「危ないで」
ぐい、と誰かに腕を引かれて立ち止まると、目の前を大きなトラックが走っていった。顔を上げると歩行者用の信号機にはしっかりと赤色の光が点灯している。ようやく状況を理解して振り返ると、私と同じくらいか少し若いくらいの男の子が、怒ったような焦ったような、なんだか複雑な表情をしてこちらを見下ろしていた。
「あ……ありがとうございます」
「気ぃ付けや、ホンマに死んでまうとこやったで」
「えっと、すみません……」
初対面の男の子に叱られる私を、道行く人々がちらちらと不思議そうに眺める。なんかもう、泣きそう。せっかく助けてくれたのに、見ず知らずの私をこんなに真剣に心配してくれているのに、馬鹿な私は「今のでハネられてたら、会社行かなくて済んだのにな」なんて考えている。不甲斐なくて、申し訳なくて、それから少し残念で。色んな感情が胸の中をぐるぐるして、それがじわりと、涙になって溢れそうになる。思わず俯いた私の顔を、男の子が慌てて覗き込んできた。
「ご、ごめんな?自分もびっくりしたよな、ちょっとキツかったわ」
「いや、あの、違くて……本当に大丈夫なので」
半ば無理やり振り払うように彼の手を跳ね除けて歩き出す。家の方向でも会社の方向でもないけれど、とにかく今はその場を離れたかった。すると彼は「ちょっと待って!」と慌てて私の後を追い、今度は肩に手を掛け引き止める。
「なんかしんどいことあるん……って、初対面の俺には言われへんやろうけど」
私の返事など求めていない、ひとりごとのようにそう言いながら、彼は持っていたトートバッグをあさると、紙切れを数枚取り出し、一枚を私に差し出した。
「俺、まだまだ駆け出しやけどな、お笑いやってんねん。これ、ホンマはノルマあるから売らなアカンねんけど、あげるから来てえや」
「……え?」
「絶対笑かしたるから、な?」
そんなに私は酷い顔をしているのだろうか。自覚はないけれど、かと言って否定できる自信もなくて、また虚しくなった。受け取るかどうか悩み固まる私の手を取り、彼は無理やりチケットを握らせる。
「明日の夜、な、絶対来てな」
そう言うと彼はひらりと踵を返して、先程の横断歩道を渡ってどこかへ走っていった。急いでいたのだろうか。それなのに、私を助けたうえ、このチケットまで。券面には確かにお笑いのライブらしきタイトルや出演者の名前が並んでいる。一体どれが彼の名前なのかは分からない。まだまだ駆け出しだと言っていたけれど、観客の頭数をひとつ増やすことは、助けてくれたお礼になるのだろうか。
* * *
次の日は金曜日だった。仕事終わり、会場の最寄り駅に着いたのは開演直前で、人混みをほとんど駆け抜けるようにして会場へ急いだ。お客さんはもう席に着いているようで、しんとした小さな劇場は、今から何か公演があるようにはとても見えない。しかし入口にはスタッフらしき女性がいて、ぜえぜえと息を切らしながらチケットの券面と会場の看板とを見比べる私に気が付くと、早く早くと言うように手招きをした。
「まだギリギリセーフですよ」と言って微笑む彼女に会釈をして、薄暗い廊下を進む。指定席はないが、残念ながら満員とはいかないそこで一人分のスペースを見つけるのは容易だった。
それから一分と経たない間に、司会進行を務めるらしい芸人が出てきて、何かを話し出した。時折どっと笑いが起こっていたけれど、何を話していたのかは覚えていない。だって金曜日の夜だ。週末が楽しみなどというより私は疲労困憊で、とにかく寝落ちたりしないようにするので精一杯だった。
一組、二組と私よりはるかに若いお笑い芸人のたまごたちが板に立つ。面白いんだけど、彼らが面白ければ面白いほど、なんだか眩しくて笑えなかった。
(……せっかくチケット貰ったのに)
ライブも折り返しに差し掛かったころ。司会者が「次はどついたれ本舗です!」と声を上げた。変な名前、なんて思いながら舞台を眺めていると、昨日の男の子が飛び出してきた。彼は軽快に挨拶をしながらも器用に客席を一周見回して、私と目が合うとわずかに微笑んだ、気がした。すぐに相方の男の子のほうを向いてしまったから、本当に気付いたのかは分からなかったけれど、それからも時々ちらりとこちらに視線を送っていたので、きっと気付いていたのだと思う。
彼のネタの最中、私はそのライブではじめて声を出して笑った。
その日の出演者のなかで、彼らはひときわ輝いていた。きっとすぐに売れるだろう。そうしたら、昨日と今日のこと、少しくらい人に自慢してもいいだろうか。
あっという間に終演の時間になり、客席から少しずつ人が消えていく。私も早く帰って休みたい。重い腰を上げて廊下へ出ると、「関係者以外立入禁止」の看板の向こうから「ねーちゃん、ねーちゃん」と声を掛けられる。それが誰のものかなんて決まっていた。
「来てくれたんやな、良かったわ」
「こちらこそ、ありがとうございました」
まだちらほらとお客さんも残っているのに、彼は普通に看板を越えて廊下へ出てくる。良いのだろうか、と顔に出ていたのか「まだファンなんてそんなおらんから大丈夫やで」と言われてしまった。
「最後に出てきたトリオおったやろ?ほとんどあの人らのファンやで」
彼は苦笑して冗談めかして言ったけれど、どこか悔しそうな、面白くなさそうな、そんな顔をしていた。
「私は、どついたれ本舗さんのほうが良かったと思いますよ」
そう言うと、彼はきょとんとした顔で私を見た。それから声を上げて笑い出す。
「っはは、まさかそんなこと言うてもらえるとは思わんかったわ、おおきにな」
ポンポンと彼に叩かれた肩が熱い。しかし、そんなこと知る由もない彼は、相変わらず太陽のような眩しい笑顔をこちらに向けて、当然のように「また来てな、次いつか分からんけど」なんて言う。
「もちろん……あ、そうだ、今日のチケット代」
「え!?いや、いらんよ!?」
財布を探して鞄に手を突っ込むと、彼がその手を掴んで止める。昨日と同じだ、なんて思うのは少々呑気すぎるだろうか。
「俺が勝手にチケット押し付けただけやし、むしろ来てくれただけでありがたいねんて、ホンマに!」
「それは観客の頭数的な意味でですか?」
「う……、まあ……それもある……」
少し意地悪をして言うと、彼はばつの悪そうな顔をしてそう答えた。
そういえば、昨日の段階でそれなりの枚数のチケットが残っていた気がするけど。あんまり詮索するのも可哀想かと思ってぐっと飲み込んだ。
「でもな、ホンマに、自分に笑ってもらいたかっただけやから、俺の都合やから気にせんといて」
「……そんなに酷い顔でしたか?」
「死んでまいそうやったもん」
……そんなに?でも残念ながら否定できない自分がいるのも事実だった。
「せやから、今日はちゃんと
笑てるとこ見れて安心したし、それだけで十分やねんて」
「どうして、見ず知らずの私にそこまでするんですか?」
それは決して嫌味だったり警戒心からのものではなく、純粋な疑問だった。彼のどこか慈しむような視線を見ていると、どうしても訊きたくなってしまって。
「どうしてー、言われてもなあ……そのために芸人なったからやな」
やっぱり、ここにいる人たちはみんな眩しい。その光を目の当たりにするたび、自分と比べて苦しくなってしまうのに、何故だろうか。彼だけは、ずっと見ていたい、ずっとこちらを照らしてほしいと思うのは。
「また、来ます。今度はちゃんとチケット買って」
「ホンマに?おおきに、嬉しいわぁ」
すると、スタッフか誰かが呼んでいるのか、彼がパッと振り返る。ぬるで、さん?ここへ来てようやく知った彼の名を頭の中で繰り返した。どんな字を書くのだろうか。
「ごめんな、なんか呼ばれてるわ」
「いえ、こちらこそ長々とすみませんでした」
挨拶もそこそこに、会場を出て駅へと向かって歩き出す。家へ向かう電車に揺られながら、スマホで彼のコンビ名を検索し、SNSや動画サイトに片っ端から目を通し、フォロー数をひとつ増やしておいた。
(……白膠木簓さん)
私はこうして彼の名前を知って、これからの彼のこともSNSや動画を介して知っていけるけど、彼は私の名前も知らなければ、次に会ったとき覚えてくれているかどうかも分からない。それは恋と呼ぶにはあまりに遠いし、私自身もそんな大それた感情を抱いているのかも分からない。そのうち、好きな芸能人のひとりにでもなってしまうのかもしれない。だけど今は、あの太陽の人のぬくもりを、もう少し近くで感じたいと思った。