来てしまった。わざわざ自分でチケットを買って、お笑いのライブに。前回は半ば無理やりチケットを押し付けられたから行くしかなかったけれど、自分の意志で平日の夜に予定を入れるというのは、私のようないわゆる社畜にはハードルの高いことで、結局一か月以上の間が空いてしまった。
(……まあ、別に挨拶するわけじゃないからいいんだけど)
というか、一般客がどうすれば挨拶できるのかも分からない。そもそも、挨拶したところで覚えてくれているかどうかも。私はただ、頑張る彼の姿を見てまた元気をもらいたいだけだ。
気合いを入れて定時で上がってきたおかげで、前回よりもずいぶん良い席を取れた。ステージに立つ彼との距離は五メートルもないだろう。きっとこれからお笑い芸人としてどんどん売れていく彼と、ただの会社員である私の距離としてはちょうどいい。むしろ近いくらいだ。チケットの半券に刷られた彼のコンビ名を眺めながら、開演のときを待つ。
* * *
一か月ぶりに見た彼は前回よりいっそう輝きを増していた。舞台袖から出てくるなり客席を見回すのは変わらない。私のほうを見たとき、一瞬口元が綻んだ気がしたのは、きっと都合のいい幻だろう。誰よりも彼自身が一番楽しそうに、ネタを一本披露して、再び袖へ捌けていく。その背中に惜しみない拍手を送った。去り際、彼が再びちらりとこちらを見たような気がした。
全員のネタが終わり、客席の照明がじわじわと明るくなる。荷物を手に取り、外へ向かう人の流れに身を任せていると、出口へほんのわずかというところで不意に腕を引かれた。
「ちょ、なに黙って帰ろうとしてるん!つれへんなぁ!」
もはや誘拐されるとかいった表現のほうが正しいのではないかと思えるほど、すさまじい勢いで廊下の奥まで引き込まれた。他のお客さんたちの死角に入ると、先ほどまで舞台の上にいた彼が、目の前で、他でもない私に話しかけてくる。なんだか非現実的だった。
「え、あ……、白膠木……さん」
「やっと来てくれてんなあ、待っとったで」
戸惑う私をよそに、彼は満面の笑みを浮かべる。
「覚えててくれたんですね」
「当たり前やろ?ずっと心配しとってん」
「……心配?」
そう言ってわずかに首を傾げてみせると、彼の手が突然頬に添えられ、思わずびくりと肩が跳ねた。
「顔色だいぶよくなったんちゃう?何がしんどかったんかは知らんけど、ちょっとは楽になったん?」
「いや、全然、そんなことはないです、けど」
す、と彼の親指が頬骨のあたりを撫でる。まるで全身に電流が走ったみたいにぞくぞくして、それからばくばくと鼓動が速くなった。すっかりパニックの頭を必死で落ち着かせて、言葉を探す。
「今日、久しぶりに白膠木さんが漫才してるの見られたから……」
先ほどの楽しい気持ちを思い出して、つい笑顔になる。顔色までは分からないけれど、きっといつもより表情が柔らかくなっているのは自分でも分かった。
「……可愛すぎん?」
「え?」
聞き取れなかった言葉をもう一度とお願いしようとすると、いつかのように遠くから彼を呼ぶ声がする。ああ、デジャヴだ。
「簓ー……あ、おった、兄さんとこ挨拶に……」
廊下の角から顔を覗かせたのは、舞台の上で彼と並んで立っていた相方さんだった。躑躅森さん、だっただろうか。私を見つけるとわずかにきょとんとしてから、ぺこと小さく頭を下げる。
「先行っとくから
早よ来いよ」
「おー、すぐ行くわ」
踵を返した躑躅森さんにひらひらと手を振ると、彼は一瞬不満そうな表情をしたあと、再びぱっといつもの笑顔になって、
「なあ、次ライブとかあったときも来てくれるん?」
「来たい、ですけど……都合が合えば」
「仕事?」
「まあ、はい……」
はは、と苦笑してみせると、彼は悲しそうな顔をした。いいファンじゃなくて申し訳ない。
すみません、と言うと彼はハッとしてぶんぶんと首を振る。
「ちゃうで!来てくれへんのが嫌なんじゃなくて、大変そうやなって思って」
私が何か返事をする前に、彼の手がぽんと私の頭を撫でた。
「あんま無理したあかんで」
髪型を崩さないようにか、毛の流れに沿って柔らかに触れる手の温もりと、優しさで包まれたその言葉に、じわりと涙が溢れそうになってしまった。慌てて俯いてお礼を言うと、彼は満足そうに手を離した。それがなんだか名残惜しいだなんて、私はなんて贅沢なんだろう。
「あ、じゃあ次の仕事決まったら連絡したるから、何か連絡先教えてえな」
「え、でも……」
その申し出は嬉しいし、ありがたいことではあるけれど、いいのだろうか。
「私、ちゃんとSNS見てますから大丈夫ですよ」
「え、そうなん?何、自分めっちゃ俺らのファンやん」
なんちゃって、と言って彼は笑ったが、紛れもなく私は彼らのファンだ。彼らの、というか彼のだろうか。
「でもな、自分はそれでいいかもしれへんけど、俺が困るんやんか」
「困る?」
「俺から連絡できひんやん」
……俺から、連絡?言っている意味が分からず呆然としていると、彼は「あー、もう」と言ってぼさぼさと頭を掻いた。再びこちらを向いた彼の顔は、そこはかとなく赤い。
「ちょっとは察してえな」
「え、え?」
私がすっかりパニックになっていると、近くを通りかかった誰かが「白膠木、相方が呼んどんでー」なんて言いながら去っていく。その言葉で彼に残された時間はあまり長くないことを悟りつつ、しかし何をどうすればいいのか分からない。
「……俺に連絡先教えんの嫌?」
しゅんと肩を下げて問われると、先ほどの彼と同じく、ぶんぶんと首を振ることしかできなかった。
「そんなわけないです」
「ほな携帯出して!」
言われるがままスマホを取り出してロックを解除すると、彼は向かい合ったまま私のスマホをてきぱきと操作してメッセージアプリを開き、アカウントのデータを交換する。慣れてるなあ、なんて思った。
「名前ちゃんって言うんや」
私のアカウントが表示されているのであろうスマホの画面に視線を落として、彼が呟いた。そういえば、まだ名乗ってすらいなかった。まさか彼に名前を覚えてもらえる日が来るなんて思っていなかったから。
「名字名前です」
「ん、ほなまた連絡するな、名前ちゃん」
……フルネームで名乗ったものの、あまり意味はなかったらしい。最後に彼はまたぽんと頭を撫でてから、踵を返すと早足で去っていった。たぶん躑躅森さんがご立腹なんだろうな、と勝手に想像した。こんなところで呆けていては私もスタッフに怒られそうなので、慌てて外へ向かう。もうお客さんはひとりも残っていなかった。
* * *
帰りの電車でボーッと窓を眺めていると、ポケットに入れていたスマホが震える。取り出して画面を見てみると、見慣れないアイコンが私に語りかけていた。少し考えて(あ、白膠木さん)と気付く。
今日は漫才をする彼が見られればそれで十分だったはずなのに、まさか連絡先まで交換することになろうとは。なんだかまだ現実味がないのだが、彼から届いた「今日はありがとうな」のメッセージを見るに、全て現実なのだろう。
こちらこそありがとうございました、みたいな返事をして、再び窓の向こうへ視線を戻す。夜の街はほとんど見えず、ガラスに自分の姿が明々と反射していた。
(……だらしない顔)
電車の窓に映る自分は、いつも虚ろな目をして背中を丸めて、今にも死にそうだったのに。そんな楽しそうな顔もできるんじゃないかって、まるで他人事のように考えた。こんなに心が満たされるのは、彼の太陽のような温かさゆえなのか、それとももっと別の理由があるのか、いずれにせよ今の私には些事であった。