私は社会人になってまだ数年のひよっこで、獄さんは自分の事務所を持っている立派な大人の男の人で。歳だってひと回り近く離れているし、獄さんにとって私はきっとお遊びで、きっとそのうち飽きて捨てられるのだと思う。それでも、今だけでも獄さんの近くにいられるのなら、それでいいと思っていた。
「……名前ちゃん、何かあったっすか?」
獄さんの事務所の近くの喫茶店。獄さんのチームメイトの空却くんと十四くんにご飯に誘われ、事務所の終業時刻を待っていた。ぼうっとしていると、向かいに座っていた十四くんが、不意に身を乗り出して私の顔を覗き込んでくる。空却くんも十四くんも獄さんに負けず劣らず、それはそれは整ったお顔をしているから、そういうことをされると私は毎回心臓が飛び跳ねる心地がするのだ。
「えっ、あ、なんでもないよ」
「じゃあ十四が何の話してたか言ってみろ」
「え……っと」
慌てて笑顔を作ってみたものの、十四くんの表情は晴れず、隣に座っていた空却くんも険しい視線を向けてそんなことを言う。何の話、どころか話していたことにすら気付いていなかった。
「もしかして体調でも悪いとか……」
「違う違う!そんなんじゃないから大丈夫!」
「自分から大丈夫って言うやつは大体大丈夫じゃねーよ」
空却くんは、時々年上の私でもびっくりするような大人びた表情をする。言うことも妙に的を得ていて、その鋭い目で見つめられると、全部見透かされているのではないかと思ってしまうのだ。
「えー……うーん……言わなきゃだめ?」
「いや、名前ちゃんが言いたくないなら無理には、」
「おー、言え言え」
「空却さんっ」
わざとらしくかわいこぶって言ってみたが、空却くんには通用しなかったらしい。十四くんが優しいのはいつものことなので、たぶんこちらは気付いてすらいない。
「何悩んでんのか知らねーけど、名前のおつむだけで考えてても解決しねーよ、三人寄れば何とやらだろ?」
「別に私は空却くんほど馬鹿じゃないけど、まあ一理あるのは認める」
「テメエ……」
バチバチと火花を散らす私と空却くんの様子に十四くんは少し困ったような様子だったが、そこまで珍しい光景でもないので無理に止めることはしない。空却くんがキレたら止める、くらいの心づもりだろうが、さすがの空却くんも女の子相手にはキレない程度の良識はある。
「獄さんには言わないでね」
「なんだ、獄に何かされたのか」
「されないよ、獄さん大人だもん」
……それなんだよなぁ。
苦い思いが顔に出ていたのか、十四くんがつられたように綺麗な顔を歪ませる。自分より幼いふたりにこんな話をすることに少々罪悪感を覚えながらも、最近考えてしまうことをぽつぽつと話しはじめた。
「こんな話聞かせちゃってごめんね、ほんと忘れていいからね」
苦笑いをしてそう言うと、ふたりはじっと顔を見合わせて、それからなんだか呆れたような顔で私に視線を戻した。
「逆だろ」
空却くんの言葉に、ぱちぱちと目を瞬かせる。
「……え?」
「いや、アイツもう35だぞ?責任取ってやれよ」
「へ?」
「そうっすよ!名前ちゃんはまだ若いからいいっすけど!」
「え、えっ、ちょっと待って」
ふたりはずいぶん真剣な顔をして言ったけれど、私は何が何やらだ。
待って、と言っても素直に待ってくれるはずもなく更に畳みかけられる。
「金持ってるから女なんてとっかえひっかえできると思ってんのか?アイツの性格のヤバさは多少金持ってるくらいじゃカバーできねえぞ」
「名前ちゃんに捨てられちゃったら、獄さんきっと一生独り身っすよ……!」
「そ、そんなことないと思うけど……あ、」
私が突然そんな声を上げたからか、ふたりはぴたりと口を閉じて、私の視線の先を追う。そこには仕事を終えて合流しにきた獄さんが立っていたのだけれども、その頬はひくひくと引きつっている。
「……人の悪口でずいぶん盛り上がってたみてぇだな」
あまりの迫力に、普通なら縮み上がってしまうところだ。しかしチームメイトであるふたりはすっかり慣れた様子で、まるで気にする素振りもなく、
「悪口じゃないっす!獄さんのためを思って言ってるんすよ!」
「そうだぞ獄、おまえは名前に逃げられたら終わりだって自覚しろ」
「何の話をしてたんだよ、おまえらは……」
そう言いながら、獄さんはちらりと私のほうを見た。説明を求めているのだろうが、私の口から言えるはずがない。
「捨てるとか逃げるとか何だ。他に好きな男でもできたか」
四人掛けのテーブルで唯一空いていた十四くんの隣に腰を下ろすと、獄さんは頬杖をついてそう言った。
私も空却くんも十四くんも、ぽかんとして獄さんを見る。三人揃って同じリアクションをしたからか、獄さんのほうが少しぎょっとしていた。
「ひ、ひどいっすよ獄さん!なんでそんなこと言うんすか!」
「おまえなぁ、言っていいことと悪いことがあるだろ!?弁護士にはなれてもそういうことは分かんねぇのかよ!」
「おまえらには言われたくねえよ」
呆気に取られて何も言えなかった私に代わり、ふたりがすごい剣幕で言い返す。獄さんは不服そうにしつつも、擦れたことを言った自覚はあるのか、少し申し訳なさそうに私を見た。
「……名前はまだ若いんだ、俺よりもっと若い男にいつ目移りしても不思議じゃねえ。覚悟はしてる」
それこそ空却や十四のほうが歳近いし……って、さすがにそんな身近なところで浮気なんてしない――じゃなくて。
「獄さん、どこから話聞いてたの?」
「おまえらが俺の悪口で盛り上がってたとこからだろうが」
じゃあ、やっぱり聞かれていないのだろうか。それにしてはあまりにタイムリーなその台詞に、私の心臓はバクバクと早鐘を打っていた。
「……似た者同士じゃねえか」
「は?」
「獄、車のキー貸せ、俺ら先に出てるからふたりで話してから来いよ」
空却くんはつまらなさそうに、十四くんはなんだか温かい目で私たちを見守りながらお店を出た。獄さんは不思議そうな顔をしながら、先ほどまで十四くんが座っていた私の向かいの席へ移動する。
「……どういうことだ?」
……これは、全部吐いちまえ、ってことなんだろうな、空却くん的に。
そりゃ、獄さんの話を聞いて自分の心配はまるで杞憂だったんだって分かったし、同時に、なんでそんなこと言うのって思って、自分の考えの残酷さにも気付いてしまった。それを本人に言えというのか。
「あ……あのね、獄さん」
ここまで気を遣われて、何も言わずに車に戻ったらきっと怒られる。いい歳した社会人の私が、歳下のふたりに。いくら私でもそんな情けないことにはなりたくない。
「怒らないで聞いてほしいんだけど……」
「……それは内容次第だろ」
何を話していたのかは分からないが悪口を言われていたことだけは確か、という状況の獄さんの口からはそんな言葉が出てくる。私だってほとんど同じ話してただけなのに。
「――獄さんは私よりずっと歳上だし、独立してるすごい人だし、私なんてそのうち飽きて捨てられるんだろうなぁって話を……してました」
言いおわる前からすごい形相でこちらを見るものだから、思わず敬語になってしまった。
けれど、自分も近しいことを言った自覚があるからか、獄さんは気まずそうに頭を搔いて、ふうと息を吐く。溜息というより、自分を落ち着かせるため、みたいな。
「……んなことするわけねえだろ」
「うん、ごめんなさい」
「いや、俺も似たようなこと言った……悪ぃ」
獄さんが素直に謝罪するなんて。思わず目が点になる私に「何か失礼なこと考えてんだろ」と言いながら獄さんは立ち上がる。それからテーブルに残されたままだった伝票に気付いて顔を顰めたが「今日は相談料ってことで勘弁してやる」と独り言のように呟きながら手に取った。
「アイツらに相談せずに俺に言やいいだろ」
「言えるわけないじゃん……絶対ろくなことにならない」
「どういう意味だよ」
ぺち、と獄さんが伝票で私の頭を打った。ほら、それが答えじゃん。
これだけで済めば優しいほうで、今日の話をふたりきりのときにしようものなら、たぶんその晩には足腰立たなくされるのが目に見えている。
(……この流れで言えてよかったかも)
三人分の代金を渋々と支払う背中を見ながら含み笑いをすると、まるで背後にも目がついているみたいに獄さんは振り返った。
空却くんと十四くんが待っているであろう駐車場へ向かう道すがら、すすす、と獄さんの隣へ並び、険しい顔を見上げて言う。
「ふたりがね、私を逃がしたら、獄さん一生独り身だって言ってたよ」
「アイツら……」
「だから獄さん、私で妥協すれば」
ね、と小首を傾げてみせれば、即座に本気のデコピンが飛んできた。
「そういうことはもっとちゃんとしたときに言わせろ。大体……」
妥協じゃなくておまえがいいんだ、なんて、私の都合のいい幻聴じゃなかったら、一体何だって言うんだ。
Fin.