった。

「俺も」

「さっき聞いた!ちょっと、人乗ってきたら恥ずかしいからやめて!」

私が慌てて言うと簓はちらりとフロア表示を見て、

「一階過ぎたら誰も乗ってこんやろ」

「……自分、もうとっくに酔い覚めてるやろ」

極めて冷静なその返事で確信して言うと、簓は私の首筋に顔を擦り寄せながら、猫撫で声で「ねむたぁい」と返す。

「はいはい、お風呂沸かしてきたからとっとと入って寝ぇ」

未だ抱き着いたままの簓にぶっきらぼうに言ってやると、簓は急に身体を離し、心底不思議そうな顔で私を見た。

「え、店の続きせんの」

「そのときから記憶あるんかい……」

簓は、酔っても記憶なくならんタイプやからー、と訊いてもいないことを答え、ヘラヘラと笑った。
私が盛大に溜息を吐くと同時に、エレベーターがベルで到着を告げる。簓は再び私の手を取ると、今にもスキップでも始めそうなくらい楽しそうに廊下を歩き出す。
これは本気で寝かせてもらえそうにないな……と私が腹を括ったところで、簓は唐突に「なぁ、名前」と振り返る。

「俺なんかとずっと一緒におってくれてありがとうな」

「何やそれ、もう酔うてないんやないん」

素直でない私は、鞄から部屋の鍵を取り出すのにかこつけて、ふいと顔を逸らしてしまう。しかしそれが照れ隠しであることは、きっと簓にはお見通しなのだろう。繋いでいないほうの手を私の頬へ伸ばし、くいと顔を上げさせると、今日何度目か分からないキスをした。

Fin.

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