定時を大幅に過ぎて、ようやく会社をあとにしたころには、外はとっくに真っ暗だった。鞄の奥でちらちらする光に手を伸ばすと、会社支給のではなくプライベートのスマホで少しほっとする。友人と会う時間なんて長らく取れていないから、こちらのスマホが光っているのは久しぶりかもしれない。一体誰から、と訝しみながら画面を確認して、私は思わず駅へ向かう歩みを止めてしまった。
『今度のライブ
来えへん?』
『ほんで終わってから飯行こ』
まるで今にも彼の声が聞こえてきそうな関西弁の文章に頬が緩む。今度のライブとやらのことはSNSで確認済みだ。是非、と返事をすると即座に可愛らしいスタンプが返ってきた。
* * *
ライブが終わると、私は白膠木さんに言われていたとおりにスタッフのお姉さんに声を掛けた。『関係者以外立入禁止』の看板を越えて、楽屋のほうへ案内される。
だんだん本当に『芸能人』ぽくなってきたなぁ……いや、最初から芸能人ではあるんだけれど。
「名前ちゃん!」
楽屋にたどり着く前に、身支度を済ませ廊下を早足で歩く彼と鉢合わせた。案内してくれたお姉さんは、小さく会釈してその場をあとにする。私がお礼を言う前に「ありがとうございますー!」と彼の元気な声が廊下に響いた。
「ごめんな、こんなとこまで来てもろて。裏口でも良かったんやけど、最近たまに出待ちしてる子おるから」
「いえ、すっかり売れっ子ですね」
「ありがたい話やけどなぁ」
困ったように眉を下げつつ、その笑顔はどこか嬉しそうだった。
「とりあえず出よか。適当に店予約したけど、好き嫌いとかある?」
「ありがとうございます、何でも食べますよ」
そう言いながら歩きだす彼の隣に並ぶと、ここやねんけど、とスマホの画面を見せられる。覗きこもうとする前にぐいと肩を抱かれ、心臓が跳びはねた。顔には出していないつもりだったが、ふとこちらを見た彼は「あっ」と声を上げ、
「ご、ごめんな、最近相方とばっか一緒やからつい」
ぱ、と離れていく体温に、ほっとするのと同じくらい名残惜しく思ってしまう。そんな自分の気持ちには気付かないふりをして「大丈夫です」と笑顔を作った。
* * *
白膠木さんに連れられてたどり着いたのは、小洒落たイタリアンのお店だった。先ほどのスマホの画面はほとんど見られていなかったから、少し驚いてしまう。てっきり居酒屋か何かだと思っていた。
入り口に掲げられたメニューをちらりと盗み見ると、すごく高いというわけではないが、そのへんのファミレスに比べればそれなりにいい値段。
「予約してた白膠木ですー」
私が躊躇っているのなんか気にも留めず、彼はさっさと店内に入っていってしまった。慌ててついていくと、あれよあれよと席に案内されてしまい、ふたりで向かい合って座る。どこか楽しそうにメニューを開く彼に、おそるおそる声を掛けた。
「こ、こんなところ、いいんですか……?」
「ん?何が……あっ、なんか気に入らんかった?」
「そういうわけじゃ!」
不安そうにこちらを覗き込む彼に、慌てて首を振り否定する。
「高いんじゃないかと……」
口をもごもごさせながら小さな声で言うと、彼は一瞬きょとんとしたあと、くつくつと肩を震わせた。
「そんなこと気にしてたん?俺が誘ったんやから名前ちゃんは何も気にせんでええよ」
「へ!?いや、そういう意味じゃなくてっ」
そんなつもりじゃなかったのに、彼に言われた言葉になおさらパニックになる。
口には出しにくいけれど、まだまだ駆け出しの彼には少々贅沢なお店なのではないかと思って、それなら私の使う暇もなく貯まっていくばかりのお金を出したほうがいいのではないかとすら考えていたところだった。
そんな私の思考を察しているのか、彼は少し考えたあと「あー……」と言葉を紡ぎはじめる。
「俺、たぶん名前ちゃんが思ってるよりは稼いでるから大丈夫やで?」
「えっ、あ、そんなつもりでは……」
「ええよ、心配してくれてんねやろ?」
うちの事務所評判アレやしな、と冗談混じりに言われたそれに思わず笑ってしまうと、彼も嬉しそうに微笑んだ。
「初めてなんやし今日はカッコつけさせてえな」
「……はい」
「でも次はファミレスとか居酒屋でもええ?」
当たり前のように出てきた『次』という言葉に、わずかに胸が高鳴る。
別に無理してるわけやないけど、とごまかすように言う彼の声はほとんど聞こえていなかった。
「どこでも、いいです、ご一緒できるなら」
真っ白になりそうな頭でなんとかそう絞り出すと、彼の顔からはいつもの笑みが消え、ぽかんとこちらを見つめている。直後、ばっと手に持っていたメニュー表で顔を隠した。
「ホンマ、アカンて」
「……だめなんですか?」
「ちゃうやん」
頑なに表情を見せてくれない彼にじいと視線を送ると、こちらが見えているはずはないのに「ちょっと待って」と困ったような返事が返ってきた。少しして、ちらりとメニュー表から覗いた彼の顔は、なんだか赤い。
「……好きになってまうよ」
耳に届いた音は、本当に彼の声だったのか、その音にはどんな意味があったのか、一瞬何も分からなくなってしまった。私はようやくメニュー表に伸ばしかけていた手を止め、ゆっくりと彼を見る。
「今、なんて」
「何もない!
早よ頼も!」
そう言うと彼はちょうど隣を通りかかったウェイターを呼び止め、てきぱきと料理を注文してしまう。私は未だメニューを開いてすらいないのに、値段を確認する前に彼に奪い取られてしまった。あとでお金を払うつもりだったのがバレていたのかもしれない。
「……何でも食べるんやんな?」
「も、もちろん」
「ま、俺も食うから好きなもんだけ食うたらええよ」
まるで何事もなかったかのようにあっけらかんと言ってのける彼に、拍子抜けしてしまう。
しかし、もしかしたら、このまま普通にご飯を食べて帰れるんじゃないか――なんて淡い期待は後にあっけなく裏切られた。
「名前ちゃん、今日オモロかった?」
「はい、とっても」
「そらよかったわ」
彼は心の底から嬉しそうに、にいと口角を上げた。
「俺な、どんなオモロい先輩とか同期に褒められるより、名前ちゃんが客席で笑ってるんが一番嬉しいねん」
今日みたいに、と付け足す彼は相変わらず客席がよく見えているらしい。やっぱり、時折こちらを見つめていたのは気のせいじゃなかった。
なんと返したらいいのか分からないけれど、なんだかじわじわと照れ臭くなって視線を泳がせていると、彼は少々不満げで。
「……こんだけ言うても何も思わへん?」
「へ……」
「……名前ちゃんのにぶちん」
むす、と唇を尖らせる彼の言わんとしていることが分からないほど子供ではないけれど。
私にとって白膠木さんは、命の恩人で、今は一番応援しているお笑い芸人で。そして白膠木さんにとっての私も、きっとただのファンのひとりだと思っていたから。
「売れてへん芸人なんて、そんな目ぇで見たことなかった?」
「そ、そんなことないし、白膠木さんは絶対に売れます」
「……すぐそういうこと言うやろ」
「え?」
うっすらと頬を染めて溜息を吐く彼の気持ちは、時々分からない。何か気に障ることを言ってしまったのかと狼狽える私のことも気に留めず、彼はしばらく考えたあと、意を決したように顔を上げこちらを見た。
「なあ、ただのファンとしてやなくて、その……か、彼女として、ライブとか来てほしいって言うたら……いや?」
時間が止まる、とは、こういうことなのだろうか。
まばたきも呼吸も忘れてしまうくらい、その言葉の意味以外、なんにも考えられなかった。それからまるで走馬灯のように、彼と出会ってからのわずかばかりの思い出が脳内を駆け巡って、それから、
「名前ちゃん……?」
一体どれほどの時間、ぼうっとしていたのだろう。不安そうにこちらを覗き込んでくる彼の顔を見てはっとした。そんな顔、してほしくない。けれど、そうさせているのは自分だという事実に胸がぎゅっと苦しくなる。
「いやじゃないです、」
ああ、そうだ、私の気持ちははじめからひとつだった。けれど、あまりに眩しくて温かい彼の隣にいる自分なんてとても想像できなくて、ひとりのファンとして遠くからでも見守っていられればそれでいいんだって、本当の気持ちに蓋をしていたのは自分だった。大人になって、社会で生きていくうちに、そんなこともすっかり上手くなってしまって。
「私も、白膠木さんが好きです」
今度は彼が固まる番だった。いつもにこにこと笑みをたたえている顔が、明らかに驚きを滲ませている。自分が言った言葉に至極恥ずかしい気持ちになりながらも、彼のそんな表情は新鮮で、少し嬉しくもなってしまう。
先ほどの彼がそうしたみたいに、じいとその顔を覗き込むと、彼はぼっと頬を朱に染め、そんな顔を慌てて大きな両掌で覆った。
「へっ、ちょ、待って、そこまで言うてくれると思ってへんかった」
目元だけちらりと覗かせて、おそるおそる「……ホンマに?」と尋ねてくる彼に小さく頷いて見せると、彼はまた顔を覆って、それから大きな溜息を吐いた。
「俺、下手したらもうライブも何も来てくれへんようになるかもしれんって、めっちゃ覚悟決めてきてんで」
「そんなことしません」
「……うん」
彼はゆっくりと両手を下ろすと、真っ赤な顔で嬉しそうに微笑んで「俺も好き」と呟いた。
そんな幸せそうにされたら、まるで自分がすごく価値のある人間みたいに、勘違いしてしまいそうになる。
「名前ちゃん、絶対毎回笑かしたるから、ずっと客席で俺のこと見とってな」
「喜んで」
私自身、何が変わったというわけでもないはずなのに、彼にこうやって言われるだけで、とても満たされた気持ちになってしまう。
……いや、ひとつだけ変わったのは、ほんの少し、自分の気持ちに素直になったこと。彼みたいな素敵な人の隣にいるのが私でいいのかという不安を、まるで氷を溶かすみたいに包み込んだそのぬくもりに、私はきっとこれからも幾度となく救われることになるのだろう。
Fin.