その日の獄さんは、いつにもましてお疲れのようだった。いつも自分と空却さんが事務所に顔を出すとそれはそれは嫌そうな顔をするのだが、本当に嫌なら追い出すなり受付で止めさせるなりできんだろ、と空却さんが言うので、きっと本気で嫌がられているわけではないのだと思う……たぶん。そんな獄さんが、自分たちの姿を見て嫌味のひとつも言ってこないなんて、これはもう相当疲れているに違いない。事実、獄さんの机にはいつもの倍近い高さの書類の山ができている。
「おう、獄、生きてっか?」
「坊主が言う冗談じゃねーな」
空却さんがニヤニヤしながら声を掛けても、獄さんは顔を上げることもなく答えるだけだった。険しい表情でパソコンの画面を睨みつけている。
空却さんが来客用のソファーに腰を下ろしたので、自分もそれに続いた。
「無敗の弁護士もんな必死になることあんだな」
「必死だから負けねーんだよ、馬鹿」
獄さんは、勝ち目のない依頼はそもそも受け付けない。だから勝算はあるのだろうけれど、毎回簡単に勝てるとも限らない。もちろん、そういう依頼のときはいっとう高い報酬を受け取っているのだろう。
「獄さん、一区切りついたらご飯行きましょ、名前ちゃんがボーナス出たからって自分たちも誘ってくれたんす」
名前ちゃん、とは獄さんの恋人のことだ。どちらかというと獄さんより自分や空却さんのほうが歳が近く、友達みたいに接してくれる。
「ちったぁ遠慮しろや……」
「やーだね、煩悩まみれの腐れ弁護士とふたりきりにしたら、飯だけじゃ飽き足らず名前まで食っちまうだろうが」
「食っていいんだよ俺は」
……獄さんと空却さんの会話は時々破廉恥だ。そりゃ、そういう関係なのは頭では分かっているけれど、当たり前のように話題にするから心臓に悪い。このあと名前ちゃんとも合流するのだからやめてほしい。どんな顔をして会えばいいのか分からなくなる。
「あと三十分もしたら迎えに来るっつってたけど間に合いそうかよ」
「あー、もう終わる……飯行く前にちょっと休憩するわ」
よほど疲れているらしい。宣言通り五分ほどで仕事を片付けた獄さんは、自分たちの向かいのソファーに横になって目を瞑った。
「獄さん、そんなに忙しかったんすか?」
「昨日ちょっとトラブって寝れなかったんだよ……名前来るまで寝る」
それは、ずいぶん辛そうだ。こんな状態で自分たちが食事に誘ったところで一蹴されるだけなのだろうが、仮眠を取ってまで付き合ってもらえる名前ちゃんは、相当獄さんに愛されている。
連絡来たら起こしてくれ、と言い残すと、獄さんは一瞬で寝息を立て始めてしまった。
「は、早……」
「ッハハ、オッサンに徹夜は堪えんだろ」
そう言ってケラケラと笑うと、空却さんはスマホをいじりだしてしまった。まあ、あんまり喋っていたら獄さんを起こしてしまうかもしれないし、しばらくこんな感じで時間を潰したほうがいいのだろう。
* * *
「お、名前車停めたってよ」
スマホの画面を眺めながら空却さんが言い、自分もぱっと顔を上げた。
名前ちゃんがここへ来るときいつも使うコインパーキングまではほんの数分だ。
「じゃあ獄さん起こしますね」
「待て、いい」
ソファーから立ち上がろうとした自分を空却さんが制す。驚いて尻もちをつくように再びソファーに沈み込んだ。
「いいって……?」
「名前がそのまま置いといてくれって」
「な、なんでっすか?」
疑問の答えは空却さんも持っていなかったらしく、素っ気なく「知らね」と言われてしまった。
「こんなんと付き合ってたら鬱憤も溜まんだろ、顔に落書きでもするんじゃねーか」
「名前ちゃんはそんな子じゃないっすよぉ」
空却さんじゃあるまいし。大体、あんなに溺愛されてて鬱憤が溜まるなんてことがあるのだろうか。まあ、獄さんはちょっと口が悪いところはあるかもしれないけれど……。あと、名前ちゃんのことが好きすぎて少々過保護なところがある。あれ、もしかして意外と溜まっているのではないか。
空却さんはおもむろに立ち上がって窓辺に近付くと、階下を見下ろし「来たな」と呟く。
こうも静まり返っていると、名前ちゃんが呼んだのであろうエレベーターが動き出す音すら聞こえてしまう。それから、名前ちゃんの訪いになどまるで気付いていない獄さんの穏やかな寝息。エレベーターが己の仕事を全うしたことを告げるチンという音がすると、事務所のガラス戸がゆっくりと開かれる。
「お待たせー」
獄さんが寝ていることを知っている名前ちゃんが囁くように言って入ってきた。それから不意に握り拳を胸元に持ってくるから何事かと思ったら、「おはよーございまーす」と言いながら獄さんに近付いていったので、どうやらマイクのつもりらしい。同じく理解したらしい空却さんがふざけてスマホのカメラを回しだす。
(起きたほうがいいっすよ、獄さん……)
心の中ではそう思うものの、ここで口を挟めばあのふたりに文句をつけられることは想像に難くない。名前ちゃんの気分を害することはしたくないし、空却さんは怖い。はなから自分に獄さんを起こすなどという選択肢はなかった。によによと笑い合いながら獄さんの様子を伺う二人の背中を少し離れたところで見守る。
「空却くん、撮って撮って」
名前ちゃんは空却さんに獄さんの寝顔を撮らせたり、さらに自分はその前でピースをしてみたりと忙しない。
……獄さんと付き合える名前ちゃんがすごいと思ってたっすけど、名前ちゃんと付き合える獄さんもすごいっすね……。
そもそもこんな人がどうやって獄さんのハートを射止めたのやら。名前ちゃんに魅力がないという話ではなくて、むしろ名前ちゃんはすごく素敵な人だとは思うけれど、絶対獄さんのタイプではないと思う。
「獄さん、寝てたらほんと幼いでしょ、可愛いね」
「こんなオッサンのどこが可愛いんだよ」
獄さんの寝顔を覗き込みながら名前ちゃんと空却さんが言った。寝顔も見慣れているようなその口ぶりに、ああ、ほんとに恋人同士なんだなあ、なんて思う。
「でもそろそろご飯行きたいよね、起こそっか」
空却さんと、少し離れたところにいる自分にそう言うと、名前ちゃんはゆっくり獄さんに近づいていく。獄さんのすぐそばにしゃがみこみ、それから肩でも揺すって起こすのかと思ったら、名前ちゃんの右手はス、と獄さんの首筋を撫で、それから親指で輪郭をなぞる。な、なんか艶めかしいんすけど……。空却さんも同じことを考えたのか、呆れたように溜息を吐いた。
「獄さん、起きて」
先程まで散々ふざけていたのが嘘みたいに、名前ちゃんの優しい声音が空気を震わせた。あれをすぐ耳元で囁かれている獄さんは、一体どんな心地なんだろう。
「……ん、」
ゆっくりと目を開けた獄さんは、ぼうっと名前ちゃんの顔を見つめた。なんとなく不思議そうな表情の獄さんに、名前ちゃんはふざけて「おはようのちゅーする?」なんて尋ねている。
「獄さん、早く起き、」
て、と続くはずだった名前ちゃんの声は聞こえなかった。名前ちゃんの唇が、獄さんのそれで塞がれているから。
「獄さん!?」
慌てて身体を起こし獄さんから距離を取ろうとする名前ちゃんだったが、すぐさま獄さんの手が伸びてきて阻止される。後頭部を押さえ込む獄さんの筋張った手にはうっすらと血管が浮いていて、あぁ、きっと名前ちゃんの力じゃ逃げられないんだろうなと察してしまった。
「っ、ふ」
名前ちゃんが苦しそうに呼吸をしようとする音が、しんとした事務所内に響く。空却さんは当然のごとく凝視していたが、自分は必死で目をそらした。けれど、名前ちゃんの普段と違う艶っぽい声や、時折聞こえる水音に思わず視線をやってしまうのは、男の
性というやつで。
「ん!」
限界が近いのか、名前ちゃんが獄さんの腕をバシバシと叩き始めた。獄さんは離れるのを惜しむように、最後にひときわ激しいキスを披露してから渋々と名前ちゃんを解放した。へにゃへにゃとその場に座り込んだ名前ちゃんは肩で息をして、それから空却さんと自分のほうを一瞬振り返ると、うぅ、と呻き声を上げながらソファーに突っ伏してしまった。ソファーに、というかほぼ獄さんの身体にだけれども。
「……あ?」
少しの間のあと、おもむろに獄さんが起き上がる。すっかり乱れた髪を撫でつけながら、真っ赤な顔で突っ伏す名前ちゃんと、呆れた顔の空却さんと、名前ちゃんに負けじと劣らず赤い顔でうろたえる自分を順番に見て、眉間に皺を寄せた。
「……なんでいんだ」
空却さんがいよいよ「サイテーだな」と口を開く。
「未成年になんてもん見せやがる」
「いや、名前がいたから夢かと思って……来る前に起こせっつったろーが」
「八つ当たりしてんじゃねえ、万年発情弁護士。大体、起こすなっつったの名前だしな」
空却さんがそう言うと、獄さんは「は?」と言ってすぐそばで顔を伏せている名前ちゃんを見下ろす。
「てめーのせいか」
「どう見ても獄さん単独犯じゃん」
「教唆で同罪だ」
「私がいつ何を教唆したの」
「ちゅーする、って訊いたろうが」
獄さんは名前ちゃんの髪の毛をわしゃわしゃと乱して当たっていたが、いくらなんでも今回は名前ちゃんに分がある。
「はぁ……空却くんはいいけど十四くんには見られたくなかった」
「なんで十四がダメで空却はいいんだよ」
「空却くんはなんかもう汚れてそうだからいいよ」
「おい、名前、表出るか?」
言いながら空却さんが名前ちゃんの首根っこを掴むと、名前ちゃんは目の前の獄さんの身体にしがみつくのだからちゃっかりしている。
……というか、自分も別にそこまでピュアじゃないんすけど……。
名前ちゃんはどうにも自分に夢を見すぎな気がする。可愛い弟とでも思っているのかもしれないが、これでも一応年頃の男なわけで、事実、名前ちゃんの顔を見られなくなっていて――あれ、でも空却さんはいつも通りってことは、名前ちゃんの懸念もあながち間違いじゃないということなのだろうか。
「……もういいだろ、飯行くぞ」
「誰のせいだと思って」
「あー、悪かったよ、寝ぼけてたんだ」
ばつが悪そうに言う獄さんを、名前ちゃんがじいと見つめる。獄さんが自分から謝るのがそんなに珍しかったのだろうか、なんて失礼なことを考えた。
「獄さん、そんな疲れてたの?」
「え、」
「いつもそこまで寝起き悪くないのに、ちょっとお昼寝したくらいで……疲れてる?今日やっぱり帰る?」
あ、ふたりにはちゃんとご飯食べさせてあげるからね、なんて言いながら名前ちゃんは笑ってこちらを振り返るけれど、それより後ろの獄さんを見てほしい、そして自分たちに火の粉が飛んでこないようにしてほしい。
「……なんで俺だけ帰されてアイツらはおまえと飯食いに行くんだよ」
「獄さん、疲れてるときご飯食べずに寝るの最優先じゃん、無理して付き合わなくていいよ」
別に今日じゃなくても、と心配そうに獄さんの顔を覗き込む名前ちゃんに他意がないのは自分たちから見ても明らかだし、たぶん獄さんも分かってはいるんだろうけれど……。
「……おい」
「は、はいっ」
寝起きなうえご機嫌ななめの獄さんの鋭い視線に飛び上がる。獄さんはカツカツと革靴の底を鳴らしてこちらへ近付いてくると、ポケットから財布を取り出してお札を数枚握らせてきた。
「おまえらはこれで飯行ってこい」
「え……でも」
「俺は名前に話がある」
「フ、ホントに話だけかよ」
「空却さんっ」
空却さんは自分の手からお札をひょいと抜き取ると、踵を返して事務所の入り口へ向かって歩き出した。それに異を唱えるのは名前ちゃんだ。
「えーっ、なんでそうなるの!今日は私が全部出すつもりだったのに!」
「んなもん俺が付き合ってやる、寿司でも肉でも何でも食ってやるよ」
「そんなの食べ飽きてる獄さんに奢っても楽しくない」
「おまえは……」
獄さんはすっかり呆れた様子で髪をかき上げた。既に多少乱れていたとはいえ、そこまでぐしゃぐしゃにしてしまったのなら、もう外食をする気などないのだろう。名前ちゃんは未だ気付いていないようだけれど。
「今日のところは諦めろよ、名前。獄、もう外出る気ねえぞ」
「分かってんじゃねーか、クソ坊主」
ふたりの言葉に名前ちゃんが唇を尖らせる。そんな名前ちゃんを見ると空却さんは楽しそうにケラケラと笑って、今度こそ事務所を後にした。自分も少し悩んだあと、名前ちゃんに一声掛けてから空却さんについていく。
「……名前ちゃん、大丈夫っすかね?色んな意味で」
「今度獄抜きで飯誘ってやるか」
「それは空却さんがタダでご飯食べたいだけっすよね」
エントランスへ向かうエレベーターの中、空却さんの膝蹴りが自分の太ももを襲った。
* * *
「もー、何しに来たのか分かんない……」
空却くんと十四くんの後ろ姿を見送り、空いたソファーに腰を下ろす。一方、獄さんは立ち上がって荷物をまとめはじめた。
「帰るから車出せよ」
「獄さんの運転手しにきたんじゃないんですけどぉ」
鞄を持って戻ってきた獄さんは、ソファーに沈み込んでいた私に「ん」と手を差し出す。先程まで散々言い合っていたのに、こういうことは平然とやってのけるところに歳の差を感じる。
渋々と手を取るとひょいと持ち上げられて、ほとんど力を込めずに立ち上がらされた。
「明日休みか」
「え……うん」
「今日泊まってくだろ」
「女の子はそういうこと急に言われても困るんだからね」
「化粧品も着替えも一式置いてるやつが何言ってんだ」
獄さんが事務所の戸締まりをするのを後ろで眺めながらそんな会話をする。まあ、ふたりを追い出した時点でそうなるのは分かっていたけれども。
「獄さん、どうせ帰ってもすぐ寝ちゃうんじゃないの」
「寝るわけねーだろ、おまえがいんのに」
俺も明日は休みだしな、と言う獄さんは厭らしい笑みを浮かべて。
「……スケベ」
「うるせえ」
獄さんが最後に入口のガラス戸に鍵を掛けるのを横目に、エレベーターを呼ぶ。扉の前で待っていると、鍵の束を鞄にしまいながら近付いてきた獄さんがするりと腰に手を回した。
「そういえば、さっき夢かと思ったって言ってたけどさ」
「……それ掘り返すのか」
「夢の中の私は獄さんにいつもあんなことされてるの、いたっ」
不意に腰から手が離れたと思ったら、そのまま頭頂部をぶたれた。いや、そんな思いっきりじゃないし、大して痛くはなかったんだけれど。
到着したエレベーターに乗り込みながら、獄さんはまた不敵な笑みを浮かべてこちらを見下ろすのだった。
「自分相手に妬くなよ」
「妬いてないし自分じゃないし」
「ちゃんと教えてやるよ、夢の中でいつも何してるか」
「結構です」
……この人、ほんとにこの事務所の代表?空却くんと十四くんのほうがよっぽど落ち着いてない?いつまでこんな元気なの?男の人ってみんなこうなの?
そんな気持ちを込めて見返すと、獄さんは私の考えていることが分かっているみたいに「……何だよ」と不満げな声を上げる。
「俺だって言いたいことがある」
「別に聞いてない」
「それ一生言わせる気ねえだろ」
ポーンと音を立てて、エレベーターがエントランスに着いたことを告げる。先に降りると、後ろから獄さんがまた腰に手を回して、今度は力を込めてぐいと抱き寄せてきた。突然顔が近くなって思わず仰け反ると、追いかけるように獄さんが身を屈める。長いまつげがバサバサと音を立てるのが聞こえてきそう。
「空却と十四と仲良くするのはいいが、俺が一番だって忘れんな」
「……自分で言う?」
「事実だろ」
否定はしない。黙っていると、獄さんは嬉しそうににいと笑って、鼻先に軽く口付けてから私を解放した。
いつも使うコインパーキングに向かいながら、おもむろに腕を絡めると、獄さんは満足そうに微笑んでこちらを見下ろした。
「ちゃんと獄さんが一番好きだよ」
「知ってる」
……すっごいイラッとするのに、それ以上にそんな獄さんが好きなんだよなあと思ってしまうから、私も大概重症なのかもしれない。
Fin.