出ることはあってもリアルタイムで見ることはほとんどないゴールデンの時間に、珍しく帰ってこられた夜。名前はぐでんとソファーに伸びたまま片手をひらりと上げて「おかえりー」と弱々しい声で言って俺を出迎えた。
「どないしたん?調子悪いん?」
ただいまを言うのも忘れて駆け寄ると、名前は慌てる俺の顔を見て申し訳なさそうに苦笑し、
「いや、ちょっと面倒な仕事続いて疲れてるだけ、今日金曜でよかったわぁ」
そんなことを言いながらも「あ、お風呂入れるよ」と続ける名前は本当によくできた彼女だと思う。今日も今日とて、結婚しよ、なんて衝動的に言いそうになる唇をぎゅっと結んで、そして突然変な顔をする俺を名前が不思議そうに眺める。俺にとってはすっかりお馴染みの流れだった。
「でもご飯する元気はなかったから何か頼むんでもいい?」
「そんなん気にせんでええよ、名前の好きなもん頼み」
俺の返事を聞いた名前は、やった、と嬉しそうに笑うと、スマホを手に取りデリバリーのアプリを眺めだした。
既に風呂を済ませたらしい名前に注文を任せ、俺は洗面所へ足を運ぶ。
……名前を元気にするにはどないしたらええんやろ。疲れてるだけって言うからには、さっさと寝てまうんが一番なんやろけど。
(それやったら一緒におる意味ないよな……)
むしろ仕事で家のことなんてほとんどできない俺はいないほうがいい、ということになってしまう。それだけはだめだ。
(名前ひとり笑かされへんで、何が芸人や)
今日一日、大変だったけど楽しかったなと思いながら名前が布団に入れるように――俺も最後の一仕事と行こうやないかい。
* * *
名前はお笑いが好きだ。そら、そうやなかったら俺なんかと付き
合うてられへんやろって言われたら、それはその通りだと思う。
人気の番組は一通りチェックしたい俺と、俺の出ている番組は全て見たい名前が一緒に住んでいるので、レコーダーの容量のほとんどはバラエティー番組の録画に費やされていた。
「名前ー、こないだの特番見てくれた?」
俺が風呂に入っている間に届いていた夕飯を食べ終え、ふたりでソファーに並びだらだらしながら、ふと問いかける。名前はリモコンを手に取り録画一覧を見ながら「こないだ?水曜のやつ?」と問い返してきたので、こくこくと頷く。
(これはホンマにオモロい自信ある!)
最後の一仕事、なんて意気込んでみたものの、この場で漫才を披露したところで名前も戸惑うだろうから、結局は過去の自分頼りだ。
指定した番組はよくあるお笑いの特番で、たくさんの芸人たちが順番にネタを見せるだけのもの。ありがたいことにすっかり売れっ子の俺の出番は、だいぶ後ろのほうだった。しかし、お笑い好きの名前に俺の出番まで早送りするなんて選択肢はない。
「あ、簓この人ら知ってる?って、一緒に出てるんやから知ってるか」
テレビの画面を指差しながら、名前は隣から俺に話しかけてくる。映っていたのは最近じわじわと露出の増えている若手芸人だ。名前は俺の出番を待つまでもなく既に良い笑顔だった。
「優勝したとかはまだないんやけど、めっちゃ面白いねん、絶対売れるわ」
名前が楽しそうにしているのは本望のはずなのに、なんだか面白くない。もそもそとソファーの上で膝を抱えると、名前は不思議そうに俺を見た。
「簓?」
「……なんもない」
「なんもなくないやん」
簓が見たかったんちゃうの?と名前は首を傾げる。見たかったっちゅうか、見てほしかったんやけど。俺が見たかったのは、俺の渾身のネタで笑顔になる名前やったんやけど。
……でもなぁ、俺も芸人やから、たとえ今ネタやってるのが俺やなくても、ずっと楽しそうに見てくれる名前のことが好きやねんな。
「その子ら、ホンマにオモロいで、カメラ回ってなくてもずっとオモロいねん」
「簓、ごめんな?」
「は、」
「他の芸人さん褒めたから拗ねてんのやろ」
ぽす、と名前の小さな手のひらが俺の後頭部に乗っかったかと思うと、そのまま頭を撫ではじめた。
子供ちゃうぞ、と掴んだ手首を引いて、バランスを崩した身体を抱き留める。
「拗ねてへんし」
「どう見ても拗ねてるやん」
腕の中で名前がくすくすと笑い声を上げる。件の若手芸人たちは未だ画面の向こうで一生懸命ネタを続けているが、名前の視界にはもはや入っていない。それに優越感を覚えている時点で、自分が彼らに嫉妬していたことは火を見るよりも明らかだった。
「簓が一番オモロいよ」
「それは盛った」
「なんでそんなこと言うん」
眠いのかいつもより温かい名前の身体をぎゅうと抱き締めてしまえば、顔は見えないけれど、相変わらず笑っているのはその声音からよく分かった。
「……名前、今日疲れたんやろ」
「うん?」
「俺のネタで笑って元気になってほしかったのに」
……取られた、と恨みがましく呟けば、腕の中の身体がぷるぷると震える。
「アホやな」
「笑いすぎやろ」
「ごめんごめん」
ようやく背中に回された手が、ポンポンと宥めるように優しく肩甲骨のあたりを叩く。
「別にネタやらんでも、こうやってぎゅってしてくれるだけでええのに」
「……そうなん?」
「そうやで」
名前がそう言うのなら、と思い腕に力を込めると、名前もそれに応えるようにぎゅうと俺にしがみついた。
「他の誰にこうやってされても何も思わんけど、簓だけ、簓やから元気になるんやで」
「は?俺以外にこんなんさせへんけど」
「せえへんけどさ」
たとえ話やんか、と名前は笑ったが、たとえ話でもそんなのごめんだ。
俺の胸元に顔をすり寄せて、気持ちよさそうに目を閉じる名前のこんな顔、俺以外の誰にも見せてたまるか。
「簓は?」
「え?」
「簓はこうやってても元気出えへん?」
名前は上目遣いでこちらを見つめ、そんなことを訊く。
「……簓さんの息子さんはお元気やけど」
「……最低」
「や、俺は元気出るっちゅうか……落ち着くって感じやわ」
俺の低俗な冗談にじたばたと腕から逃れようとする名前を押さえ込んで、今度は俺が名前の首筋に顔を埋めた。嗅ぎなれたシャンプーの香りのなか、仄かに名前の匂いがする。
「んー、ちゃうな……幸せーって感じや、朝までずーっとこのままでおりたい」
そう言うと、鼻先で触れていた名前の身体がかぁと熱く、赤くなった、気がした。
そのあと蚊の鳴くような声で「……分かる」と答えたのが耳に届いてしまって、俺はまた名前を抱く腕に力を込める。
「でも簓、明日も仕事やろ」
マネージャーのごとく俺のスケジュールを把握している名前は不意にそんなことを呟いて、背中に回していた腕を下ろした。
名前だって疲れてるのには変わりないし、さすがにそろそろ寝かせてやらないと可哀想だ。渋々俺も力を緩め、名前を解放した。混ざり合うようだった体温を失って、すんと胸元が涼しくなる。
しゅんと首を垂れる俺の見上げると、名前はくすくすと忍び笑いをして、
「ベッドでしたらいいやん、朝まで」
……このセリフだけ聞いたらどえらいお誘いやねんけど。名前がそんなことを言うわけがないし、お互いそこまで元気でもなければそんな趣味もない。微笑を浮かべ小首を傾げる名前の気が変わらないうちに、俺はこくんと頷き、寝る支度を済ませるべく洗面所に向かった。名前もぺたぺたと後ろをついてきて、さして広くもない洗面所で並びながら歯を磨いていると――あぁ、なんか、別に抱き締めてなくても普通に幸せやん、などと思うのだった。
Fin.