生活費や家賃の支払いに追われ、いくつも掛け持ちしているアルバイトに近所のコンビニを追加して、数か月が経った。お笑いが好きだというオーナー夫妻は芸人のたまごの俺を心から応援してくれているらしく、突然のシフト変更にも寛容で、今日まで続けてこられている。
駅から近いわけでないこのコンビニは、地元の人の来店が多く、見知った顔も少なくない。彼女もそのうちのひとりだった。
「あ、躑躅森さんや、こんばんは」
名字さんが来るのはほぼ週に一度。お気に入りだといううちの食パンを六枚食べ終わった日の夜七時ごろ。時折、新作のスイーツが出ると一緒にレジに持ってくる。
「こんばんは、お仕事お疲れさん」
商品を受け取りながらそう声を掛けると、名字さんは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ありがと……あ、そうそう、あとこれも」
商品を袋に詰めていると、不意にスマホの画面を見せられる。それから、チケットの発券お願いします、と言われた。先に会計をしてからレジで処理をする。あまりまじまじと見るものではないけれど、彼女が買い物以外のことをするのは初めてで、つい好奇心が勝ってしまった。プリンターから吐き出されたチケットの券面を見ると、どうやらライブのチケットのようで。
「意外と激しいの聴くんやなぁ」
そこに記されたバンド名には見覚えがあった。養成所の同期がハマっているらしく、最近CDを押し付けられたのだ。無理やりとはいえ貸してもらった以上そのまま返すわけにもいかず、一通り聴いたばかりだった。悪くはなかったが特にのめりこむこともなく、なんと感想を伝えたものかと思っていたが、まさかこんなところで役に立つとは。
「知ってるん?」
名字さんは目をぱちぱちさせたかと思うと、ぱぁと顔を綻ばせた。その表情を見ていると、ちょっと聴いただけ、なんて言えるはずもなく、
「結構好きやで」
さすがにライブに行くほどのファンの前で、ファンだなんてのうのうと言う度胸はなかったけれど、少しだけ粉飾した。名字さんの嬉しそうな顔には多少申し訳なさを覚える。
プリンターから出てきたチケットは二枚の連番だった。誰と行くのだろうか。友人か、あるいは彼氏か。
……友人やとええな。できれば同性の。
そんな俺の思いなどつゆ知らず、名字さんは喜々として続けた。
「それな、連番で取ったけど、一緒に行く予定やった友達が予定入って行かれへんようなって……躑躅森さん行かへん?」
「……へ?」
思わず気の抜けた返事をする俺に名字さんは「無理にとは言わんよ」と付け足す。
「いや、ちょっとびっくりして」
「あはは、確かに急やなぁ」
ボールペンとレシートを差し出すと、俺が何か言う前に名字さんは受け取りのサインをしていた。
「行ってくれる?」
「俺でいいんやったら」
……これってデートちゃうん?なんて俺は思うのだが、きっと名字さんはさして深く考えてはいないのだろう。俺の返事を聞くと嬉しそうに破顔した。その笑顔の理由もきっと、ただチケットの行き先が決まって安心したからというだけだ。
彼女の後ろに人が並んだのに俺がちらりと視線をやると、彼女もそれに気付いたらしく、そそくさと俺の手からレジ袋とチケットを受け取り、
「ちょっと貸してな」
俺の制服の胸ポケットからさっとボールペンを奪い取ると、隣の閉まっているレジのほうへ小走りで去っていった。突然の名字さんからの接触に驚く暇もなく、並んでいた次の客がレジの前にやってきて、慌てて対応する。何食わぬ顔をしながら、その間にも心臓はバクバクと音を立てていた。
しばらくして列が途絶えると、名字さんが戻ってきて、先ほど奪っていったボールペンと今日買い物したレシートを手渡してくる。
「これ私の連絡先、暇なときでいいから連絡して!」
それだけ言い残すと、俺の返事も待たず、ひらりと踵を返して店を出ていった。
微かに聞こえてきた鼻歌も、その足取りが羽のように軽いのも、俺が理由じゃないのは分かっている。分かっているけれど、どうにも調子に乗ってしまいそうになるのは、男の愚かな性というべきか。
「……デートやん」
ぽつりとこぼしたそれに、いつのまにか品出しから戻っていたらしい先輩が「何が?」とツッコんできた。慌てふためく俺を不思議そうに眺めつつも、それ以上は追及してこず、ほっと息をつく。
押し付けられたCDの感想にはやはり困るものの、もう何枚か貸してもらうか、などと都合のいいことを考えた。
Fin.