「ただいまぁ」
玄関先からそう声を掛ければ、いつも返ってくるはずの「おかえり」の声がない。靴はある。リビングから明かりも漏れている。なんなら物音もする。いるのは間違いないのだが。革靴を脱いで廊下を進みつつ何度か名前を呼べば、ようやく「はぁい」と呑気な声がした。洗面所のほうからだった。
半開きだったドアから中を覗くと、可愛いお尻がふりふりと揺れて俺を出迎える。何やこれ、と少し考えてから名前が床に這いつくばって探し物をしていることに気付いた。
「何か落としたん?」
「んー……あ、ごめん、後にするな!」
そう言うと名前はパタパタと小走りでキッチンへ向かう。いつも通り、俺の帰宅に合わせて夕飯の用意をしてくれていたのだろう。洗面所を出る前に、覗き込んでいた洗濯機の下をスマホのライトで照らすと、奥のほうで何かがきらりと輝いた。
「……これ持ち上げるんか……」
夕飯のあと、俺が頑張るしかあるまい。
* * *
「探し物、洗濯機の下のやつやんな」
「うん、見たん?」
「なにかまでは分からんかったけど……なに落としたん?」
「……指輪」
ふたりで向かい合って食卓を囲み、箸を動かす合間にそんな会話をする。洗面所で落とすといえばやはりアクセサリーの類かと思い、食事の前、スーツから部屋着に着替える際に確認してみたが、俺から贈ったものは全てジュエリーボックスか彼女の指に輝いていた。ということは、自分で買ったものか。出会ったころからずっと、装飾品にはあまり関心のなかった名前にしては珍しいことだ。
「あとで洗濯機持ち上げたるから、その間に
拾い」
「え、いける……?」
「……なるはやで頼むわ」
ほんの数秒、傾けるくらいなら大丈夫だとは思うが――自信なさげな俺の返事に名前は困ったように笑いながらも、「ありがとう」と心底嬉しそうに口にした。
* * *
「ほな行くでー、せーのっ」
傾けるだけ、四本の脚のうち二本は床についている。だというのに、その四角い箱の重さは、リビングで寝落ちてしまった名前を運ぶときのそれをゆうに上回るような気すらした。そんなわけはないのだけれども。しかも洗面所の限られた空間では身動きも思うように取れず、いっそう負荷がかかっているのだと思う。とはいえ、ここで俺が手を滑らせたりすれば、足元で這いつくばって腕を伸ばす名前の身体がただではすまない。特番の生放送よりはるかに緊張する状況に呼吸すら忘れそうになる。
「取れた!」
名前がさっと洗濯機の下から抜け出したのを確認すると、俺はすぐさま力を抜いてしまいたくなるのをなんとか堪え、いつもお世話になっている家電に内心で「どうも失礼いたしました」と呟き、そっと床に下ろす。ほんの数秒のことだというのに、はぁと大きく息をつく俺を名前は心配そうに見つめていた。
「簓、ホンマにありがとう、大丈夫?」
「おー……そっちは?」
「大丈夫!」
そう言うと名前は大事そうに両手に乗せた指輪を俺に披露した。少し埃っぽいものの、確かに装飾などは無事のようだ。
「ん?これどっかで見たことあんな……」
「見たって、これ簓がくれたやつやん」
マジか、と思ったが、名前は不満げな様子を見せるでもなく、きょとんと不思議そうな顔をする。怒ってはいないようなので改めてまじまじとその指輪を見ていると、ようやく記憶がよみがえった。
「あ!それナンバのよう分からん雑貨屋で
買うたやつ!」
「よう分からん雑貨屋って言うな」
思い出した。まだ盧笙とコンビでやってたころ、ふらっと入った雑貨屋で名前が「可愛い」と呟いたのが聞こえたから、即座に購入したものだ。駆け出しの俺の財布にも優しい、今となってはおもちゃみたいな指輪だった。あげたことすらすっかり忘れるほど。
「物持ちええなあ……まさかこれまだ使ってるん?」
「いや、使ってはないけど、お手入れはしとこうと思って……あ、別に安いやつやからとかやなくて、アクセサリーってあんまり得意やないから使ってないだけで」
「知ってる知ってる」
指輪もネックレスもイヤリングも、服以外の何かを身に着けるのを好まない名前が、俺とのペアリングだけは大事に着けてくれている。分かっているからいっそう愛おしいのだ。
「なあ、指輪やなかったらなに
貰たら嬉しいん?」
「え、なに急に……」
「もっとええやつ買いに行こ言うても嬉しないやろ?」
あのころよりはるかに稼ぎのよくなった今、オーダーメイドの指輪でも、大きな宝石が付いた指輪でも簡単に買ってやれるけれど、名前が望まないものをプレゼントしたって仕方がない。
「そんな大事にしてもらえるんやったらなんぼでもプレゼントしたいやん」
「えー……別に……今はなんもいらん……」
遠慮して、ではなく心の底からなにも望んでいないのであろう彼女のつれない返事に唇を尖らせる。
「簓がくれるもんやったらなんでも嬉しいよ……?」
「俺を喜ばせてどないすんねん」
「ホンマのことやもん」
今度は名前が唇を尖らせる番だったが、その発言の内容もあいまって、ただただ可愛らしいばかりだった。
「ほな今度の休みウメダ行こ、なんか買わせてくれるまで帰らへん」
「変なの、誕生日でもないのに」
そう言ってくすくすと笑いながらも「しゃあないな」と受け入れてくれるところも、それからきっと当日は必死で欲しいものを考えてくれるところも、ホンマにめちゃくちゃ好きやなぁって、漫才師にあるまじき貧弱なボキャブラリーで考えた。
Fin.